第五話 毒でもいい、だから口にして

 メイくんと別れて、イシバシくんのアパートへ行くと、玄関に鍵がかかっていた。チャイムを鳴らしても誰も出ないし、電話もメッセージも反応がない。連絡の一つも無く不在にしているのは初めてだ。私が遅くなったから、何か用事を片付けているのかもしれない。

 私は扉の前に座り込んで、彼の帰りを待った。何の根拠もなく、すぐに戻ってくると信じ込んでいた。


 十九時になっても、二十時になっても、イシバシくんは帰って来なかった。私は行き先の心当たりすら無い。街路灯の明かりの中、欠けた月を眺めながら、私の中のイシバシくんを脳裏に描いてゆく。

 名前は石橋イシバシ隼人ハヤト、大学近くの古いアパートに住んでいる。芸術学部美術科の二年生で、暇さえあれば油絵ばかり描いている。誕生日は四月二十二日、血液型はA型、身長は百七十八センチ。体重は教えてくれなかった。痩せているという程ではないけど、やや細身だ。靴のサイズは二十八センチで、吸っている煙草はマルボロ。

 見た目に無頓着で、服はいつも絵の具まみれだ。学内では実習用のツナギを着ている事が多い。ツナギの背中にはイシバシくんが描いた、大きく羽ばたくハヤブサの絵。後ろからでも「隼人」だとわかるように。

 背が高くて凛々しい顔をしているのに、髪も眉毛も常にボサボサ。笑うと目尻に皺が入って、とても柔らかい顔になる。そして彼の指先は常に、ガソリンと煙草が混ざり合ったような匂いがする。ガソリン臭の正体は、テレピンと言う油らしい。

 ……たったそれだけしか、イシバシくんの事がわからなかった。生まれ育ったのはどこなのか、どんな友達がいるのか、絵を描いていない時はどんな事をしているのか。私はそんな事も知らない。

 それなのに、私は一丁前に、彼を好きだなどとのぼせ上がっていたのだ。


 二十二時を回り、最終電車の時間が迫りつつあった。まさか朝までここにいるわけにもいかない。私は諦めて、最寄駅へと向かった。

 昼間より人気のない改札前で、丁度到着した電車から降りてくる人たちを避けながら、鞄の中のパスケースを探していた時。

 自分のすぐ傍に、誰かが立ち止まった気配があった。


「……まだ、居たのか」


 今、誰よりも求めていたその声に、私は慌てて顔を上げた。

 すっかり見慣れてしまった絵の具模様のジーンズ、どこか薄汚れた白いシャツと、その下に透ける黒いインナー。もう殆ど履き潰している青いスニーカー。

 そこには、ただ冷ややかに私を見つめている、イシバシくんの姿があった。


「終電、出るぞ。急げよ」


 イシバシくんはそれだけを告げて私の横を通り抜け、駅の外へ向かって歩き出した。

 私は終電を諦めて、彼の後について歩いた。勝手な外泊で両親に叱られるよりも恐ろしい、今を逃すと永遠に取り戻せない大切な事が、彼の背中にべったりと貼り付いているように感じたのだ。

 私は母親へ適当な言い訳メールを送りながら、彼に置いていかれないように歩調を早めた。


「待って、ねえ、待ってよ。理由くらい、説明してよ」


 私がどんなに問いかけても、イシバシくんは黙ったままだ。ねえ、鬱陶しいって言ってよ。面倒臭ぇって言ってよ。バカだなって、わかっちゃいないって……毒舌でいい、罵声でもいい。何でもいいから、私に宛てた言葉を口にして欲しい。

 一人ぼっちで歩くには、欠けた月の夜は暗すぎるから。


 アパートに着くと、彼はがごんがごんと音を立てて階段を上り、玄関前でポケットを探った。ずっと私を無視しているけど、だからと言って「帰れ」とも言わない。

 鍵が取り出され、玄関の扉が開く。彼は私の方を見もせずに、その中へするりと入り込んだ。扉はゆっくりと閉まっていくけれど、勝手に中へ入るわけにもいかなかった。

 もう終電は間に合わない、泊めてくれるような友達もいない。大学も既に施錠されているだろう。さすがにメイくんたちには頼れないし、駅のベンチで一晩過ごそうか……そう思った時、玄関のドアが再度開いた。


「ぼさっとするな、早く入れ。もうアンタの家方面、電車ないだろ」


 イシバシくんが、不機嫌極まりない顔で私の手を握り、そのまま私を家の中に引き込んだ。


「……いい、の?」

「何も言わずに約束を破った、俺のせいだからな……まさか、こんな時間まで待つとは思わなかった」


 玄関の鍵がかけられ、外の空気と遮断された私たちは、画材の匂いが篭る部屋で二人きりになった。


「来い」


 短くそう言って、イシバシくんは私をアトリエに引っ張っていく。そのまま私をソファーに座らせると、油と煙草の香りがする指先で、私の髪をそっと撫でた。


「……アンタ、写真科の五月サツキと付き合ってたんだな」


 サツキって……メイくんの、本名だ。だけど付き合ってたなんて、誰がそんな事を言ったんだろう。メイくんはサークルの代表だったし、私と一番接している時間が多かったのは確かだ。だけど、一度だってそんな関係になったことはなかった。

 イシバシくんは、私の気持ちはわかってくれていると思っていた……私は勝手に自惚れて、そう思い込んでいただけだったんだ。

 それなら、私は、好きだと言おう。このまま嫌われてしまうとしても、せめて本当のことを伝えたい。


「違うよ、私が、好きなのは」


 私が告白をしようと口を開くと、イシバシくんは被せるように「言うな」と言った。


「オノミチ、もう何も言うな。頼む、それ以上は言わないでくれ……」


 イシバシくんは、私の両肩を掴んでうなだれた。それはすごく辛そうで、苦しそうで……私はこの人にもこんな顔をさせてしまうのかと、心の底から自分が情けなくなった。

 もしかしてイシバシくんは、私が誰とでも寝る女だと、今でも思っているんだろうか。メイくんが本命のくせにイシバシくんにも色目を使ったのだと、そんな風に思ってしまったんだろうか。


「……もう、ここには来なくていい。後は記憶を頼りに描ける」


 イシバシくんはうなだれたまま、絞り出すような声でそう言った。


「本当に世話になった。サツキにも謝っておいてくれ」

「メイくんは、関係ないよ……!」


 私は、イシバシくんに手を伸ばした。抱きついてしまいたかったけれど、また「触るなクソビッチ」と言われるのが怖くて、シャツを掴むのが精一杯だった。

 その手を振り払われる事はなかったけれど、イシバシくんは今にも泣き出しそうな表情で、真正面から私を見据えた。


「あんな風に抱き合っておいて、関係ない事は、ないんじゃないのか?」


 その瞬間、誤解の原因を理解した。私たちが東屋で話していたのを、イシバシくんは見ていたんだ……だけど、あれは違う。違うのに。


「誤解だよ……あれは、あれは私が泣いちゃったから」

「何で泣いた? 俺の事を、サツキに責められたんじゃないのか?」


 イシバシくんは私とメイくんの関係をすっかり信じ込んでいるらしく、取り付く島もないという雰囲気だ。嫌だ、こんなお別れの仕方なんて。だって私はこんなにも、イシバシくんを好きになってしまったのに。一体どうすればわかってくれるんだろう……メイくんが否定すれば、わかってくれるだろうか。


「私とメイくんはそんなんじゃない、メイくんに聞いてもいい」

「本気で言ってるのか?」


 どうせハッタリだろう、と言われたような気がした。その瞬間、悲しみや焦りよりも腹が立って――意地でもわからせてやる、という怒りが湧いた。


「だったらメイくんに電話する! メイくんが否定すれば、いくらなんでも納得するよね!」


 私がスマホを取り出そうとして鞄に手を伸ばすと、イシバシくんは急に私の手を握って、電話をかけようとする私を止めた。


「……本当に、誤解なんだな?」

「そうだよ! 私、イシバシくんに嘘なんかつかない!」


 私が悲鳴のように叫ぶと、イシバシくんは眉間に皺を寄せ、目を伏せて黙り込んだ。

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