第二十一話 そして全ては燃え尽きた

 ヤケになったニッシーとカメヤンが浴びるようにお酒を飲み始めて、間に挟まれていたヒマちゃんが、メイくんの隣に逃げた。

 ヒマちゃんとメイくんが喋る度、失恋した酔っ払いたちが文句を言っていたけれど、そんな事を気にするような二人ではない。実は相性がいいのかもしれない。

 本来なら、ここで手紙の話を蒸し返す事は避けたかった。せっかく普段通りに戻りつつあるニッシーを、追い詰めてしまいたくはなかった。だけど肝心のイシバシくんが、一通目の手紙について何も知らないままだ。

 盛り上がりに紛れて、私はイシバシくんに経緯を説明した。ニッシーには絶対に聞こえないよう、声を潜めてこっそりと。

 話を聞き終えた彼は、寂しそうに「俺もあの人に憧れてたんだがな」と呟いて、芋焼酎を一口飲んだ。

 そこにあるのは怒りではなく、悲しみだけのように見えた。


 豆花園を出たのは、終電の後だった。これはタクシー移動かなと考えていると、メイくんが意外な事を言った。


「お店を変えて、仲直りの盃でもどう?」


 普段はあまり飲まないメイくんにしては、本当に珍しい誘いだった。ニッシーとカメヤンはまだまだ飲む気らしいし、ヒマちゃんも「もっとサツキと話したーい」と主張している。明日の授業は二限からだし、悪くないなと思ったのだけど、イシバシくんは「すまん」と言いながら私の手を握った。


「今夜のうちに、スガさんと話しておきたいんだ。俺は明日、東京に戻るから」

「そっか、わかった。急に呼びつけてゴメンね」


 メイくんが思い出したように謝ると、イシバシくんはくくく、と笑った。


「何かあったら、いつでもすっ飛んで来るぞ。俺がいない間、リコとヒマ助を宜しく頼むな」

「うん、任せといてよ」


 即答したメイくんだけでなく、カメヤンも、ニッシーまでもが「任せとけ」と言ってくれた。

 またねと手を振って、繁華街へと歩き出すみんなの背を見送った。これで捜査本部は解散だと思うと、少しだけ名残惜しい気もした。


 川沿いの道を、手を繋いで歩いた。川面に映る月が揺れていた。そのまま大通りに出てタクシーを拾い、手を繋いだままで後部座席に乗り込んだ。

 イシバシくんは、殆ど喋らなかった。スガ先輩を許すかどうか、ずっと悩んでいるんだろう。

 邪魔をしないように私も黙り、眠くなったふりをして彼の肩に寄りかかった。冷房の効いた車内で伝わる体温が、彼の慰めになれば良いと思った。

 しばらくすると、握っていた手が離れ、その代わりに肩を抱き寄せられた。


「ありがとな……」


 それは眠っているはずの私を起こさないように、そっと柔らかく紡がれた、小さく優しい言葉だった。


 アパートに着くと、イシバシくんは自分の部屋へ入る前に、二〇三号室の呼び鈴を鳴らした。部屋の電気は点いていて、玄関の扉はすぐに開いた。


「イシバシ!」


 スガ先輩は、苦しそうな眉間に泣き出しそうな目元、微笑むような唇で、イシバシくんを出迎えた。泣き笑いだなんて、そんなに単純な表情ではない。


「一晩だけ、戻りました。手紙の話も聞きました」

「そうか」


 入れよ、とスガ先輩が身体を引いた。だけどイシバシくんは、そのまま動かなかった。


「俺、スガさんには感謝してたんです」

「感謝?」


 スガ先輩が、不思議そうな顔で私の方を見た。こちらを見られたって、私もその意味はわからない。一呼吸おいてから、イシバシくんは言葉を続けた。


「俺がここに越してきた日、スガさんは俺を、晩飯に誘ってくれました……覚えてますか」


 先輩は何も返事はしなかったけれど、その顔は「忘れてなどいない」と書かれているのも同然だった。


「入学式の前だから、まだ友達もいないんだろって、豚バラが大量に入った水菜鍋を食わせてくれましたよね。様子を見に来たヒマ助にまで、自分の皿を渡して食え食えって」


 視線を逸らした先輩の肩を、イシバシくんが勢いよく掴んだ。そのまま数歩前に出て玄関に入り込み、私は一人で通路に取り残されたようになった。


「田舎から出て来た俺たちに、スガさんは優しかったですよね。事ある毎に世話を焼き、色んな事を教えてくれた」


 イシバシくんの顔は、私の立っている場所からは見えない。だけど声を聞いていれば、どんな表情をしているのかなんて……もう、わかってしまう。


「だから、俺は、憧れてた。躊躇なく誰にでも優しくできるスガさんが、俺だって羨ましかった!」


 イシバシくんの言葉を聞いた先輩は、唇を強く噛み、そして俯いた。


「……本当に、すまなかった」


 先輩は、ぐっと力強く顔をあげ、真っ直ぐにイシバシくんを見つめた。


「俺、このアパートを出るよ」

「俺たちは、元に戻れますか」


 二人の言葉は、同時だった。先輩は目を見開き、小さく「はっ」と言った。


「お前たちの方だろう、元に戻れないのは。まさか、俺を許す気なのか」

「心から許せるかは、正直わかりません。だけど、スガさんにして貰った事が、消えるわけでもないんです」


 イシバシくんらしいと思う。縁が切れる事を嫌い、その為なら許す事を選ぶ。相手の為に許すのではなく、自分の為に許すんだ。


「お前は、自分の彼女を侮辱されたんだぞ」


 そう言った先輩の声は、深夜の廊下に低く響いた。


「惚れた女の事なんだぞ、簡単に許すな。そこは、意地でも許しちゃいかんのだ」


 二人が私を見る。振り返ったイシバシくんは、何故か怯えているように見えた。


「リコリスちゃんにとって、俺はもう、敵だ」

「いえ、写真は自分から撮らせたものですし……」


 敵なんかじゃない。そう、言おうとした。確かに写真だけなら私は許せる。だけど手紙に書かれた内容は、私が忘れたい悪意だったのだ。この人は、ネットに流されたあの噂を、イシバシくんに知らせた人なのだ。


「写真は許せても、手紙は許せないだろう。イシバシに知られたくなかったデマを、俺は真実のように吹き込もうとしたんだから」


 先輩に図星を指され、言葉を続けられなくなった私を見て、イシバシくんが頭を下げた。


「俺は、手紙を貰う前から、知っていたんだ」


 言葉の意味を、一瞬だけ見失う。意味を成すにつれ、色々な事が頭の中で繋がっていく。私の噂を知っていたから、初対面の時、あんなにも私を毛嫌っていたんだ。


「いつ、知ったの」

「……入学して、すぐの頃だ。美術科にいる漫研の連中から聞いた。ヒマ助が説教してたから、それ以上言い触らしてはいないと思う」


 知っていて、何もなかった顔をして、私に接していた二人。あえて言う必要はなかった、ただそれだけの事だけど……どう捉えていいのか、わからなかった。


「簡単に脱ぐと思ったから、ヌードモデルを頼んだの?」


 思ってもいない言葉が、自分の口から飛び出した。

 違う、私はそんな事を言いたいわけじゃない。彼が真剣に作品と向き合っていた事は、誰より私が一番知っているのに。


「そうじゃない、俺は本気でリコを描きたいと思った。噂の真偽なんて、あの時はどうでも良かったんだ……だけど話すうち、噂は嘘だと思うようになった」


 イシバシくんは、私をじっと見つめた。


「手紙が届いた事で、噂は嘘だと確信したんだ。誰かがそういう事にしたがってるんだな、って。そもそもリコは、陰気で融通が利かない堅物だからな。ありえない」

「ちょっと!」


 夜中だというのに、つい声を荒げてしまった。陰気って、堅物ってひどい。クソビッチよりはマシだけど、もっと別の言い方ってものがあるだろうに。


「夜中だから、静かにしような。ついでに機嫌も直そうな」


 子供のご機嫌をとるように、イシバシくんが私の頭を撫でてくる。そんな私たちのやり取りを見守っていた先輩が、堪えきれずに吹き出した。


「お前ら……真面目に話を聞くのが、バカバカしくなってくるな」

「すみません。つまりあの手紙は、何の嫌がらせにもならなかったって事です」


 イシバシくんがバッグから、写真を一枚だけ取り出した。


「これ、俺が持ってる分には問題ないよな?」


 そう言われれば、特に問題があるわけじゃない。クキちゃんが撮ったリコリスは、本当に綺麗だった。持ってて欲しいと伝えると、イシバシくんは頷いた。


「手紙も写真も、これで実害ゼロだ」

「悪いお手紙なんて捨てちゃって、全部なかった事にしちゃいましょ!」


 私がわざと「リコリス」になって笑顔を向けると、スガ先輩は少し戸惑ったように私たちを見て、それから「ありがとう」と言った。

 これで良かったんだ、と思う。完全に許す事が出来ないとしても、永遠に恨み続ける事も、きっと私たちには出来ないから。


 通路に置かれている灰皿を使って、私たちは二通の手紙を燃やした。ライターで火を点けると、薄い便箋はあっという間に燃えていく。

 後悔も悲しみも一緒に燃え尽きて、みんなが元通りの笑顔になるよう、小さな炎にそっと祈った。

 炎が消えると、スガ先輩はもう一度「ありがとう」と言って、私たちに深く頭を下げた。


 先輩が自室に入ったのを見届けてから、私たちは二〇四号室に帰った。鍵は私が持っていたので、私が開錠して扉を開ける。まるで一緒に住んでいるみたいで、微かに幸せを感じた。

 玄関の中へと入り、扉が閉まると同時に、イシバシくんは私を抱きしめた。荷物は乱雑に床へと放り出されている。


「すまん……少し、このまま……」


 そう言ったイシバシくんは、私の匂いを嗅いだ。私も深呼吸をしてみると、イシバシくんの匂いでいっぱいになった。

 頬が掌でそっと包まれ、ゆっくりと上を向かせられる。彼と目が合った途端、勝手に涙が溢れ出した。感情が、剥き出しになってしまう。


「ごめんな、寂しかったよな……俺も、寂しかった。ずっとこうして触れたかった、ずっとリコにキスしたかった」

「私も、したかったよ……」


 二人きりの空間は、理性のタガを外してしまう。私は背伸びをして、自分からイシバシくんの唇にキスをした。空港でしたような軽いキスじゃない、深くて熱い口付けを。

 まだエアコンも入れていない部屋で、あっという間に身体が汗ばむけれど、もう一秒だって待てなかった。


「……やらしくなったな。俺のせいか」


 唇を離した途端、イシバシくんが笑った。どう答えようか考える前に、今度は彼から唇を重ねてきた。

 お互いの吐息が荒くなるまで、延々と唇を貪りあった。

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