顔をたずさえ
大滝のぐれ
1
ピンク色のトランクを引きずり駅の改札を出てきたエリカを見て、私は思わず泣きそうになってしまった。
「アラコ、ひさしぶりー!」
白いタートルネックのセーターに黒のスカートとタイツを身につけた彼女は、イヤホンを耳にはめて音楽を聞いていた私を発見すると、手を小刻みに振りながらちょこちょことこちらに歩いてきた。そしてすぐに、私が口元を両手で覆って震えていることに気づき、怪訝そうな声をあげる。
「どうしたの。子鹿みたいになってるよ」
だって。だってさ。私はやっとの思いで声を喉から絞り出しながら、エリカの姿を首元から足の先までくまなく眺める。すらりと細く、形のよい脚。くっきりとしていて美しい腰のライン。私はまた泣きそうになってしまう。彼女が積みあげてきた努力が、ようやく実を結んだのだ。自分のことのような嬉しさを覚えながら、私は口を開く。
「本当に、きれいになったね」
「ありがとう。ここまで長かったよ。お金もすごくかかったし、周りの人の偏見もあったし。でも、やってよかったと思ってる」
首を分離させて、本当によかった。
エリカがうっとりとした様子で放ったその言葉は、彼女がトランクの持ち手に引っかけている、黒いバッグの中から聞こえてきていた。
私とエリカは家が隣同士で、引っ込み思案なところも似ていて気が合い、幼稚園のころから仲がよかった。その関係は中学生のときまで続いた。しかし中学三年生の秋、エリカは父親の仕事の都合で引っ越すことになってしまい、私たちは離れ離れになった。
それからもこまめにメールなどで連絡は取り続けていたのだが、半年前にいきなり、首から上を分離させ笑顔を浮かべているエリカの写真が送られてきた。最初は彼女がウケを狙って送ってきたコラージュ画像だと思っていたのだが、テレビ電話をかけてみると、それが編集した写真ではなかったことがすぐにわかった。通話をしながら、私は彼女の痛ましい小学校時代を思い出さずにはいられなかった。
エリカは、小学生のころにクラスの中心的立ち位置だったリザキという男子から「納豆みたいな顔してんなお前」と言われてから、ずっと自分の顔を気にしていた。そんなある日、彼がエリカの顔に納豆を故意にぶちまけ(事故だ、とあの男は言い張っていたがそんなはずはない)、エリカがリザキに怒鳴り散らしてしまうという事件が起きた。それを彼が煽ったりおちょっくたりして大ごとにしたせいで、エリカには『納豆フェイス』という不名誉なあだ名がついた。元々話すのが苦手なせいで友達がそこまでいなかったエリカはすぐにクラスの中でいじめの対象になった。私だけは彼女をかばったが、自分もエリカと同じような状況にいたので、しばらくしてターゲットに加えられた。その日を境に、いつかこの顔を取ってしまいたい、というのが彼女の口癖兼将来の夢になってしまった。
だが、こうして長い時間を経て、ようやくその願いは叶えられた。バイト代をほとんど貯金にまわしたり、昼食を食パンだけにしたりなど、様々な苦労があったらしいが、今の彼女の自信に満ち溢れた立ち姿は、その苦痛の対価に見合った素晴らしいものだった。
「それにしても、ちょっと早くつきすぎちゃったかもね」
エリカと共に駅ビルの中を歩く。今の時刻は九時半になりかけているところだった。専門店のシャッターはところどころ開店準備のために開いている程度で、寿司屋の店員が巻き寿司を陳列したり、ケーキ屋の店員がおすすめ商品を書いた看板を用意したりしていた。
「たしかに、まだけっこう時間あるね。どうしようか。エリカ、こっちひさしぶりでしょ? どこか行きたいところないの」
エリカは首から薄赤い煙を吹き出しながら、胸の辺りのセーター生地を指でいじる。悩んでいるらしい。
中学三年生でこの町を離れてから、彼女は一度もこちらに戻ってきていない。また、私と画面越しにではなく実際に会うのも、そのとき以来だった。
「んー、そしたらまず亀之助公園にいきたいかな。よく遊んだあそこ。シーソーの亀之助、まだある?」
「うん。亀之助は二回ぐらい壊れて、そのつど修理されてるらしいけど」
私たちは会話しながら駅を出てロータリーに降り立つと、駅前から出ている市内循環バスに乗車した。そこから四つ目のバス停で降り、近くにあるジョナサンの看板脇をすり抜け、横道に入る。しばらく歩くと、辺りを木に囲まれた四角い公園が現れた。その中心には両端に緑色の甲羅の亀をモチーフにした飾りがついたシーソーが設置されている。この目立つ遊具が、子供たちの間では亀之助と呼ばれていた。この公園の本来の名前は東公園という味気ないものなのだが、子供に限らず近所の大人も、その名前にちなんで亀之助公園と呼ぶのが一般的であった。
「うわー、懐かしい」
エリカが手にするバッグの中から、嬉しさにあふれた声がした。彼女はバッグを振り回しながら、シーソーに向かって走っていく。平日だったので公園内には人がおらず、首のない女子大生が一心不乱に駆ける姿は誰にも見とがめられなかった。私もそれにワンテンポずれる形でついていき、エリカと一緒に亀之助に座った。
そのまま私たちはシーソー遊びを開始した。途中で新聞を片手に入ってきたジャージ姿のおじさんがぎょっとした目でこちらを見たが、エリカの視界には入っていないらしく、黄緑色の煙をあげて楽しそうにしていた。
「ねえエリカ、そういえばその体でどうやって周りの景色を認識してるの」
「正確なメカニズムはわからないの。なんか首から出てる煙が関係してるみたいなんだけど、まあ見えてるしいいかなあって。正直、顔がわたしの体から分離してくれればなんでもよかったから」
「大丈夫なのそれ」
「一応、世界的に認められた技術みたいだし大丈夫っぽいよ。日本ではわたし含め、七人しか施術を受けた人がいないみたいだけどね。だから貴重なのよわたし。ほらもっと大事にして待ってそんなに激しくシーソーを揺らすなあんたおい」
私は黄色のもやを吐き出すエリカの首元を見ながら微笑む。頭の中の時間が小学生のころに逆戻りしていき、思い出がよみがえる。
当時も、下校途中にこの公園でよく遊んでいた。まだ亀之助の塗装も新しかったころで、今のようにくたびれた雰囲気はなかった。
シーソー遊びに加え、その横に設けられた砂場でも、私たちは山を作ったり街を築いたりして遊んでいた。砂を固めるにはどうしても水を砂場に流し入れる必要があったのだが、それをすると公園の目の前に住んでいるスパンコールの服を着たきつい顔のおばさんに叱られた。それで半泣きになりながら数メートル先のスーパーまで避難したこともあった。
交互にシーソーを揺らしながら、私はそのきらきらした昔の記憶をつないでいく。不思議なことに、いじめられていたときのことは、たくさんあったはずなのにあまり詳細に思い出せなかった。思い出というのは美化されがちなもの、というのをどこかで聞いたことがある。あの生ごみのような記憶は、脳が勝手に封じてしまったのだろうか。
「アラコ、そういえばあんたは小中だけじゃなくて高校も大学も地元の学校に進学したんだったよね。どうして」
「どうして、って。めんどくさいじゃん、わざわざ遠いところにいくの」
たしかに、遠くの学校へ進学し『いじめられている私』という皮を脱ぎ捨て生まれ変わる、ということも考えたことはあった。だがそれよりも、知らない人の中から関係を持つ人を選んで一から人間関係を構築することのほうが、当時の私には面倒くさく思えてしまった。
そのため私は結果的に、中学までのキャラクターを引き継ぐ形になった。高校生になったことでいじめというような苛烈な行為は鳴りを潜めたが、少しよそよそしい態度をとられたり、輪の中からなんとなく外されたりなどは続いていた。大学はほとんど地元の子が進学してこなかったので平和ではあったが、今までの人生で蓄積してしまった人間に対するざらついた経験のせいで、友達作りは入学して二か月で暗礁に乗りあげてしまい、私と話してくれる人間はごく少数だった。
「まあそんなことを聞くわたしも、アラコと同じ状況だったら普通に地元進学だったかも。引っ越しが決まったとき、アラコと離れ離れになるのは悲しかったな」
私もだよ、と同意しながら、別れてしばらくは頻繁にエリカから遊ぼうとか会いたいとかいう申し出がきていたな、ということを思い出す。いくら中学生とはいえど、完全な子供というわけではない。彼女が引っ越したのはこの町から二時間ほど電車に揺られればたどりつくことのできる場所だったので、会おうと思えばいくらでも時間は作れたはずだった。それなのに、なぜか私はそれをしなかった。どうしてだろう。
その後、私たちはしばらく亀之助公園で遊んだ。水道の近くに子供が置いていったと思われる、取っ手がひびわれた赤いプラスチックのバケツがあったのでそれを拝借し、私は砂場に水をぶちまける。スパンコールおばさんの家は二年前ぐらいに彼女が病気で亡くなってしまったことにより、いつのまにか黄色い壁の真新しい家に姿を変えていた。私たちはあのころのように半べそをかいて公園から退避することもなく、長い時間をかけて風光明媚な景色を持つ山間部の集落を砂場に創造した。だが、ここまでしてしまうとさすがに公園で遊ぶのに飽きがきてしまった。しばらく話し合った後、私たちは砂場をそのままにして、ここから撤退することにした。
「砂場とは無限の想像力を具現化する、一時の楽園……この作品はとても見事だけど、じきに次代を担う子供に破壊され、新たな素晴らしい創造物の礎になるのよ」
集落の光景を携帯で写真に収め、エリカは冗談めいた明るい口調でつぶやいた。その雰囲気は、どこかほの暗さを抱えて私と遊んでいた昔のエリカとは、どうやっても重ならなかった。
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