第四話 私は姫を辞めさせて頂きます

 定期試験の前日から、モデル業はお休みになった。会えなくて寂しいなと思っていたら、日付が変わった瞬間に「小野道が生まれた今日に感謝」という、電報のような短文のメッセージが送られてきた。ただ嬉しくて、その一言を何度も読み返した。

 そして翌日、定期試験の初日。人文学部棟にイシバシくんが現れた。美術科の変人がリコ姫を訪ねてきた――いつも平和な人文学部では、かなりセンセーショナルな事件だ。同じゼミの女子がこちらを指差して盛り上がっているのが見えた。

 イシバシくんは、お弁当箱くらいの大きさの包みをくれた。くしゃくしゃのクラフト紙をそっと開くと、額装された油絵がそこにあった。ハガキサイズのキャンバスに、月夜の花畑が描かれている。そして良く見れば、全ての花が白の彼岸花だった。

 誕生日に、白い彼岸花の絵を描いて贈る男。それだけ聞いたら、完全に変な人だ。だけど私は、ちゃんとわかる。私にだけはわかるんだ。


「リコリスだね」

「ああ。白いやつの本物は見た事がなくてな、色合いがおかしいかもわからん」

「本物がどうでも、これがいい。すごく綺麗、すごく素敵」


 私が口にすると、イシバシくんは私から顔を背けた。やっぱり、耳まで赤い。


「ありがとう、大事に飾るね」

「そんな大したもんじゃないが……まぁ、気に入ったなら可愛がってやってくれ」


 今までに貰ったどんなプレゼントよりも、この絵が一番嬉しかった。本当だ。他の誰にも手に入れられない、私だけの為に描かれた、たった一つの特別なものを貰ったんだ。

 白い彼岸花の花言葉は、「思うはあなた一人」と「また会う日を楽しみに」。この絵がどちらの意味で描かれたのだとしても、あるいは意識すらされていないのだとしても、私にとってはかけがえのない宝物になった。


 そして、定期試験の最終日、ついに私はメイくんから呼び出された。

 私の方も、話をしなければいけないと思ってはいた。今まで私を支え続けてくれた彼らに、もう今までの「リコリス」とは違うのだという事を、自分の口から伝えなくてはいけなかった。


 私だって最初から、今みたいな形のコスプレ活動をしていたわけじゃなかった。

 初めてコスプレをしたのは、高校一年生の時だ。最初は本当に軽い気持ちで、好きなキャラクターの衣装を着て、友人たちと遊びたいだけだった。

 しかし衣装とは「私はこのキャラクターを愛しています」という看板だ。その看板を掲げる事で、同じ作品を好きな仲間が増えていく。同志が集まる場だからこそ、愛に恥じないクオリティを模索し始める。

 せっかくできた友達をがっかりさせたくなくて、私は必死になった。自作衣装の完成度を高め、メイクやポージングを研究し、理想的な体型を維持する努力を続けてきた。友達が誇りだと言ってくれて、知らない人にも褒められて。承認欲求が満たされていくのをはっきりと感じていた。

 しかし、それは妬みも生む事だった。私はまだ、そんな世の中を知らなかった。

 高校三年生の夏、私はネットで悪評やコラ画像をばら撒かれる事になった。本名は漏れなかったので、あえて親に相談はしなかった。だけどコス友達も、学校の友達も、みんなが私から離れていった。

 それでも私のファンだと言ってくれたのが、今のサークルのメンバーだ。彼らは仲間内で相談や情報交換をしながら、機材を揃えて腕を磨いた。私の最高の瞬間を切り取る為の手間を、決して彼らは惜しんだりしなかった。

 だから私も、彼らの望む私でありたかった。ワガママでキュートな「リコリス」を、ずっと演じていたかったのだ。


 メイくんに指定された通り、イシバシくんのアパートへ行く前に、私は庭園の東屋に顔を出した。イシバシくんには正直に「サークルの人と会ってから行くね」とメッセージを送っておいた。


「リコちゃん、試験お疲れ様」


 てっきり全員が揃っているかと思ったのに、そこにいたのはメイくん一人だけだった。勧められるまま、私は彼の隣に座った。


「今日からモデル再開だったんでしょう、忙しいのにごめんね」

「リコの方こそ、本当にごめんね? 今月の予定、いーっぱいキャンセルしちゃってぇ……」


 こうやって甘ったるい声で会話をしている自分が、もはや見知らぬ他人のようだ。ほんの二週間前までは、これこそが私だったのに。


「実はね、みんなで話し合った事があるんだ」


 メイくんは、いつものようにニコニコしている。この人が怒ったところを、私は一度も見た事が無かった。きっと私は今日、高校時代からになる長い付き合いの中で初めて、この優しい人を怒らせてしまう。


「そうなんだぁ、何かなぁ?」


 違和感を覚えながらも、媚びる声を出す事しかできない。情けないけれど、今、私は怯えている……これから糾弾されるのに違いないと。


「……リコちゃんに、今までありがとうって、言いに来たんだ」


 私の悲観的な予想に反して、メイくんはいつもと同じだった。


「もう無理に続けなくてもいいって、そう言ってあげようって、全員で決めたんだ。みんな絶対泣くって言うから、僕が代表で来たよ」


 私の思いは、とっくに見透かされていたのだ。誰よりも近くで私を支えてくれていた彼らにとって、それくらいは当然の事だったのかもしれない。


「リコちゃんはもう、イシバシのものなんだよね?」

「違うよ、イシバシくんは、私の事なんて……」


 つい思わず、素の口調が出てしまう。私が口元を押さえたのを見て、メイくんは声をあげて笑った。


「あははっ、いいんだよ、もう無理しなくても」


 メイくんの表情が、歪んだ。この人にそんな顔をさせているのは、私なんだ……きっと他の五人も、今のメイくんみたいな顔で、イシバシくんに惹かれていく私を見ていたのに違いないんだ。


「僕たちは、もっと早く言うべきだったね」

「そんな事ないよ! ずっと一緒にいてくれて、私は嬉しかったよ!」


 私は必死に叫んだ。それは紛うことなき本心で、ずっと寄り添ってくれていた彼らには本当に感謝している。だけどメイくんは、困ったように微笑むだけだった。


「……リコちゃんは、僕たちに報いようとしてくれた。それは嬉しかったよ、だから言えなかったけど――」


 メイくんは鞄からタブレットを取り出して、私にこの間の撮影会のデータを見せてきた。これはクラウドで全員が共有しているものだ。


「見てごらん、リコちゃんのサービスポーズ、一つも残してないんだよ。フィルム撮影分のネガもプリントも、ずっと僕がこの手で処分してきた」

「……えっ?」


 それはつまり、彼らは望んでいなかったという事なのだろうか。言葉を探せないでいる私に代わるように、メイくんはゆっくりと、だけど淀みなく言葉を繋げ続ける。


「僕たちは、リコちゃんの楽しそうな笑顔を撮りたいだけだった。セクシーなリコちゃんも魅力的だけど、あんな写真が残ってしまえば、リコちゃんは必ず後悔する。だから、絶対に流出させないよう、すぐ処分する事に決めてたんだ」


 私は、恥ずかしさで全身が熱くなるのを感じた。

 無意識のうちに、彼らを見くびっていたのだろうか。彼らはいつだって私を支えてくれていたというのに、その優しさを、私は下心だと思っていた。あれだけ傍に居て貰ったのに、私は彼らを信用すらしていなかった――。


「ごめん、なさい……」


 その謝罪の意味を、メイくんは言わずとも理解したのだと思う。私をそっと抱き寄せて、優しい声で「いいんだよ」と囁いた。


「僕たちはただ、もう何も心配しないでって、それだけを伝えたかったんだよ……今までありがとう、リコちゃん」


 子供をあやすように背中を擦られて、私はメイくんの腕の中で、延々と泣き続けた。

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