第二十五話 何もない、何者でもない

 振り返ればそこにいたのは、ダークスーツ着用の男性。いかにも出張帰りですといった風体の、アンダーリムの眼鏡をかけたオジサン――つまり私の父親、小野道オノミチ秀彦ヒデヒコであった。


「お前は、ヒマワリちゃんとか言う友達の家に、泊まりに行っていたんじゃないのか」


 お母さん、私の行動を喋っちゃってる。お父さんは訝しげにハヤトくんを見つめて、そして忌々しげに「誰だ」と言った。これはきっと、二人でどこかに泊まったと誤解されてる……のかな。ここ、空港の到着口なんだけど。


「初めまして、イシバシハヤトと申します。リコさんとは……」

「あー、聞きたくないなー!」


 ハヤトくんの挨拶を遮って、お父さんが、拗ねた。この人はいつもこうなんだ、お母さんがいれば適当に宥めてくれるんだけど……。


「お父さん、私、昨日は本当にヒマちゃんの家で遊んでたよ。ここにはハヤトくんを迎えに来たんだよ。ほらほらお土産貰ったの」


 私はお父さんに、ハヤトくんから預かっていた空港売店の袋を見せた。別に貰ったわけではないんだけど、今は「東京帰り」という事実を見せ付けるしかない。


「空港で買った菓子なんですけど、よろしければ」

「俺だってトーキョーバナナ買ってきましたー!」


 子供みたいに拗ねる父、四十路後半。ハヤトくんは困った顔で私とお父さんを交互に眺めて、それからふふん、といつものように笑った。嫌な予感しかしません。


「じゃあ、ご迷惑のようなので持ち帰る事にします。お父様の好物だと聞いていたんですが、出過ぎた真似をしまして申し訳ありませんでした」


 ハヤトくんは私の手から、お土産の袋を回収した。本当に私用のお土産だったのか……お父さんの好物って、何も教えた事、ないけど?


「俺の好物……芋羊羹か?」

「いえ、ウエハースバーを」

「……!」


 お父さんが絶句した。ウエハースバーは、夏にメイくんがくれたお土産のうちの一つだった。確かにお父さんは気に入っていた……私をそっちのけにして食べたから、それを面白がってメイくんに話したんだ。つまり情報源はメイくんか。それは、リサーチ能力が一気に跳ね上がったね……。


「そ、そこまで下調べをしてくれたのなら、貰ってやらん事もない」

「ありがとうございます」


 ハヤトくんが笑顔で袋を渡すと、お父さんの表情が一瞬緩んだけど、すぐに元へ戻ってしまった。正直言って面倒臭い。


「ただし話は聞かせてもらおう、今からこのまま家に来い」

「はぁ?」


 最後にやさぐれた声を出したのは、私だ。ハヤトくんがクックッと笑っているけど、はっきり言ってそれどころじゃない。だって、このまま家にって。自分の部屋を片付けてないだとか、そういう事情もあるけれど……何より恋人の家を訪問するのって、こんなノリでやる事でしたっけ?


「お父さん、ハヤトくんも荷物あるし迷惑だから」

「何、紹介できないような彼氏なのか? 俺、リコをそんな娘に育てた覚えはないぞ!」


 お父さん、お土産を抱えたままで膨れた。ここで「そういう問題じゃない」と言っても、この人は聞く耳なんて持ってやしない……だからもう、最初からそういうのは言わない。

 ハヤトくんは私たちを眺めながら、さも愉快そうにニヤニヤしている。助けてよって視線を送っても、きっと助けてはくれないんだろうな。


「……ハヤトくん、荷物どうする?」


 私がそう尋ねると、ハヤトくんはクククと笑ってから、そのまま持って行くさ、と言った。


 空港からタクシーで帰宅すると、お母さんがウキウキでお茶の用意をしていた。


「はじめまして、イシバシハヤトと申します。リコさんとは……」

「あらー! いつもリコがお世話になってるわねー!」


 お母さんが、満面の笑みでハヤトくんの言葉を遮った。ものすごい既視感だ……なんかさっきも、こんな光景を見た気がする。雰囲気は真逆だけど。

 ハヤトくんをリビングに通すと、お母さんが人数分のコーヒーを持って来た。そしてウエハースバーがお茶請けとして鎮座しているのを確認した途端、ずっと渋い顔だったお父さんの眉が下がった。お母さん……わざとだ、これ。


「おもたせでごめんなさいね。お父さん、これ大好きだもんねー」


 完全にお母さんペースな場の空気、なんとなく居心地が悪い私……ハヤトくんも普段の毒気はどこへやら、ニコニコしている。こんな顔できたんですね。


「それでイシバシくんは、リコと同じ大学なのかしら?」


 笑顔のお母さんの問いかけに、ハヤトくんは一瞬躊躇したように見えた。そして、言い辛そうに口を開く。


「実は、事情があって退学しまして」

「あらあ、それじゃお仕事を始めたのね?」

「いえ……春に復学する予定で、今は何も」


 あらそお、と能天気な返事をするお母さんとは対照的に、お父さんの眉間に深い縦皺が刻まれていく。


「つまり、いま、お前は無職か」

「……そういう事に、なりますね」


 あえて「無職」というと、凄く悪意があるような気がするけれど……ハヤトくんは普段のように強気で笑うわけにもいかないと思ったのか、神妙な顔でお父さんを見つめている。


「帰りなさい。……無職の男と遊ばせる為に、娘を大学に通わせてるわけじゃない」


 お父さんが、普段の子供みたいな我侭とは明らかに違う口調で、そう言った。親の顔だ、わかる。わかるけれど、あんまりだ。だってハヤトくんが学校を辞めたのは、私のせいなのに。私があんな写真を撮らせていなければ、退学だなんて事にはならなかったのに――何の事情も聞かないまま、そんな言葉で帰れだなんて!


「お父さん!」


 食い下がろうとした私の肩に、ハヤトくんはそっと手を置いて、ただ目を閉じて頭を振った。


「今日は帰ります。日を改めます」


 立ち上がるハヤトくんに、お母さんがごめんなさいねと頭を下げた。つまりそれは「誰も取り成せない」と同義だった。そんな、そんなのってないよ。せめて事情は伝えないと、誤解されたままになってしまう。


「待って、あのね、ハヤトくんが辞めたのは……」

「リコ!」


 言いかけた私の唇を、ハヤトくんが右手で塞ぎ――その様子を見ていたお父さんが、一気に激昂した。


「気安くうちの娘に触るな! 今すぐ帰れ!」


 ウエハースバーをお皿ごとハヤトくんに投げ付けて、お父さんは書斎に行ってしまう。ハヤトくんは散らばったウエハースバーを拾い集めてお皿に戻し、じゃあ、とお母さんに挨拶だけして、そのまま玄関へと向かった。

 私がハヤトくんの後を追うと、玄関の扉を出た途端、ハヤトくんは私を屋内へと押し戻した。


「いいか、これ以上拗らせるな。親父さんとは喧嘩するなよ……春には必ず、また来るから」

「……わかった」


 彼の意見を、尊重するしかなかった。これ以上拗れたら、二度と修復の機会は与えられないかもしれない。「またね」とだけ言葉を交わして別れ、自室に戻ろうかとも思ったのだけれど……いちおう、書斎へ顔を出す事にした。気まずい空気になるのはわかっているけれど、どのみち避けては通れない。

 扉の前で数回深呼吸をして、それから覚悟を決めて一気に扉を開けると、中ではお母さんがお父さんを追い詰めていた。部屋の隅でウサギのように震えているお父さん、仁王立ちで逃げ道を塞ぐお母さん……。


「お皿なんて投げて、怪我させたらどうするつもりなの!」

「リ、リコの為を思って俺はね?」

「それは食べ物を粗末に扱っていい理由にもなりませんからね!」


 ……そこには、お母さんに叱られて涙目で拗ねている、情けないお父さんの姿があった。

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