第六話 初めての恋にお別れのキスを

「サツキの事はわかった、俺の思い込みだった。悪かった」


 イシバシくんが、頭を下げた。誤解が解けて安堵したのも束の間、彼は寂しそうな視線を投げた。


「だけど、もう、あの絵は描かない」


 視線の先に、描きかけの絵があった。色んな角度から私を眺めて、何パターンも下絵を描いて、散々悩んだ末にようやく、どれを仕上げるか決めたのだと言っていたのに……とても楽しそうに、幸せそうな顔をして描いていたのに。


「……どうして?」


 私が問いかけると、目を合わせないままのイシバシくんが、すまん、と小さく呟いた。


「俺は……しばらく、実家に戻る。飛行機の席が取れ次第、すぐに発つつもりだ」

「おうち、何かあったの?」

「いや、そういう事じゃないんだが……ここにはもう、戻らないかもしれない」


 今度は何を言い出したんだ、と思った。いくらなんでも、突然そんな事を言われたって……どう受け止めればいいのか、よくわからない。なんで、と口にすると、そこから自虐的な疑問がずるずると湧き上がった。


「私の顔を見るのも、嫌になった?」

「いや、別にアンタのせいじゃない」

「じゃあ、どうして今なの? 絵を仕上げてからじゃダメなの?」

「……細かい事情は話せない、すまん。でもアンタが悪いわけじゃないんだ、それだけは信じて貰いたい」


 イシバシくんはそこで言葉を切って、視線を私に戻す。


「不本意だが、大学を辞めるかもしれない。アンタと会うのも、これが最後になるかもしれない……すまん、オノミチ。俺はアンタと会えて、楽しかった」


 その言葉が脳内で意味を持つにつれ、自分の血の気が引いていくのがわかった。

 大学を辞めてしまったら、私たちの繋がりは何も残らない。いつかぼんやりと「あんな人もいたわね」って思い出すような関係になってしまうのかもしれない。まるで、何もかもなかった事みたいになって――そんなの、嫌だ。絶対に嫌だ。


「ダメだよ。大学……辞めないでよ。戻ってきてよ……だって、せっかく」


 あんなに素敵な絵が描けるのに、と続けたかった。だけどイシバシくんは再び私から目を逸らし、軽く息を吐きながら、そうだな、と言った。


「せっかく受かった大学だ。問題が片付けば、もちろんそうするさ。だが片付く保証はどこにもない。守れない約束は、俺は最初からしない事にしている」


 私の方を見ようともせず、彼はそんなひどい事を言った。いったいどうして、何があったの、まさか絵を描くのはやめないよね――聞きたい事は沢山あるのに、これ以上ずけずけと踏み込んで嫌われるのが怖い。

 私は、何も言えなくなった。

 絵の具の匂いだけが存在感を放つ、ぴりりとした静寂。


「……泣くなよ。泣かれるのは苦手なんだ……」


 イシバシくんは、親指でそっと私の目尻を撫でた。その感触で、私は自分が泣いている事に気が付いた。


「オノミチは、友達を増やした方がいいな……今のオノミチなら、絶対にできる」


 不安を言い当てられたようで、胸が詰まった。サークルがなくなって、イシバシくんもいなくなったら、私は本当に一人ぼっちなのだ。今のままじゃいけないのはわかっている。でも、どうしたって怖いんだ。


「イシバシくん、一緒にいて。お願いだから、そばにいて……」


 私が縋るように頼んでも、イシバシくんは左右に首を振った。だけどその後、私を強く抱きしめてくれた。


「俺だって、いてやりたいが……すまん、本当に」


 そう嘆く彼の声は温かく、柔らかかった。イシバシくんも、このまま離れたくないと思ってくれている……そう確信できた事で、私は一つの決意をした。


「イシバシくん、最後にひとつだけ、私のワガママを聞いて……」


 私の声は、自分でも驚くほどに弱々しくて――空気が、張り詰めたのがわかった。


「……私の、初めてのひとに、なってほしい」


 思い切って、口にした。もう会えなくなるかもしれないのなら、躊躇なんかしたくはない。その先に何があろうと、後悔なんか絶対にしない。

 イシバシくんは返事をしないまま、何度も私へ頬擦りをした。髭が伸びてしまっているのか、少しだけざらつく。その感触すら愛しくて、胸の奥が喜びで満たされていく。


「……抱く事はできない。もしその結果、オノミチに何かあっても、俺は責任を取ってやれない」


 断り方が、本当にイシバシくんらしいと思う。ワガママを繰り返そうか迷った瞬間、私の唇にイシバシくんの唇が触れた。

 私の、生まれて初めてのキスだった。

 ちゅ、ちゅ、と可愛い音を立てるイシバシくんの口づけを、私も真似した。そして私たちは、柔らかく吸っては離すだけの行為を、飽きずに何度も繰り返した。甘く、優しく、啄むように。


「……朝まで、ずっと、こうしていたい……」


 彼の紡いだ嬉しい囁きに、私は笑顔で頷いた。

 イシバシくんはシャツとインナーを脱いで上半身を曝け出すと、ソファーをフラットにして、私の上に覆い被さった。初めて見る彼の裸は無駄な肉がなく、すんなりとしていた。


「好きだ」


 イシバシくんは一言だけそう言うと、ソファーの上で私を抱きすくめ、再び私にキスをした。

 何度も柔らかな口付けを繰り返し、不意にその唇が離れたかと思えば、今度は愛おしそうに頬擦りをする。切なくなって吐息を漏らすと、まるでその吐息を飲み込むように、唇を優しく食まれた。

 その行為によって、改めて、自分の想いの強さを知る。こんなにも短い間に、こんなにも好きになってしまった――互いにそれを伝え合うのに、この行為は相応しかった。強い快感に押し流される事のない、深い愛情だけが、ここにある。


「なぁオノミチ、もう一度だけ、アンタの身体を見ておきたい……」


 私はその申し出に応じ、身に付けていた全てを脱ぎ捨てた。ブラウスもスカートもソックスも、キャミソールもブラもショーツも、一枚残らず全力でアトリエに投げ散らかした。


「忘れないでね、私の作品なんだから!」


 明るく言うと、イシバシくんが愉快そうに笑った。


「はは、アンタらしいな……触れても、いいか?」


 私が返事をする前に、イシバシくんの唇は、私の鎖骨に触れた。それから彼の唇は、私の身体の色んな場所を辿っていった。

 目尻に触れ、耳朶を食み、首筋をなぞった。そして胸元に、臍に、背筋に、内腿に、爪先に……まるで何かのおまじないでもかけるみたいに、一つ一つ丁寧に触れていく。乳首であろうと女性器であろうと、他の部位と同じように平穏に、その柔らかな感触で熱が残されていった。


「俺のことも、絶対に忘れるな」


 彼の指が私の髪を梳き、頬を優しく撫で、そして私の全てを掻き抱いた。何もかもが愛おしくて堪らないのだと、彼が大声で吠えているような気さえした。

 ――これが愛じゃなくて、何だろうか。

 私もイシバシくんを抱きしめて、身体をめいっぱい触れ合わせた。イシバシくんの勃起している感触が伝わる事すらも、私はひたすらに嬉しかった。


「私、はじめてなの……こんな風に、抱き合うのも、キスをするのも」

「ああ、俺もだ」


 イシバシくんは、耳まで赤い。だけどもう目は逸らさない。その強い視線は、私の全てを覚えておこうと懸命になっているんだ。


「あのね、恋をするのも、はじめてなの……」


 私はイシバシくんに、遅い初恋を告白した。するとイシバシくんは一瞬だけ動きが止まり、それから私の額に、自分の額を押し付けた。鼻先が触れる。


「……俺も、初めてだ。アンタは俺が何を言っても、突き放したりしなかった……」


 声が、震えていた。泣いてるの、と言おうとした私の唇は、すぐに塞がれてしまった。

 イシバシくんも残った衣服を全て脱ぎ捨てて、二人揃って裸になった。そのまま強く抱き合って、何度も何度も唇を重ねた。ただそれだけの行為だけれど、心はきちんと繋がっていると信じた。

 いつまでも大好きだと、小指を繋いで約束をした。それは「守れない約束はしない」と言ったイシバシくんの、真摯な誓いの言葉だった。

 

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