2 火曜日の女がヨガをする。
2 火曜日の女がヨガをする。
暗闇から音が聞こえてくる。「それでは太陽礼拝のポースをはじめます」ヨガのポーズを促す音声。音声に合わせてポーズをとっていく火曜日の女。その姿を水曜日の女が、ソファーに座り、スナック菓子を片手に見ている。どうやらここは火曜日の女の部屋。
水曜日 ふふふ。
火曜日の女は水曜日の女のことなど気にせず没頭している。
水曜日 姉さんはいつもそう。
間。
水曜日 人の話なんて聞く気がないのよ。
間。
水曜日 ねえ、覚えてる?
火曜日 (動きを止めて)なに。
水曜日 珍しい。
火曜日 あんたのその話は聞き飽きたよ。ていうか聞きたくないよ。
水曜日 そお? わたしは何度だって話したいわ。そうでなくちゃ、忘れてしまう。
火曜日 忘れな。
水曜日 なんで。
火曜日 あの頃のことは忘れるのよ。
水曜日 どうして? わたし、あの頃が一番楽しかった。家族でぎゅっと寄り添ってて。
火曜日 ただ部屋が狭かっただけじゃない。
水曜日 みんなでさ、一つの部屋で暮らしてて、貧乏だったけど、距離が近くて、すごく楽しかった。満たされてた。
火曜日 ……何度もいったけど、あの頃はひどかったわよ。
水曜日 そんなことないよ……。家族が一丸となって立ち向かった、って感じで、なんていうか、お祭りみたいだった。
火曜日 (鼻で笑う)あれが。お祭り。
火曜日の女はアイフォンを手に取り、ヨガのナレーションを消す。
水曜日 わたし、あのときの自分にいつだって、いってるのよ。
火曜日 いないわよ。あんたはもう、いまのあんたしかいない。
水曜日 この楽しい時間はもうこないんだよ、だから楽しんで。楽しんで、って。
火曜日 過去にいくら念を送ったってどうにもなんなんよ。もう存在しない時間だから。
水曜日 そんなことないよ。どこかの時空にあるのよ、そこは。
火曜日 なに勝手に時をかけてるわけ。
水曜日 時をかけるおばさん。
火曜日 そんなことないわよ、あんたは若くて綺麗よ。
水曜日 知ってる。
火曜日 いって損した。
水曜日 あのときのお父さんは、ほんとうにかわいそうだった。なにもかも無くして。友達に裏切られて。保証人がどうこうなんて、ドラマのなかでしかないものだと思ってた。でも、あった。家中がしっちゃかめっちゃかになって、夜に逃げ出すことになって。わたしはお姉ちゃんと手をつないでいて。
火曜日 それはきっとあんたの妄想だよ。
水曜日 妄想。
火曜日 あのときあんたは母さんに抱えられていた。小さかったし。小学生だったし。ぜんぶあんたが後付けで作り上げたドラマだよ。流行ってたもんね、主人公に不幸ばっかり起きるみたいな社会派気取りのやつ。
水曜日 そんなことない。
火曜日 それに父親はそのあとずーっとテレビを観ていて、無気力だった。お母さんが働いた。わたしもアルバイトをしていた。あの親父だけが家にいて、朝から晩までテレビを観ていた。洗濯も掃除もしやしなかった。
水曜日 でも抱きしめてくれたわ。
火曜日 やめな。
水曜日 お母さんもお姉ちゃんもいないあいだ。
火曜日 ……。
水曜日 お父さんのお尻の右のほっぺに、黒子があったじゃない。
火曜日 知らないわ。
水曜日 お父さんのお尻、おかしかったなあ。他と皮膚がちがうの。触り心地がちがう。すべすべしてて。わりと脂肪のないひとだったのに、お尻はなんだかかわいらしくて。おまんじゅうみたいだった。わたし、お父さんのお尻に思い切り噛み付いたことがある。
火曜日 ……やめなさい。
水曜日 最初は、いたいいたい、とかいってるんだけど、このお尻は甘い味がするんじゃないかな、って思ったの。そういえばあの頃、お菓子をあまり食べられなかったから、ああ、どんな味がするんだろう。皮膚のなかのぶよぶよしたものの先は、きっと甘いんだろうな。チョコ? あんこ? カルピスみたいな味? そう考えたらなんだか興奮した。深い噛み跡がお尻について、悔しかった。ああ、どうしても噛みちぎれないって。せめて、その黒子をくりぬいて、食べられないかなあ、っていつも思ってた。
火曜日 そろそろ仕事に行かなくちゃ。
水曜日 今日、あの人がくるんだっけ。
火曜日 そうかもね。
水曜日 お姉ちゃんの勤めてるとこ、枕営業NGでしょ。
火曜日 何度もいってるけど、わたしはそんなことをしていないし、するつもりもないわ。
水曜日 お姉ちゃんは待ってるんだ。
火曜日 なに。
水曜日 お父さんが抱きしめてくれなくて、家を出て行って、一人で。めんどくさい、確実に頭のおかしい妹を抱えて養うことで、自分は意味がある人間だと確認して生きている。そして誰かが手を差し伸べてくれるのを待っている。こんなにがんばったんだ、すごいね、といってもらいたがってる。
火曜日 ふふ。
水曜日 なによ。
火曜日 そうよ、っていって欲しいのかもしれないけど、無駄よ。わたしは家から出て行った。家族を捨てた。それは本当。そして母さんもいなくなった。父親は死んだ。あんただけがあのアパートにいた。だから引き取った。なぜかっていったら、妹だったから。おしまい。それ以上でも以下でもない。
水曜日 それも嘘ね。
火曜日 事実よ。
水曜日 ねえ、多分わたしとお姉ちゃんのあいだに、ほんとうのことがあるのよ。それで、わたしたちはいつもほんとうのことを求めて、こうして話をしているけど、決してそのほんとうを手にいれることができないの。だってほんとうを、どう扱っていいのかわからないから。それにもしほんとうのことを手にしたところで、どうしたらいいのかわかんないのよ。
火曜日 あんた、難しい本の読みすぎよ。
水曜日 お姉ちゃんは臆病なのよ。そこが一番問題なんだな。
火曜日 もう行かなくちゃ……。
水曜日 あの人のお尻にも、黒子があるじゃない。
間。
水曜日 本気になったのって、あの黒子を見てから? でもあの人の黒子は左よ。それに位置もずっと上の方。お父さんじゃないわよ。
火曜日 どういうこと。
水曜日 わたしはただ、正したいの。わたしが見ているものを、きちんとお姉ちゃんに見て欲しいの。お姉ちゃんは手をにぎってくれていたのよ。でもその手は離された。わたしはずっと手を握っていて欲しかったし、お姉ちゃんは一人ではだめだから、わたしが握ってあげなくちゃって、お母さんに抱かれているあいだ、ずっと思っていたのよ。
火曜日 わたしは手なんて握っていない。
水曜日 お姉ちゃんを、正しい世界に連れ戻さなくちゃいけないって、いつも思ってる。
火曜日 あの人に会ったの。
水曜日 問題は、なにが正しいのかわからないとこなんだよね。わたしの正しさも違うし、あいだをとるっていうか……。でもそうすると、わたしも変わっちゃうんだろうな……。
火曜日 帰ってから、話をしましょう。
水曜日 なにを話すの?
火曜日 散々言いたい放題いっといて、あんたなにをいってるの。
水曜日 一度おねえちゃんの世界に、思い切って潜ったほうがいいと思ったのよ。
火曜日 あんた頭……。
水曜日 おかしい?
火曜日 ……。
水曜日 わかったことがあります。わたしは、おねえちゃんの好きになるものを、無条件に好きになるんだって。プリンも、お父さんも、あの人も。
火曜日 ……。
水曜日 プリンのこと覚えてる?
火曜日 ……。
水曜日 一緒に連れてくればよかったよね。
火曜日 無理よ。
水曜日 え。
火曜日 お父さんが殺したから。
渋谷のスクランブル交差点の音。
暗転。
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