第三十四話 契約内容はご確認下さい

 今は声をかけてはいけないような、そんな空気だった。

 部屋は静まり返っていて、私たちが来た事に気付いていても不思議はないけれど、ニッシーが動く様子はない。ユズカちゃんを起こさないようにしているのか、それとも何か考え事でもしているのかはわからなかった。


「ニシ、邪魔するぞ」


 いつまでも眺めているわけにもいかないと思ったのだろう、ハヤトくんが遠慮なく声をかけた。振り返ったニッシーは驚いた様子だったけど、すぐにこちらへ手招きをする。なるべく音を立てないように近付いて傍に座った。


「悪いね、うちのおひいさんが寝ちゃっててさ」


 胡坐を掻いたニッシーの膝の上に、ユズカちゃんの頭があった。暗い座敷で明かりも点けずに膝枕……兄妹って、こういうものなのだろうか。


「あ、シスコンだって思ったでしょ?」


 私の視線に気付いたのか、ニッシーが気まずそうに笑う。思わなかったと言えば嘘だけど、堂々と肯定するのはさすがに憚られた。


「えー、そんな事ないよ!」

「全然ごまかせてないって。正直な方が嬉しいけどね」

「そうだな、リコは素直な方がいい」

「ハヤトはどんなリコちゃんでもいいんだろ、爆発しちまえバーカバーカ」


 ニッシーにからかわれたハヤトくんが「うるせーぞ」と笑いながら、ニッシーに蹴りを入れるフリをする。普段は落ち着いてる二人のこんな掛け合い、学内では絶対に見られない。


「この家の主だったばーちゃんが死んでから、ユズカは俺が育ててるようなもんでねぇ」


 ニッシーは私へ説明するように、のんびりとした口調で話し始めた。


「父親は滅多に帰らないし、母親は俺たちに興味がなくてさ……俺もユズカも、親の期待には添えなかったから。親同士も不仲でね、離婚するんじゃないかな」

「言ってたな」


 ハヤトくんは特に驚きもせず、何でもない会話のように相槌を打った。


「お前はともかく、ユズカちゃんには酷な話だな」

「俺はどのみち自立する年齢だしね。だけどユズカには、家の事でまでキツい思いをさせたくないんだよなぁ」


 深刻な話題なのに、ニッシーは穏やかに微笑んで、指先でユズカちゃんの髪を梳く。


「だから俺が毎朝メシ作って、洗濯も掃除も俺がやって、服まで作ってやってんの。で、コイツはそれが当たり前だと思ってる。こんないい兄貴、他所にはいないっつーの」

「甘えてるんだろ。今はまだ、そのままでいいさ」

「そーだよな……ずっとそのままでいて欲しい、とも思っちゃってるんだよね。俺、やっぱシスコンなのかもしんないわ」


 そう言ったニッシーの表情は、とても優しかった。ユズカちゃんを見つめながら、ほんとアホの子だけどさ、なんて言いながら頭を撫でている。溺愛には違いないのだろうけど、これを「シスコン」なんて言葉で片付けるのは、何だか下品な事のような気がした。


「ヒマ助みたいなもんだろ。アイツは俺の世話ばかり焼いてるんだ、昔から」

「そーいや入学したばっかの頃は、ヒマワリがハヤトの保護者だったっけなぁ」


 当時を思い出したのか、二人が顔を見合わせて苦笑する。

 もしかしたら、ハヤトくんとニッシーが互いに親友を名乗っているのは、家庭環境で苦労した者同士のシンパシーなのかもしれなかった。


「……なぁ、ハヤトさ、父親が居ないのってキツかった?」


 ニッシーがふと思い付いたように、ハヤトくんへ尋ねる。きっと私なら、いくら気になったとしても、こんな質問は怖くてできない。ハヤトくんがこれで怒るような人じゃないのは、私だって知っているけれど……ニッシー、凄い。


「いや、俺は別に。片親いない事が当たり前だった俺より、片親いなくなるお前の方がキツいんじゃないか?」

「俺はとっくに諦めてるけど……ユズカはまだ、あんな親でも必要なんじゃないかなって」


 家族仲の良い私から見れば、誰が一番キツいかなんて話に意味はないように感じた。きっと人それぞれに、違った苦悩があるのだと思う。こういう時、私は何も言えなくなってしまう……。

 ふと、ユズカちゃんが「ケイちゃん」とニッシーの名前を呼んだ。どうやら目が覚めてしまったようで、眠たげに目を擦っている。


「うるさいよぅ……って、ああああ、リコちゃああん!」


 開いた目が私を捉えた瞬間、ユズカちゃんは叫びながら物凄い勢いで起き上がり、私の前へ飛び込むように正座した。だけど勢い任せに抱きついてくる事はなくて、必死に我慢しているように見える。


「ユズカの方がうるせーじゃん」

「だってだって! だってリコちゃんだよっ!」

「こんな時間なんだから、もうちょっと静かにしなさい」

「……こんな時間に、どうして二人がいるの?」


 あっ、とニッシーがハヤトくんの顔を見て、ハヤトくんは私の顔を見た。そうだ、私たちはまだ用件を言ってない。


「そういやそうだな、こんな時間に何事? 忘れ物でもしてたとか?」


 気付かなかったけどなぁと首を傾げるニッシーへ、そういうわけじゃないんだとハヤトくんが告げる。そして彼の視線は、ユズカちゃんへ向いた。


「俺とリコは、ユズカちゃんにお願いがあって来たんだ」

「ユズカに?」


 ユズカちゃんが反応する前に、ニッシーが怪訝な声を出す。私たちが直接ユズカちゃんに頼み事だなんて、いったい何事なのだと心配するのは、兄として当然だろうと思う。しかし。


「おっけーですっ!」


 こちらはまだ何も言っていないのに、ユズカちゃんが元気良く了承の返事をした。これはさすがに、ちょっと心配になる……いつもの事なのか、ニッシーは盛大に溜息を吐いた。


「あのなユズカ、話を聞く前から引き受けるのは止めなさい。そのうち何かの詐欺に引っ掛かるぞ」

「だってリコちゃんだもん!」

「このリコリス教信者が……じゃあ、リコちゃんに学校行けって言われたら行くか?」

「うっ」


 ユズカちゃんはお庭の方へと視線を逸らしつつ、そそそそれは熟考せねばなりますまい、とか何とかゴニョゴニョと言っている。もしかすると「頑張ってみない?」くらいは言ってみてもいいのかもしれない……だけど、この子を不用意に追い込みたくはない。詳しい事情がわからないうちは、軽々しく口にしないでおこう。


「大丈夫だよ、そういう話じゃないから。嫌なら嫌だと言っていい。だけどユズカちゃんにしか頼めない事でね……ちょっと面倒かもしれないけれど、協力して欲しい事があるんだ」


 ハヤトくんが、普段は決して出さないような優しい声色で、ユズカちゃんに「お願い」を切り出した。


「いつも俺たちと一緒に、メグミって子が来てるのはわかる?」

「はいっ、美人だけど残念なおねーさんですよね!」

「ユズカ、そういうのは言わないでくれ……頼むよマジで、それ嫌われるやつだぞ」


 ニッシーが渋い顔をする。きっとこういう発言の積み重ねで、周囲から浮いちゃってるんだろうな……さすがに本人の前では、言わないと思うけど。


「そうだね、家庭科が残念なお姉さんだね」


 ハヤトくんは柔らかい声のまま、優しく笑う。こんな顔できるんですね……って、うちに来た時も思ったっけ。ハヤトくんはリコリスなんかよりも自然に表情を作れるのだと、私は最近になってようやく気が付いた。


「でもあのお姉さん、すごく勉強できるんだ。アメリカ出身の先生を相手に、英語で会話ができるんだって」

「すごーいっ、英語喋れるんだあぁ! 私も英語の授業が一番好きなんですっ!」


 ユズカちゃんが興奮気味に言った。それはハヤトくんもあらかじめ把握していた、数少ないユズカちゃん情報だった。


「それでね、ここにみんなで来てる時、メグミだけ暇そうなの知ってるよね?」

「あ、はい……まほペンの小説、読んでますよね」

「うん。でも一人だけ何の役にも立ててないって、きっと辛いと思うんだ。それでね、勉強教えて下さいって、ユズカちゃんからメグミに頼んでくれないかな?」


 ハヤトくんが「お願い」を口にすると、ユズカちゃんは目を真ん丸にした。ニッシーは堪えきれないといった風情で笑い転げている。


「わはははは、それいいじゃん! メグちゃんになら俺も勉強教わりたいわー!」

「……お兄ちゃん、それ、何かえっちぃ」


 気のせい気のせい、とニッシーがわざとらしく咳払いをする。ユズカちゃんはしばらく考え込んだ後、今度は恥ずかしそうに俯いてしまった。


「じゃ、じゃあ、引き受ける代わりに、ユズカのお願いもきいてくれますか?」

「もちろんいいよ。何かな?」


 ハヤトくんが笑顔で答えると、ユズカちゃんは唇の前でそっと両手を合わせた。


「一回だけでいいので……ハヤトさんと、デートがしたいです……」

「なっ……!」


 妹の口から飛び出た衝撃の願い事に、ニッシーが絶句した。

 ユズカちゃん、ハヤトくんの事が好きだったのか……中学生から見れば「大人の男性」なわけだし、憧れる気持ちはわからなくもない。私に飛びついてきた時とは別人のように大人しくなって、ハヤトくんを見つめるユズカちゃんは、完全に恋する女の子だ。


「やっぱり、ダメですか?」

「いや、俺は構わないよ。いつにしようか」

「いいんですか……っ!」


 すっかり上機嫌のユズカちゃんを、ハヤトくんがニコニコと眺めている。そしてお地蔵様みたいな顔になったニッシーが、私にそっと耳打ちをしてきた。


「リコちゃん的には、いいの?」

「よくない……けど、ハヤトくん、先にいいよって言っちゃったもんね……」

「だよなぁ……最後まで話聞いてからにしろよなぁ……」


 ドアホ、と言い残したニッシーが、足を崩さないまま畳の上に倒れこんだ。

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