第三十一話 その気持ちは本物ですか

 私たちが気配を殺しながら見守る中、ニッシーが左手で眼鏡を押し上げた。右手はメグミちゃんが握ったままだ。


「……えっと、俺なんかにそんな事を言ってくれるのは、ありがたいです。ハイ」


 落ち着きを取り戻したようでいて、どこか硬くなってしまったニッシーの声に、メグミちゃんの顔が歪んだ。


「でも俺、何の取り得もないただのヒョロメガネだし、メグちゃんならもっと釣り合う男がいるんじゃないかなー、なんて思うわけですよ。うん」


 真顔でニッシーが言い放ち、それを聞いて「そういう問題かなぁ」と言ったメイくんが、抱えた荷物を落としそうになる。慌てて抱え直そうとするメイくんと、その荷物を引き受けようとするカメヤンに向けて、ハヤトくんが自分の唇に人差し指を当ててみせた。その唇は音声を伴わないまま「しずかにしろ」の形に動く。


「釣り合いも何も……私は、ニッシーが好きなんだけど!」


 メグミちゃんが、ニッシーの手をますます強く握った。よく見ればその指先は、圧迫されてすっかり赤くなっている。ニッシーは相当痛いだろうに、その手については何も言わない。


「めちゃくちゃ大量にメシ食うよ、俺」

「知ってる」

「メガネだけど、あんまり頭は良くないよ」

「知ってます」

「顔も身体も貧相な、彼女いない歴二十年の童貞ですよ」

「私は、格好良いと思うけど……って、最後は本気でどうでもいいから!」


 こんな場面なのに、そのやり取りはコミカルにも見えた。同じ事を思ったのか、ヒマちゃんが笑いを堪えている。それなのに、カメヤンとハヤトくんの表情はどんどん曇っていく。

 不意にニッシーが「あのさ」と、かなり強めに声を出した。


「メグちゃん。俺の描いた絵、見た事ある? ないよね?」

「えっ?」

「ないよな?」


 戸惑うメグミちゃんを無視するように、ニッシーは強い口調のままだ。


「俺の事、何も知らないよな。何を目指してこの大学に来て、どんな作品を作ってるのか。普段はどんな生活をしてるのか。知ってるのなんて、ヒマワリから聞いた話くらいだろ。違うか?」


 その指摘に、メグミちゃんは何も言えなくなってしまう。ニッシーは左手でゆっくりと、メグミちゃんの両手を解いていった。


「多分、メグちゃんが思ってる程、俺はイイヒトじゃないですよ。だからもっと、俺を知ろうとしてみて欲しい。うっかり幻滅しちゃうくらいに、俺の生態を観察してみて」

「幻滅なんか、しないのに……」


 メグミちゃんが、言葉を絞り出す。完全に解かれたメグミちゃんの手を、今度はニッシーの方から、そっと握った。


「うん。本当にそうだったら、俺も嬉しいです。期待してます。だから俺は、今よりもっと、メグちゃんと仲良くなりたいなぁと思います」


 諭すようなニッシーの声に、メグミちゃんが肩を震わせて頷く。泣かないようにするので精一杯だという雰囲気に、アイリちゃんがぐず、と鼻を啜った。


「まぁ、メグちゃん美人だし、二人きりで乳でも掴まされてたら、俺きっと逆らえなかったけどな! しばらく脳内でお世話になりまぁす!」

「……ちょっとぉ、どーしてそっち方向に行くのよ! 人の勇気を何だと思ってんのよ!」


 唐突なシモネタに涙も気まずさも吹き飛んだのか、顔を赤くしたメグミちゃんが、ニッシーの背中をバシバシと叩き始めた。


「いててて、俺マゾっ気ないんだけど!」

「うるさいバカぁ! 逃げるなぁ!」

「おほほほほ、捕まえてごらんなさーい」


 走って逃げ出すニッシーと、全力で追いかけるメグミちゃん。二人を指差して爆笑するヒマちゃんとカメヤン、やれやれと肩をすくめるメイくん、黙ったままで口角を上げるハヤトくん……そんな光景を見ながら、アイリちゃんが涙目で笑っていた。


「私も、何にも知らないや……もっと仲良く、なりたいな」


 アイリちゃんの視線の先には、ヒマちゃんと一緒に笑っているカメヤンの姿があった。


 ニッシーの家は、大学から歩いて五分ほどの、住宅地にある一軒家だった。古くて趣のある昔ながらの日本家屋に、庭石や灯篭があるような和風のお庭。周辺の住宅とは、その広さと佇まいに格段の差があった。

 広めの玄関から入ってすぐの引き戸を開けると、そこは二間続きの和室だった。目に付くのは、掛け軸や壷が飾られた床の間、お仏壇。部屋の左手の雪見障子、その向こうに雨戸の閉まった縁側。そして場違い感のある足踏みミシンと、ソーイング用のトルソーが男女一体ずつ。


「父親は単身赴任中、母親は介護絡みで里帰り中。おかげで年末まで、この家で妹と二人暮らし」


 ニッシーは押入れから引き出した座布団の山を放り投げると、閉まっていた縁側の雨戸を次々と戸袋へ押し込み始めた。


「ボロい家だけど広さだけはあるから、好きに使って。アレコレ広げっぱなしでも全然構わねーし」

「好きにって言われても、ニッシーがいなかったら家の中に入れないって」


 座布団を配っていたメグミちゃんが笑うと、ニッシーは「実は門番がいるんだな」と言った。


「妹がずっと家にいるから、女子が来たら開けるように言っとくよ。紹介しとくわ」


 そう言うとニッシーは、自分のリュックに詰め込んでいた衣装の材料を取り出すと、軽くなったリュックを抱えて部屋の外へと出て行った。自室に置いてくるんだろう。


「……ユズカちゃんか」

「ああ、ユズカちゃんだな……」


 カメヤンとハヤトくんが、妹さんらしき名前を口にした。ずっと家にいるって言ったけど、学校は行っていないのかな……色々と考えていると、廊下の方からドタドタと足音が聞こえてきた。物凄い勢いで、引き戸が開く。


「リコリスちゃああああん!」


 黒のワンピースを着た小柄な女の子が、弾丸のように飛び込んできて、一直線に私へ飛び付いてきた。彼女を支えきれなかった私は、そのまま後ろ向きに転がってしまう。


「本物っ、本物のリコリスちゃんですか!」

「は、はい、本物です……」

「ぎゃああああ! いい匂いするうう!」


 ユズカちゃんだと思われる女の子は、犬のようにクンクンと鼻を鳴らして、私の匂いを嗅ぎ始めた。長い黒髪が、さらりとその背を流れていく。


「あの……ちょっと、すみませんが、えっと」


 せめて起き上がりたくて声をかけると、彼女は水でもかけられたように「ぎゃあ!」と奇声をあげた。マトモな会話が出来る気がしない。


「あのあの、私、西ニシ啓一郎ケイイチロウの妹のユズカです! ゆずの香りって書きますっ、中学二年生です!」

「あっ、はい、オノミチリコと申します……」

「ぎゃわー! リコリスちゃんの本名キター!」


 ユズカちゃんは大興奮で、とうとう私の胸に顔を埋めた。私は押し倒されたまま、どうやってこの子を落ち着かせようかと考えた。しかし。


「あの、わっ私、リコリスちゃんのファンですっ! だいだいだいだいっ、大ファンなんですっ!」

「あっ……そうなんだぁ、ありがとぉ!」


 彼女の口から「ファン」という言葉が飛び出した瞬間、私の口は反射的に、イベント用の声でお礼を述べた。


「リコ、すっごく嬉しいなっ!」


 自分の頭の中で、何かのスイッチが押される音が聞こえた。みんなが唖然としているけれど、こればかりは仕方がない……この子は、リコリスのファンなんだ!


「ぎゃああああ! 神! この世に女神がいたぁ!」

「やだぁ、ユズカちゃんってば大げさなんだからぁ」


 笑顔で頭を撫でてあげると、ユズカちゃんは「ひゃあ!」と声をあげ、嬉しそうに目を細めた。少しだけ、扱い方がわかってきた……ような気が、しなくもない。


「ユズカぁ! 迷惑かけんなって言っただろーがぁ!」


 洋裁用の道具を抱えて戻って来たニッシーが、力任せにユズカちゃんを引き剥がした。それまでの間、困惑するみんなに見守られながら、私は延々とユズカちゃんに匂いを嗅がれ続けたのだった。

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