第二十七話 お前の未来を見せてみろ
ハヤトくんが夕食の誘いを快諾してくれたので、お父さんの運転でパウザまで行く事になった。
道中、お父さんは喋らなかった。いつもなら鬱陶しいくらいペラペラと喋るのに、こちらが不安になるくらい、ずっと黙り込んだままだ。
「こちらから誘ったんだし、奮発しちゃっていいかしら?」
「そうだね、お詫びでもあるし。サッちゃんに任せるよ」
お母さんの提案には、特に間を空ける事もなく返事をした。機嫌が悪いわけでも無さそうだから、ハヤトくんへ謝る言葉を考えているのかもしれない。
私はハヤトくんを家まで迎えに行く事にして、アパートの前で車を降ろしてもらった。
ローヒールのパンプスで少しだけ音を鳴らしつつ階段を上がり、通い慣れた部屋の呼び鈴を鳴らす。直ぐに出て来たハヤトくんは、私を室内に引き入れると、そのまま扉を閉めてしまった。パンプスを脱ぐ間すらなく、気付けば彼の腕の中だ。
「悪い……少しだけ」
擦れた声で囁いた唇が耳朶に触れ、私も彼の胸にそっと顔を埋める。しかし私の鼻腔に触れたのは、いつものハヤトくんの匂いではなかった。
きっと直前まで吸っていたのであろう煙草の匂いの中に、ほんのりと香水のような甘い香り。何となく言い出せなかった違和感は、そのまま心の奥底へと沈んでいった。
「体型、戻ったんじゃないか?」
ハヤトくんが呟いた。暗に「太った」と言われたわけだけど、「戻った」のなら悪い事ではない。しかし実は、まだ体重は戻っていない。
「体重、まだ戻ってないんだけどな」
「脂肪の割合が増えたんじゃないか?」
「ちょっと!」
ついムキになった私を見て、ハヤトくんがクックッと笑う。軽く胸を叩いたけれど、背中に回された腕は解いてもらえないままだ。
「これはこれでいいんじゃないか、俺は柔らかいのも嫌いじゃないぞ」
「もー、やらしい事言わないでよっ。へんたーい!」
「ははは、今更だな」
ますます笑い出すハヤトくんの足を軽く蹴飛ばすと、ようやく腕が解かれた。
「ボチボチ行くか」
「ん、そだね」
スニーカーを履くハヤトくんを尻目に玄関の扉を開け、一足早く通路に出ると、スガ先輩が灰皿の前で煙草を吸っていた。私が挨拶をすると、先輩も笑顔を返してくれる。
手紙を燃やしたあの時以来、私と先輩は一度も顔を合わせていなかった。こうして普通に接するのは、きっと勇気がいるんだろうな……私も普通にしなければ、と心の奥で気合を入れる。
「イシバシ、帰って来たのか?」
「はい!」
私が勢い良く返事をした途端、先輩が堪えられないといった風に笑い出す。遅れて出て来たハヤトくんがちわっす、と声をかけると、先輩はますます愉快そうに笑った。
「今から晩飯か?」
「そうです、リコの親御さんと四人で」
「おわぁマジか。やっぱお前ら展開早ぇな」
先輩が目を見開いた。何だか誤解されているような気もするけれど……私が言葉を挟む前に、ハヤトくんが言葉を繰り出していく。
「こういう事に早すぎるって事はないでしょう」
「まぁ……イシバシだしなぁ。お前の親にはいつ会わせるんだ?」
「そうですね、冬休みにでも」
ハヤトくんが誤解を上乗せしていく。でもきっと、冬休みには本当に会わせるつもりなんだろう。この不器用な人は、心にもない事は言わない人なんだ。
「学生のうちに結婚しちまいそうな勢いだな。式には呼べよ」
式、という単語を聞いた途端、自分の頬が熱くなったのがわかる。そんな私を見た二人は揃って目を細め、口角を上げた。
「スガさん、その時はスピーチ頼みますよ」
「勘弁してくれよ、そんなもんニシにやらせろや」
「アイツはてんとう虫のサンバを歌う気満々なんで」
「わははは、昭和かっ」
どこまでが本気だかわからない会話で、私の反応を見ながら盛り上がる二人。からかわれているのだとわかってはいるけど、笑いながら話す二人が本当に楽しそうで、それが嬉しくてたまらなかった。
先輩と別れ、二人でパウザへ向かう。お店は駅の近くだ。日が落ちてきたのを良い事に、私たちはそっと手を繋いだ。
夕暮れの街を、一緒に歩く。黄昏の語源は「誰そ彼」というのだったっけ――広がる闇を不安に感じた途端、胸の奥底に沈んでいたはずの違和感がむくりと首をもたげる。ありえないとは分かっていても、彼の姿を見失ってしまいそうで、繋いでいた手に力を込めた。
「どうした?」
「……ハヤトくん、香水つけてる?」
思い切って、聞いてみる。ハヤトくんは「いいや」と短く返事をした。それなら甘い香りの正体は、一体何だというのだろう。私がすんすんと鼻を鳴らすと、ハヤトくんが苦笑した。
「洗剤の匂いかもしれんな。親父の家では、姉さんが面倒を見てくれていたんだ……ああ、姉と言っても兄さんの嫁だが」
「お義姉さん?」
お義姉さんがいるというのは、初めて聞いた。確かお兄さんはお母様と年が近かったはずだから、別に不思議な事ではない。お義姉さんも、親世代の方なのだろうか。
「お義姉さんって、どんな人?」
何気ない質問のつもりだった。だけどハヤトくんは、急に足を止めた。
「……二十六歳だと、言っていたかな。兄さんとは十五歳差か」
予想外の発言に、一瞬だけ思考が止まってしまう。そしてハヤトくんが続けた言葉は、ますます私の頭を真っ白にさせた。
「兄さんは若い頃、うちの母さんに惚れてたんだが……義姉さんは、母さんに似ているな」
六つ年上で、ハヤトくんのお母様に似ている、血の繋がらない女性……これは嫉妬してもいいやつだろうか、と少しだけ思う。そんな自分が情けなくて、繋いでいた手を振り解いた。しかしハヤトくんの指は構わず追いかけてきて、私の指を掬い取る。
「俺としては、母親が増えた気分だ」
ハヤトくんはそれだけ言うと、私の手をもう一度、そっと握った。
パウザに入ると、奥まった半個室のような席に通された。先に来ていた両親とハヤトくんが挨拶を交わし、お父さんはハヤトくんへ、深々と頭を下げた。
「娘に、退学の理由を聞いた。先程の態度といい、本当にすまなかった」
「ああ、いえ、どうぞお気になさらず。何の相談もしないまま、自分で選んだ事ですので」
ハヤトくんはいつもの調子で淡々としていて、だけど私の方をチラリと見ると、少しだけ目を細めた。何となく「話したのか」と叱られているような気がする。
「そういうわけにもいかない。どうだろう、再入学にかかる費用はこちらで負担させて貰えないだろうか」
お父さんの申し出に、ハヤトくんは「お気持ちだけで」と返事をした。
「その代わりと言っては何なのですが、どうしてもお願いしたい事があります」
ハヤトくんは、真面目な表情のままでお父さんを見つめている。困惑したような表情のお父さんが私の方を見たけれど、そんな風に見られたって、私にも何の事だかわからない。小さく左右に首を振ると、お父さんは諦めたようにハヤトくんへ視線を戻した。
「わかった、善処させて貰おう」
「それを聞いて安心しました。では、リコさんと自分の交際を、認めて頂けませんか」
ハヤトくんの口から予想外のセリフが飛び出して、お父さんが困った表情で黙り込んだ。一瞬の沈黙の後、笑いを堪えているお母さんの顔が見えた。
今度はハヤトくんの方が、お父さんへ向かって深々と頭を下げたので、私も一緒に頭を下げた。まるで結婚の挨拶みたいけれど、私たちは「ずっと一緒に生きていく」と決めたのだから、この状況に何も疑問は抱かなかった。
「交際は、認めてもいい。だが結婚はまた別の話だ」
その言葉を受けて顔をあげると、ずっと真顔だったお父さんが、こちらを見ながら笑っていた。
「だから、認められるような付き合いをしなさい。そして、時々は家に来なさい。君がどんな男になっていくのか、俺に見せ続けると約束して欲しい。いいね?」
「勿論です」
ありがとうございます、とハヤトくんが言った。私も一緒にお礼を言おうと思ったけれど、何だか胸が詰まってしまって、声を出す事が出来なかった。
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