第十四話 簡単に揺らいだりはしない

 画面に表示されている発信者は、メイくんだった。

 さすがに無視するわけにもいかず、私はみんなに着信画面を見せてから通話をタップした。応答する自分の声が、少しだけ震えているような気がした。


「あ、メイです。今日はもう帰るんだけど、一緒にお茶でもどうかな?」


 そんな普段通りのお誘いに、私は心臓が飛び出しそうだった。

 まさかイシバシくんの家にいるとは言えないし、みんなと一緒だとも言い辛い。三人は一様に人差し指を自分の唇に当てている。


「もう、家に帰って来ちゃったの」

「そうなんだ。じゃあ遊びに行ってもいいかな?」


 珍しい事ではなかった。高校が同じだった私とメイくんは、それほど家が離れてはいない。ちょっと帰りに寄れるくらいの、気安い距離だ。


「うん、いいよ」

「ありがと、じゃあ今から向かうね」


 そう言って通話は切れた。

 現状はごまかせたものの、状況は悪化した気がする。自宅方面へ向かう電車は、一時間に三本しかないのだ。


「今から私の家に来るって」

「え、どうするの? 車がないと先回りは無理じゃない?」


 確かにヒマちゃんの言う通りだ。でも今から駅まで走れば、メイくんと同じ電車には乗れる。ホームや電車内で鉢合わせさえしなければ、駅まで迎えに来た事にして乗り切れる……かも、しれない。その可能性に賭ける事にした。


「ごめん帰るね! 戸締りお願い!」


 私はバッグを掴み、部屋の鍵をヒマちゃんに押し付け、スニーカーに爪先だけを捻じ込んで、勢いのままに玄関の扉を開けた――そして、我が目を疑った。


「えっ……えええええ!」


 思わず叫んだ。ドアを開けた外に、真顔のメイくんが立っていたのだ。


「やっぱりね。悪いけど、あの三人をけさせて貰ったんだ」


 ……メイくんは、どうして尾行なんてする必要があったんだろう。湧き上がる不安を、何か理由があるはずだと必死に打ち消した。


「ここ、イシバシの家だよね。連絡は取れたの?」


 メイくんは、まだ私がイシバシくんと連絡がつかないままだと思っている。ごめんね、と心の中で呟きながら、私は左右に首を振った。


「合鍵貰ってたんだ、まぁそうだよね。ねぇリコちゃん、ちょっと話せる?」


 咄嗟の言い訳すら思いつかない私が口篭っていると、メイくんは急に表情を崩した。


「ダメだよ。リコちゃんはそういうの、似合わないんだから」


 メイくんに顔を覗き込まれて、いったいこの人は何をすれば怒り出すんだろう、なんて余計な事を考えた。


「嘘を吐いたのは、ごめんなさい」


 私は、事実だけを謝った。だけど何をどう話せばいいのかは、全く答えが出ていない。私はメイくんを信じているけれど、イシバシくんとの約束を破るのも嫌だった。


「リコちゃんなりの理由が、ちゃんとあったんだよね。大丈夫、僕は簡単に揺らいだりしないよ」


 メイくんがそう言ったのと同時に、隣室である二〇三号室の扉が開き、美術科の先輩が顔を出した。


「イシバシ、帰ってきたのか?」


 そう言いながら先輩は、癖のある長い髪をヘアゴムで括り始めた。


「あ、いえ……部屋を使わせて貰っているだけです」

「ふうん、アイツまだ帰ってないのか。後期も始まってんのにな」


 先輩は眠そうに欠伸をした。退学した事は知らないんだろう。


「スガ先輩、イシバシは退学したらしいですよ」


 メイくんが、知り合いのように声をかけた。いくら同じ芸術学部と言っても、学科違いの先輩まで知っているものなのだろうか。私は英語学科だけど、日本語学科の先輩と話す機会なんてない。


「あー、留学の算段がついたかな」


 留学。それはどういう事かと口を挟みたかったけど、メイくんは構わずに「どうでしょうね」と言って話を進めた。


「出来たばかりの彼女に理由を言わず帰ったみたいですし、家の都合じゃないんですか?」


 メイくんが私を見ながら「彼女」と言った途端、先輩は目を丸くして私の方を見た。


「へー、彼女だったのか。ただのモデルだと思ってたわ。あのイシバシに彼女ねぇ……」


 先輩はニコリともしない。言葉にも棘があるような気がしたけど、とりあえず笑顔を向けておいた。この人、好きになれない。


「まぁ、ここだと周りの部屋に会話が丸聞こえだぜ」


 さすがに丸聞こえと言われてしまったら、このままで話し続けるわけにはいかない。メイくんもイシバシくんの部屋に招いて、五人で話をする事にした。


 私がアトリエからスツールを一つ持って来ると、台所ではニッシーがメイくんの分のコーラを注ぎ、カメヤンはアソートのチョコを五等分にしていた。今の状況でメイくんをもてなそうとしている二人は、突然の事に混乱しているのかもしれない。


「サツキって、スガさんと知り合いなの?」


 ヒマちゃんの問いにメイくんは頷いて、ニッシーに差し出されたコーラを受け取った。口は付けない。


「リコリスの写真集を、いつも買ってくれてた常連さん」


 そうなんだ。全く知らなかった。即売会に出る時は、私はずっと撮影エリアにいるから、どんなお客さんが買いに来ているのかは把握していない。サークル絡みの事は何もかも、全てメイくんに任せていた。


「リコちゃんの正体には、全然気付いてないみたいだね。コスプレ中はウィッグやカラコンを着けてるからかな」

「そんなに変わっちゃうんだね、楽しそう! コスプレの話、聞きたーい!」


 ヒマちゃんが興奮したところで、メイくんの表情が曇った。


「悪いけど、僕は遊びに来たわけじゃない。君たちが僕を探ってるのは気付いてたよ。だから逆に、尾けさせて貰った」

「あっ」


 ヒマちゃんが、自分の口元を両手で押さえた。しまった、と言い掛けたのがわかった。


「君たちはイシバシの友達だよね。コソコソと探りを入れるなんて、一体どういうつもりかな?」


 三人はすっかり気まずそうな顔で、口々に謝罪の言葉を口にした。だけどメイくんは追求を止めなかった。


「まさか僕を探る為に、四人がかりでリコちゃんを利用しようとしたのかな?」

「ち、違うよ!」


 とんでもない誤解が生まれていて、ヒマちゃんが大慌てで否定する。カメヤンもニッシーも続いたけれど、メイくんの表情は一切緩まない。


「……これ以上隠しても、意味がないな。俺たちの予測通りなら、この状況自体が既に手遅れって事だ」


 ニッシーが観念したように、溜息を吐いた。事情を話す事にしたらしい。


「ハヤトが怪文書を貰って、犯人を探していた。リコちゃんのエロい写真が同封されてて……その出所を、調べたかった」

「は?」


 メイくんの顔色が、一気に変わった。完全に目が据わっていて、とても演技には見えない。

 私の知らないメイくんが、目の前にいた。


「その写真、全部見せろ」

「悪いけど、俺たちは持ってないんだ」

「持ってるのはイシバシか? だったら今すぐここに呼べ」


 普段は絶対に発しないような声で、メイくんがニッシーに凄んでいる。


「東京行ってるから無理だって!」


 カメヤンが慌てて口を挟んだけれど、メイくんは意にも介さず「だから?」と一蹴した。


「飛行機なら二時間で来れるだろ。僕が手配してやるから、今すぐ羽田へ向かわせろ!」


 カメヤンを怒鳴りつけたメイくんは、即座にスマホを弄り始める。それを見ていたヒマちゃんが、大慌てでメッセージを打ち始めた。

 ニッシーは「少し落ち着け」と言いながらメイくんを止めようとしたけれど、逆に「何か不都合でもあるのか?」と返されてしまって、結局そのまま黙り込んだ。


「サツキこえぇ……」


 怒鳴られて完全に固まっていたカメヤンが、怯えたような声をあげた。

 すぐに届いたイシバシくんの返事は、シンプルに「了解」の一言だけだった。

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