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 ちょうどよい時間になったのでどこかで昼食をとろう、ということになり、私たちはバス停のある道まで戻った。

「うわ、バスついさっき行ったばっかだ」

「ほんとだ……しかたない、歩こう」

 肩をすくめるエリカをなだめつつ、私たちは徒歩で駅まで帰ってきた。駅前を右に曲がり、一階に日高屋があるビルの二階に店を構えている『ナポリの微風』というイタリア料理店に入る。変なセンスの名前とは裏腹に、平日のランチタイムはピザの食べ放題とドリンクバーをお手ごろな価格で提供している優良店だ。バイトの給料日直後のお昼に、私よくお世話になっている。


 扉を開けると心地よいドアベルの音が響き、感じのよさそうな女性店員によって窓際の席に通された。外では財布を小脇に抱えたスーツの集団や学校をさぼっているらしい髪を逆立てたブレザー姿の男の子、疲れた顔をして歩くおばさんなど、多種多様な人が行きかっていた。

「へえ、落ちついたお店だね」

 エリカが、店員に目を見開かれながら渡されたお冷の中身を首の断面に流し込みながら口にする。顔が別添えだからか、水を飲みながらでも会話ができるらしい。先ほどの公園とは違って店の中はそれなりに混雑していたので、エリカの特異な見た目と行動は多くの人の視線にさらされることとなった。あちらこちらのテーブルでこそこそ話が巻き起こる。

 私は少し居心地の悪さを感じながらも、客の表情をひとつひとつ観察した。こうして見ると顔は様々な情報の集合体だ。その人間が抱いている感情が一目でわかる。驚き、嫌悪、興奮。ニュアンスの違いはあれど、この空間にいる人間の感情はだいたいそれら三つの言葉で表現できた。


 だが、ただ一人エリカだけは、今どういう心情でいるのかを読み取ることができなかった。彼女の情報をわかりやすく表示する顔という装置は、足元に置かれたバッグの中だからだ。どうも首の断面から発生する煙は、表情と同じ役割を果たしているようだったが、どの色がどの感情に対応しているのかは、まだよくわからなかった。そんなエリカは、体を窓の外に向けてなおも水をすすっていた。

「なんだろうあれ」

「デュラハンなんじゃね」

「聞いたことあるぞ俺、たしか体と頭を分離する方法があるらしくて」

「気持ち悪い」

 周りの客の話が徐々に明瞭になり始めると、私の思考はまた小学生のころに引き戻されてしまう。しかし今度は、きれいな思い出ではなく、暗くて湿気の多い部分が脳裏に立ちのぼってきた。


 私とエリカが登校してくると、きまって彼女の机のどこかに、棒人間が頭上から降り注いでくる納豆に押しつぶされている絵が、「ぎょえー」という気の抜けた台詞と共に描かれていた。納豆の発生源は、わざと不細工にデフォルメされたエリカの顔だった。冷たい針のようにちくちくとしたクラス全体の視線と悪意を体に受けながら、消しゴムで机をこする涙目のエリカ。そのときの私は彼女の隣によりそいながら、クラスのやつらを見回して、憎しみのこもった視線を向けることしかできなかった。

 不安げな私の視線に気づいたのか、エリカが体の向きを戻す。

「大丈夫だよ。もう全然気にならないしこういうの。言いたいやつには言わせておけばいいの。それに」

 彼女はそこで一度、言葉を切った。

「こいつの顔のどこそこが気に入らない。あいつはブス。気持ち悪いから顔も見たくない。そういうこと言ってる人はだいたいわたしの姿を気持ち悪いって言うの」

 だから顔を、取ってみせたのにさ。

 彼女が最後に放った一言で、店の空気は徐々に元の温度を取り戻していった。ほどなくして、同じ女性店員が注文を取りにきた。ランチタイム限定食べ放題を注文すると、ドリンクはカウンター側にご用意しております、という説明をして彼女は厨房に引き返した。

「飲みもの取ってくるね」

 私はあっけにとられて固まっていたが、エリカのその言葉で動けるようになった。わっ私も、とつられて立ちあがる。ガラス製のサーバーがたくさん置かれたカウンターに颯爽と向かう彼女の背中を追いかけながら、通り道の席の人々を盗み見る。当初あった、とげのような雰囲気は薄れていたが、いまだにこちらを複雑な表情で見つめている人は何人かいた。

「エリカ、すごいね」

「なにが」

 オレンジジュースで満たされたサーバーを傾けながら、エリカが尋ねる。容器の中の氷が揺れて澄んだ音を立てた。

「あの人たちを黙らせちゃうなんて」

 納豆フェイスと呼ばれていたエリカが、机に落書きをされて泣きながら消しゴムを握っていたエリカが、こんなことをするなんて。しかも、本人に怯えたり躊躇したりした様子はなかった。首から上を、体から切り離す。それを実行したことで、彼女は精神的に成長したのだろう。

「そんな、別にすごいことしたつもりはないよ。今すごいはらわた煮えくり返ってるけど、怒鳴るのは得策じゃないって、小学生のころに思い知らされたしね」

 エリカはそう淡々と語り、満杯になったグラスを持ちあげる。それを見ながら、なぜ私は彼女と会おうとしなかったのかについて、ようやく理解する。地元を離れてしまったエリカを見るのが、怖かったのだ。転校することで環境を変えた彼女が、わずかに自信をつけたり心の余裕を生んだりした状態で、依然としてなにも変わっていない私の前に現れてしまうのが、たまらなくみじめで、恐ろしくて、嫌だったのだ。

 でも長い時間が経ち、エリカはこうして戻ってきて、私の前に背筋を伸ばして立っている。かたや私のほうはというと、昔の自分のまま大きくなり、微妙な孤独と負のオーラを背負いながら、エリカがオレンジジュースを持って席に戻る姿を、背中を丸めてぼんやり目で追っているだけだった。


「お、お客様!」

 先ほど、注文を取りにきた店員の慌てた声が耳を貫く。続いて、グラスを握る手に冷たさを感じた。手元を確認せずにサーバーを傾けていたせいで、アイスコーヒーがこぼれてしまったらしい。私は急いでサーバーを元に戻す。コーヒーは木製のカウンターに黒い水たまりを作っていたが、幸い床にはこぼれていなかった。お召しものは汚れませんでしたか、という彼女の声に、大丈夫です、と返事をしながら、私は少しだけ笑みを作る。それを見て店員が少しだけ動揺したそぶりをしたが、それでも私は微笑み続けた。だって、私は確信したのだ。

 エリカは強くなった。だからきっとこの後、すごいことをしてくれると。


 店員がカウンターを拭き終えたのを見送ると、私は席へと戻った。そして、エリカと二人で他愛のない話をしながら一時間ほどランチを楽しむと、お金を払って店の外に出た。駅の近くの住宅街にある私の家に二人で移動し、卒業アルバムを見ながら嫌いだったクラスメイトの悪口を言ったり、途中でパートから帰ってきた私の母も交え昔話に花を咲かせたりして過ごした。

「あら、そろそろいかなきゃいけないんじゃないの」

 午後五時を少し回ったころ、リビングの壁にかけられた時計を見て母がそうつぶやいた。私とエリカはお互いうなずくと、椅子から立ちあがって二階にある私の部屋に向かった。クローゼットを開け、黒い衣類カバーのかけられたハンガーを取り出す。後ろを振り返ると、エリカはトランクに収納していたガーメントバッグを取り出していた。そのチャックを開けながら、彼女が呟く。


「いやあ、まさかリザキが死んじゃうなんてね」


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