第十一話 指切りすら出来ないけれど

 その日の夜、私はイシバシくんに電話をかける事にした。

 私に呼び名を「ヒマちゃん」と改めさせ、私の親友になるのだと宣言したヒマワリさんが、強く勧めてきたからだ。それは多少強引ではあったけれど、彼女は「ハヤトの為にも電話をしてあげて」と言ったから、その言葉を信じてみようと思った。

 何から伝えようかは迷ったけれど、やっぱり最初は謝りたかった。何も知らずに迷惑をかけて、たくさん傷付けてしまったから。

 これで仲直りできるかもしれないという期待もあったけれど、許して貰えなかったらどうしよう、という恐怖も拭えなかった。


 一時間近く迷った末にコールをすると、応答がないまま切れてしまった。やはり出ては貰えないのかと落ち込みかけたところで、逆にイシバシくんから電話がかかってきた。期待と不安が入り混じって、急に口の中が乾いたような気さえする。


「……もしもし」


 予想外に、震える声が出た。一瞬の静寂が何倍にも感じられる。胸の奥が鷲掴みにされたように苦しくて、一度だけ大きく息を吐いた。


「リコ」


 私の名を呼ぶイシバシくんの声は、優しかった。最後に話したあの日のような寂しさは、そこには欠片も混ざっていない。嬉しくて胸が一杯になる。


「声、聞きたかった……」


 気が付くと、そんな言葉を口にしていた。しかも涙声だ。泣き落としで許して貰おうだなんて、そんなつもりは更々ないのに。何から言おうか、どうやって謝ろうか、事前にちゃんと考えていたのに。


「俺もだ。ずっとアンタと話したかった……同じ気持ちで、いてくれたんだな」


 すまなかった、とイシバシくんは言った。きっと頭を下げている、わかる。だけど謝らないといけないのは私の方だ、イシバシくんは何も悪くない。


「恨み言なら、どれだけでも聞く。怒ったりしないから、怖がらなくていい」

「ううん、ううん、違うの。ごめんなさい、私、私どうしても、伝えたい事があって……」

「ちゃんと聞くから、落ち着け。まずは泣き止め、深呼吸しろ」


 言われた通りに深呼吸をしていると、電話の向こうでイシバシくんも深呼吸しているのが聞こえて、少し笑ってしまった。


「やっと笑ったな。アンタはその方がいい」


 私を笑わせる為にわざとやっていたのだと気付いて、やっぱりイシバシくんだと嬉しくなった。だけど能天気に浮かれるわけにもいかない、私はきちんと謝らなければいけない。


「大学、辞めちゃったんだよね……私のせいだよね、ごめんなさい」

「ヒマ助のヤツ、そんな事まで話したのか」


 イシバシくんは、どうやらヒマちゃんを「ヒマ助」と呼んでいるらしい。イトコなのだから親しいのは当たり前なのに、胸の奥がちくり、とした。


「退学した事は、本当に気にしなくていい。俺は絵を描いていられるのなら、場所なんかどこだっていいんだ。別に教職に就きたかった訳でもないしな」


 気を遣わせない為に言っているのは、明らかだった。わざわざ実家を出てまで進学してきたのだから、それなりにやりたい事はあったに決まっている。私みたいに「自宅から通える大学だから」なんて、くだらない理由で受験したわけではないのだ。


「これからどうするの?」

「親父のツテで、ある画家の先生に世話になろうかと考えてる。要は弟子入りだな」


 弟子入り。何だか物凄く、遠い世界の話みたいに聞こえる。少なくとも「同じ大学に通う同級生」という関係とは、明確に違うものになる。

 きっとこの街には、もう二度と戻らないんだ。

 イシバシくんは、遠くに行ってしまうんだ。


「ねえ、もう、会えなくなっちゃうの?」

「学校帰りに毎日は、もう無理だな。だが、二度と会えないわけじゃない」


 嫌だよ、と叫んでしまいそうだった。毎日だって会いたいのに。手を繋いで、色んなものを一緒に見て、同じ気持ちになりたいのに。


「そんなの、寂しいよ。ずっと一緒にいたいよ」

「ああ、そうだな」


 イシバシくんは、そう言ったきり黙ってしまった。何か怒らせてしまったのかと、私が不安に思っていると、電話の向こうからずび、と鼻を啜る音がした。

 ――イシバシくんが、泣いている。


「俺だって……俺だって、そうだ。アンタに会いたい、一緒にいたい。だけど」


 全部聞いたんだろう、と念を押された。私が「うん」と返事をすると、イシバシくんは震える声で「すまん」と繰り返した。


「何の相談もせずに、勝手に突っ走った。アンタを守りたいとか、傷付けたくないとか、偉そうな御託ばかり並べて」

「偉そうだなんて、そんな事ないよ!」

「いや、俺は……俺は、何よりもリコを傷付ける事を、したのかもしれないって……」


 そこまで言うと、イシバシくんは言葉を出せなくなってしまった。ひい、と苦しそうに息を吸った音が聞こえて、何も出来ない自分が歯痒かった。

 確かに、言う通りなのかもしれない。私はあの写真が出回ることよりも、イシバシくんと離れてしまう方が辛い。自分で撮らせた写真が流出したって自業自得だし、別に局部が丸見えになっているわけでもない。イシバシくんさえ気にしないでいてくれるのなら、他の人に何を言われても、私はきっと平気だった。

 だけど、それは今の状況だから言える話であって、実際に拡散されてしまったら、考えもしないような苦しみがあるのかもしれないとも思う。

 イシバシくんは、万が一にも私を傷付けたくないと、そう思ってくれたんだ。


「傷付いてないよ、寂しいだけだよ。だってイシバシくんは、私を守ってくれたんだもの」


 彼の決断を、否定なんてしたくはなかった。それでも彼が、そんな言葉で簡単に納得してくれるわけもなかった。


「勝手にアンタの親友を疑って、確証もないのに縁を切れと迫って」

「それはもう、理由を聞いたから納得してるよ」

「……オマケに、何も言わずに大学を辞めたんだぞ」

「でも、今はこうして話せてる。私、それだけで本当に嬉しいんだから」


 だけど、と何かを続けようとした彼の言葉を遮って、私は思い切って大きめの声を出した。


「だから、これからもずっと一緒だって約束して!」


 イシバシくんは、完全に黙ってしまった。しまった、さすがに強引すぎただろうか……困らせちゃったかなと思っていると、突然イシバシくんが笑い出した。


「ふはは、アンタ、今それを言うのか! 断ったら刺されそうだな、ははははは」

「ちょ、ちょっと、私はマジメに」

「知ってる。いや、ははは悪い、アンタらしいと思ってな」


 さんざん笑い転げた後、イシバシくんは「言われちまったなぁ」と呟いた。


「手紙の問題さえ解決できれば、俺から言うつもりだった。だけどもう、関係を曖昧にしておく意味もないからな」


 そう言ってから、彼は一呼吸置いた。緊張しているのが、なんとなく伝わった。今、イシバシくんは、真摯な想いを私に伝えようとしている。


「俺は、リコと一緒に生きていきたい……俺の、パートナーに、なってくれるか」


 交際の申し込みというより、一気にプロポーズをされてしまった気分だ。だけどそれでいい、そうであって欲しい。いつか別れる予定のお遊びなんかじゃない。期間限定の恋なんて、いらない。


「うん……ずっと、ずっと一緒に生きていこうね」

「ああ、約束だ。いつまでだって、ずっと一緒だ」


 指切りすら出来ない、電話での口約束だけど、それでも私は幸せだった。


 その後はイシバシくんの提案で、スマホにビデオ通話の無料アプリを入れた。

 ベッドに転がって、充電ケーブルを挿したままのスマホを覗き込むと、画面の中には照れ臭そうな彼がいる。きっと私も、相当だらしない顔をしているに違いない。


「寝る時は、こうして朝まで繋いでいよう」


 そうイシバシくんは言い、そして少しだけ言い辛そうに「だけど」と続けた。


「リコはサツキを信じているんだろうが、手紙の犯人がわかるまで、俺との事は黙ってろよ。報告するのは、疑いが晴れてからだっていいだろう?」


 ヒマ助に色々調べてもらってるから、とイシバシくんは言った。その信頼関係が羨ましくて、ちょっとだけ張り合ってみたくなった。


「ハヤトくんの言う事なら、リコ、ちゃんと聞くよ!」


 急に「ハヤト」と呼ばれたイシバシくんは、やっぱり耳まで真っ赤になって、とうとう頭から布団を被ってしまったのだった。

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