第二十二話 愛の形は二人で決めよう
エアコンもつけずに抱き合っていたせいで、気付いた時にはすっかり汗まみれだった。
湿った服を脱いで、洗面所に干した。着替えがないのでシャツを借りたけど、できれば着る前に汗を流したかった。
「痩せたな……大丈夫か?」
脱いだスーツを手にしたイシバシくんが、下着姿になった私を見つめていた。体重はまだ戻っていない。俺のせいかと聞かれる前に、ただの夏バテだと返事をした。
「今年の夏、暑すぎなんだもん。食欲なくなっちゃったよ」
「そうか……もう、平気なんだな?」
きっと、本当の理由には気付いているんだろう。私は平気だよと言って、残る下着も脱ぎ捨てた。
「相変わらず、思い切りがいいな」
「うん、お風呂入りたい。一緒に入る?」
ん、とイシバシくんは曖昧な声を出し、スーツをハンガーにかけながら「残念」と言った。
「風呂に湯を張るのは時間かかるぞ。酒も入ってるし、シャワーにしておけ」
そこはどちらでも良かったのだけど、イシバシくんは「二人で浸かる広さもないしなぁ」なんて言いながら残念そうな顔をしている。温泉行こう、とか言い出しそうだ。
「シャワーでいいよ、背中流してあげる」
「じゃあ、俺もお返ししないとな。手が滑ったらすまんな」
これは酔ってるのか、それとも酔ったふりをしているのか……とりあえず、背中をべちんと引っ叩いた。
古いアパートの小さな浴室、水温が安定しないシャワーを使って、お互いの身体を洗いっこした。イシバシくんは案の定「リコが可愛いのが悪い」なんて笑いながら、泡だらけの手を滑らせまくっていた。叩いて抵抗する代わりに、私もちょっとだけ手を滑らせてやった。
しょうがないよね、イシバシくんが可愛いのが悪いんだもんね。
シャワーの後、借りたシャツを羽織ってソファーに寝転がった。どちらからともなく抱き合って、近付きすぎて鼻先が触れる。ふふふ、と笑みがこぼれた。
「なぁ、リコ。俺は大学に戻るべきだと思うか?」
その問いは軽く放たれたけれど、軽く答えていいものではないと感じた。これはイシバシくんの人生を左右する、とても大切な問いかけだ。
「私は、イシバシくんの行きたい場所へ、行って欲しいと思ってるよ」
そう返事をして、抱き付く腕に力を込めた。本当は離れたくなんかないけれど、それより大切なものがあるんだ……思いは伝わって欲しいけど、本音を知られたくはない。フクザツだ。
「行きたい場所は、アンタの隣だ。何憚ることなく傍に居ていいのなら、俺は一秒でも長くリコの隣にいたい」
イシバシくんの腕にも、力が篭った。
「リコは、どうして欲しい?」
そんなの、決まってる。ここに戻って来て欲しい、いつだって傍にいて欲しい、一緒に大学を卒業したい。
だけどそれは、それがイシバシくんの為になるのならという、前提付きの話。私が足を引っ張っちゃダメなんだ。
私なりに真剣に、彼の未来を考えていたつもりだった。このまま大学で描き続けるより、お弟子さんになった方が、集中して絵を学べるのではないだろうか――そんな思いが、私の中で膨らみつつあった。
ずっと一緒に生きて行こうと、私たちは約束をした。今は少しぐらい会えなくたって、また一緒に歩き出せる日が、いつか必ずやって来る。それなら私は、頑張れる。
だけど彼自身が、私の隣にいたいと言った。彼の人生を決めるのは、彼の考えであるべきだ。私のモノサシで決め付けて突き放すのは、ある種の裏切りになりはしないだろうか。
わからない。しばらく考えてみたけれど、答えは出ない。
イシバシくんは、ずっと私の返事を待っている。答えを出す事が出来ないのなら、せめて正直でいようと決めた。
「帰ってきて欲しいな」
心の奥で、迷いがくすぶる。だけどイシバシくんが「良かった」と言ったので、私は悩む事をやめた。
彼は悩んでいたんじゃない。ただ私に「帰ってきて」と言って欲しかっただけなんだ。
「俺は単位を取れるだけ取ってあった。だから年末までに手続きをすれば、春から同じ学年のまま戻れる事になってる。まぁ来年の受講科目がギチギチだけどな」
「なってる……って?」
確定事項のように言うイシバシくんが不思議で聞いてみると、彼は驚きの回答をした。
「教授に話を通しておいたんだ。家の都合で半期休みたいけど、休学だと学費がかかるから、できれば一旦辞めさせてくれってな」
悪戯が成功した子供のように、目を細めて得意げに笑っている。そんな彼の表情を見た私の頭に浮かんだのは、ヒマちゃんたちが万歳三唱をする姿だった。
「もう、そういうのは先に言っといてよっ」
本当に嬉しかったのだけど、わざと頬を膨らませて拗ねてみる。
「はは、悪い。まぁ手続きしない可能性もあったからな、勘弁してくれ」
頭を撫でられ、頬にキスをされた。それからイシバシくんは、私に覆い被さってきた。
「可愛いな。そんな顔されたら、齧り付きたくなるじゃないか」
そのセリフを聞いた私は、抱いてくれるのかな、と思った。一度は断られてしまったけれど……今なら、してくれるんだろうか。
「いいよ、たべちゃっても……」
自分の顔が、火照るのが分かった。はしたない事を言ってる自覚はあるし、恥ずかしいし、ドキドキする。だけどイシバシくんは耳まで赤くなって「違う」と言った。
「膨れた頬が、桃みたいだなって……アホな事を言った、すまん」
勘違いしてしまった恥ずかしさよりも、抱いてくれない事への寂しさの方が上だった。
「私とじゃ、嫌?」
食い下がろうとしたわけじゃないけど、嫌がられてたら悲しいな、と思って聞いた。イシバシくんは少し考えた後「リコじゃなきゃ嫌だな」と言った。じゃあなんで、と責めるような声が出てしまう。
「俺は、母さんが苦労してるのを見てきた。俺に稼ぎがなければ、リコを同じ目に合わせてしまうだろ?」
彼の指が、そっと私の頬を撫でた。私よりもイシバシくんの方が、よっぽど寂しそうに思えた。
「親父と同じになるのが、怖いんだ。自分の教え子を孕ませて、産むだけ産ませて放り出して――ああ、親父は母さんが通ってた美大の教授だったんだが」
イシバシくんは、ご両親について話し始めた。あけすけなヒマちゃんですら話さなかった、イシバシくんのお家のこと。
「俺には腹違いの兄がいるんだが、母さんが大学を中退して俺を産んだ時、兄さんも大学生だった。簡単に上手く行くわけないよな、後先考えなさすぎなんだよ」
こんな時に何を言えばいいのか、よくわからなかった。そんな私にも、一つだけ伝えたい事があった。
「イシバシくんが産まれてきてくれて、良かった」
もしもご両親が、その後先を考えていたら、今ここにイシバシくんはいなかったのかもしれない。そんな世界を考えたら、ただの想像なのに悲しくなってしまう。
「……俺も、産んで貰えて良かったと思うよ。おかげでリコに会えたからな、人生も捨てたもんじゃない」
そう言って、イシバシくんは歯を見せて笑う。すっかり素直になったイシバシくんを見て、私も彼も出会った事で変わったんだな、と思った。きっと彼はもう、自分を守る為の毒を吐く必要がないんだ。
私が彼を変えたんだ。今だけでいいから、そう自惚れていたかった。
「アンタの愛は、ちゃんと伝わってる。セックスなんかしなくても、俺にはしっかり届いてる……リコは、どうだ?」
イシバシくんの視線が、真っ直ぐに私を射抜いた。
身体を重ねる事だけが、愛の証というわけじゃない。私たちの愛の形は、私たちで決めていけばいいんだ。
「届いてるよ……いっぱい、いっぱい届いてるよ!」
「そうか、それなら良かった。でもこんなもんじゃないぞ、覚悟しろよな」
「私だってそうだよー、本気出しちゃうんだからね!」
顔を見合わせて、何となく笑い合って、そしてもう一度ぎゅっと抱き合った。
たくさんのキスをして、たくさん触り合った。イシバシくんが気持ち良くしてくれたから、私もお返しをしてあげた。喜んで貰えた事が、ただ嬉しかった。
私も彼も、相手の事ばかりを考えていた。身体は繋がなかったけど、心は確かに繋がっていると感じた。
何度も大好きだと伝え合って、たくさんの愛してるを抱えて、私たちは眠りに落ちていった。
同じ朝を迎えた私たちは、別々の場所に向かう為の準備をした。もう寂しくはなかった。
イシバシくんは「どうぜすぐに戻ってくるんだ、見送りはいらんぞ」と言って、逆に私を大学まで送ってくれた。スーツ姿のイシバシくんが現れた人文学部棟は、やっぱりちょっとした騒ぎになって、同じゼミの女子がこちらを指差して盛り上がっているのが見えた。
講義室の前で、イシバシくんにまたねと言った。またな、と言って踵を返した彼の背中に、私はもう一言だけ、叫んだ。
「ハヤトくん、待ってるからね!」
名前を呼ばれて振り返った彼は、頬も耳も赤い。だけど笑顔で「待ってろよ!」と手を振って、ロビーへの角を曲がって行った。
私が講義室に入ると、同じゼミの女子二人が私に手招きをした。きっと質問責めにされるのだろうけど、今なら何を聞かれても構わない。どうせ噂されるのなら、汚い嘘よりは真実がいい。
ワクイさんの隣に座ると、その向こうに座っていたフジタさんからチョコプレッツェルが差し出されたので、手で受け取らずにそのまま齧る。フジタさんが「オノミチリコの一本釣り!」と言ってケラケラと笑う。
ワクイさんは「急に痩せたしずっと暗かったから、うちら心配してたんだよ」と言った。
だからこうして、声をかけてくれたんだ。ただの興味だけじゃなかった事は、素直に嬉しいと思った。
「オノミチさん、今日からお昼一緒に食べようよ。そっちのグループ、まぜてー」
ワクイさんが誘ってくれたから、私はいいよと返事をして、二人の前でヒマちゃんへのメッセージを送る。今日のお昼は、ゼミの女子を二人、一緒に連れて行くからね――きっと喜んでくれる気がする。返信が楽しみだ。
「私、あのメガネの人と話してみたいんだー」
「わかる、いつもめちゃくちゃ食べてるもんね」
「……アイリが気になるの、そこなの?」
「え、メグは違うの? よく食べる人って、幸せ指数が高そうじゃない?」
あははは、と二人が笑う。これはニッシーが喜びそうだなぁ……食べっぷりなら、カメヤンの方が上なんだけどな。
思えばいつも服やメイクを褒めてくれていた彼女たちは、いつだって屈託なく笑っていた。
逃げずに向き合えば、そこに流れていたのは、どこか懐かしい空気だった。
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