第十七話 君にとって正しい事なのか
スガ先輩のパソコンに入っていた私のサービスショットを削除した後、平謝りの先輩にお留守番を言いつけて、私たちは空港へイシバシくんを迎えに行く事にした。
空港へ向かうには、電車で市街地に出てから路線バスに乗り換える。だいたい片道一時間くらいだ。
その道中、スガ先輩の言い分について話し合った。公共交通機関の中なので、できるだけ小声で会話をする。
メイくんは「イシバシが持ってくる手紙を見てから判断したいな」と言った。
カメヤンは「俺は別人の仕業であって欲しいわ」と溜息交じりに呟いた。スガ先輩とはかなり親しかったらしく、すっかり落ち込んでいる。
今日、このメンバーの中で一番可哀想なのは、誰が何と言おうと間違いなくカメヤンだ。
それなのにニッシーが「二通目もスガさんに決まってるだろ、他に誰がいるんだよ」と文句を言い続けているせいで、カメヤンがますます落ち込んでいく。
「カメ、元気出しなよー。カメのラリアットが捜査を進展させたんだからさー」
ヒマちゃんが、カメヤンの頭を撫でた。私も真似して撫でておいた。
「え、何これご褒美?」
「ふざけんなよエロガメ」
「髪の毛、毟っちゃおうか」
カメヤンの表情が一気にゆるゆるになって、ニッシーとメイくんが同時に悪態をついた。
空港に着くと、時間的にはちょうど良い頃合だったのだけれど、到着口は大いに混雑していた。
「リコさえ待ってれば、ハヤトは喜ぶでしょー? 邪魔しないからさー、飛び付いて抱き付いてチューしちゃえばいいよー!」
ヒマちゃんの容赦ない提案により、私は一人でイシバシくんを待つ事になった。もちろん私は「みんなで一緒に待とうよ」と言ったのだけれど、全員が「カウンター前のカフェで待ってるわー」と言いながら逃げて行った。メイくんまでも。
からかわれているみたいで恥ずかしかったけど、少しでも二人きりになれるように気を遣ってくれたんだろうと思うと、それは素直に嬉しかった。
到着口の横に設置されているボードに、彼の乗った便が表示されるのを待った。手荷物がほとんどないだろうイシバシくんは、きっと受取所には寄らずに、直接ここへ出て来るに違いない。
もうすぐイシバシくんに会えるんだ――そう思うだけで、胸が高鳴ってしまう。
しばらくすると、東京発の便が到着したとのアナウンスが出た。
数名のスタッフが出て行ったあと、ダークスーツ姿のイシバシくんが見えた。
普段のイシバシくんとは全然違う服装だけど、遠くからだってちゃんとわかるよ。歩き方も、周囲への視線の向け方も、普段通りのイシバシくんだもの。
彼は私を見つけると軽く手を挙げて、真っ直ぐ私のところへ歩いてきた。
「お帰り、イシバシくん」
私の前に立ったイシバシくんは、無言のままで私を抱き寄せた。周囲の人から見られているに違いないのに、彼は全くお構い無しだった。
「会いたかった」
ただいまも久しぶりも言わないまま、耳元でそう囁かれた。
私も会いたかった、と返すつもりだった。他にも言いたい事や伝えたい事はたくさんあって、今にも溢れ出してしまいそうだった。
しかしイシバシくんは、私が言葉を発する前に、ためらいもせずに唇へキスをしてきた。ちゅっと音がして、一気に頬が熱くなる。人前でこんな事をするのは恥ずかしいと思ったのだけど、彼を突き放す事なんて、今の私にはできなかった。
私は彼の背へ腕を回し、彼も私の腰を抱く。そうして人目も憚らず、私たちは強く抱きしめ合った。
やっぱり私は、この人が好きで好きで堪らないのだ。
イシバシくんと手を繋いで、みんなが待つカフェへと歩き出した。あまりにも嬉しすぎて、何から話せばいいのか混乱してしまう。かろうじて「会いたかったよ」だけは真っ先に伝えた。
「いきなりスグカエレだもんな、何事かと思ったぞ」
イシバシくんが、やや呆れたように笑っている。メイくんは大暴走だし、ヒマちゃんのメッセージは慌てすぎたせいで電報のようになっていたし、さぞかし困惑した事だろうと思う。スーツを着てるって事は、どこかへ行っていたのだろうし。
「スーツ姿、格好良いね」
その格好でどこに行ってたの、とまでは聞く事が出来なかった。イシバシくんは思い出したようにグレーのネクタイを緩めた。
「姫にお褒め頂き、恐悦至極。だけど普段から着るには窮屈すぎるな」
「絵の具付けちゃうには勿体ないもんね」
「いくら俺でも、スーツで絵は描かんぞ。どれだけ無頓着だと思われてるんだ」
「え、だって普段着は全滅してるじゃない」
値段考えろアホか、とデコピンをされた。そんな他愛もないやり取りすら、嬉しくて涙が出そうだ。イシバシくんは、何にも変わってはいない。
「もしかして、どこかに行ってたの?」
やっと、普通に言葉を出す事ができた。ゆるやかに心が解けていくような感覚に、緊張していた自分に気付く。
「ああ、先生のアトリエ。ヒマ助のメッセージを見たのは、家に帰った直後だった」
イシバシくんは既に、未来に向かって進んでいる。このままだと本当にお弟子さんになってしまって、大学に再入学どころではなくなってしまう。
どうしよう、とにかく引き止めなきゃ、という気持ちもあるけれど――イシバシくんの人生にとって、本当にそれが正しい事なのか、私はわからなくなりつつあった。
スガ先輩みたいな人から、誤解を受けて妬まれて。そんな環境で絵を描き続けることが、本当にイシバシくんの為になるのだろうか。
きっと先輩みたいに思っている人は、少なくないだろうと思う。仲の良いカメヤンですら、彼の努力を「ハヤトはすげー優秀だから」の一言で片付けてしまったのだから。
「いつから、お世話になるの?」
とりあえず、当たり障りのない質問を投げた。
「……春までは保留、と言われてしまってな」
そう言って、イシバシくんは軽く息を吐いた。
「勢いで大学を辞めた事が、先生にはわかっていたんだな。学生でいられる時間は今だけだ、ここには卒業後に来たって構わない、ゆっくりと考えなさい、と。それに――」
続きがあるような口ぶりなのに、そのまま黙り込んでしまった。なになに、と促してあげると、一度だけ軽く咳払いをした。
「来月から三月までの間、仕事の都合で欧米を回るんだそうだ。うちに来るならそれにも同行させる事になるよ、と言われて……俺はつい、躊躇してしまった」
躊躇した、というのが意外に思えた。もちろん同行します、ぐらいの事は即答しそうだったから。そう言えば、スガ先輩も留学がどうのと言っていたのに。
「行きたく……なかったの?」
恐る恐る聞いてみる。これで「俺は英語が話せないからな」なんて返事が来たら、ちょっとだけ彼のプライドを傷付けてしまいそうな気がした。
しかしイシバシくんは無言のままで、私にもう一度デコピンをした。
「痛い! な、何で?」
「わかりきった事を聞くからだ。アンタを残して外国なんか、行ける訳ないだろうが!」
耳まで真っ赤になったイシバシくんが、私から視線を逸らした。
……もしかしたらこの人は、私を萌え死なせる気なのかもしれない。
待ち合わせのカフェに入ると、スーツ姿のイシバシくんに男の子たちがどよめきの声をあげた。うっかり「馬子にも衣装」と呟いたヒマちゃんがデコピンの刑に処されているのを見ていると、メイくんが「
何となく不安になった私の手を、イシバシくんがぎゅっと握ってくれた。
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