序章 4
隠し階段を
「ロボット兵たちよ。この書類と通信機、そして壁に飾られてある肖像画を、安全な場所で蒸発させて処分しろ」
「かしこまりました」
最後になるであろう命令を大統領から賜ったロボット兵たちは、マリーニン大統領からベロボーグ計画専用通信機と計画書を受け取り、手分けして肖像画を壁から外して、廊下を曲がった先にあるトイレへと運び、それらをレーザー小銃によって蒸発処分した。
緊急執務室に戻ったロシア中枢の面々は席に着いたが、体を休める
席に着いたばかりのドミトリチェンコ国防大臣が、諦念を顔に浮かべながら報告した。
「大統領。核ミサイルに混じって、複数の地中貫通ミサイルが飛来しているとのことです」
「具体的な数字を聞かせてくれ」
「四十二発です」
それだけでは済まないだろう。これは第一波に過ぎない。そう考えた大統領は、望みのない現実を切り分け、それを少しずつ懸命に受け入れながら指示を出した。
「案ずるな。各自、管轄する部署の指揮を執り続けろ」
マリーニンは、自らが発した言葉によって胸を痛めていた。
明らかな嘘を言うのは苦しいものだな。第二波、第三波、第四波と、地中貫通ミサイルは飛来し続けるだろう。
「一発目が迫っています。三、二、一、弾着」
そう報告したドミトリチェンコ国防大臣の声からは、覇気も生気も消え去っていた。
弾着した地中貫通ミサイルの衝突と爆風が強化鉄筋コンクリートとセルロース層を吹き飛ばし、炸裂後に残留するレーザー貫徹機が、金属壁を溶かしながら潜行し、最後に核融合反応によって爆発を起こして、シェルターを
緊張に満ちた沈黙。誰の呼吸音もなく、地中貫通ミサイルによる振動もなかった。
「ドミトリチェンコ国防大臣、報告を」
「少々お待ちください、大統領」
国防大臣はセンサーの反応を参照し、すぐに詳細を報告し直した。
「地表から四百メートルが
一発目と同様、二発目も地下十五キロメートルにある緊急執務室を揺らすことはなかったが、緊急執務室で報告を聞く者たちの心は、
「地中貫通ミサイルの数が多すぎます」
ノヴィツキー外務大臣が弱音を吐くと、大統領は思いのほか寛容な態度で返答した。
「西側諸国が結託して、タイミングを計算しながら効率よく撃ち込んでいるのだろう」
激高するかと思われた大統領が落ち着き払っている様子を見た閣僚たちは、終わりが近いことを予感した。大統領は運命を受け入れ、聖人のような心持ちで最後の時を待っている。マリーニン大統領の振る舞いは、そう思わせるような寛大さに満ちていた。
閣僚の面々が感じ取ったとおり、マリーニンは実際に全てを受け入れ、今の自分に何ができるのかだけを考えて行動していた。
やはり、地上では死ねないようだ。ならば、大統領としてできる限りのことをしよう。
マリーニン大統領は卓上にある旧型通信機を使い、もう二度と軍事パレードで礼を交し合えないであろう兵士たちとの通信を開始した。
「地上の戦士諸君。私は無事で、現在も懸命に指揮を執っている。諸君の頼もしい姿が、目に浮かぶようだ。諸君の献身に、心から感謝する。我々の心は、この母なる大地を介して繋がっている。とても強く。この絆は、誰にも切り離すことはできない。我々は永遠に一つだ。共に戦おう!」
「
通信機の向こうで、いくつもの雄叫びが上がった。その叫びは止むことなく、何度も何度も繰り返された。死への恐怖と生への渇望が渦巻くその声に、マリーニンは高ぶりと悲しみによって目頭を熱くしながら、敵国への怒りと恨みに歯を食いしばった。
ああ、ベロボーグ計画のことを伝えられないのが悔しい。若者たちよ、ありがとう。そして、すまない。
止まない地中貫通ミサイルによる攻撃が、少しずつ、だが着実に、地下十五キロメートルにある緊急執務室を守るシェルターの分厚い天井を削り取っていく。一同は、眼鏡型端末に表示された防護壁の厚みの数値を見つめることしかできなかった。
防護壁の厚さ、残り十三キロ。
マリーニン大統領が、急激に短くなってしまった余生の際で語る。
「核の恐怖は、人の理性まで焼き尽くす。核戦争が起こってしまったら、どちらかが壊滅状態になるまで撃ち合うことになる。世界はもう止まらない。ベロボーグ計画が発動されたからと言っても、楽観視はできない。ロシア連邦が破壊され尽くされて崩壊することに変わりはなく、ベロボーグ計画が成功するかどうかも定かではないからだ。しかし、
「ベロボーグ計画を推し進めてくださった歴代大統領に感謝を捧げます」
恐慌を
防護壁の厚さ、残り十キロ。
盾の厚みが半分に迫ろうとしていたが、ロシア中枢の面々の心に築かれた要塞は、その堅牢さを保っていた。しかし、交わす言葉は一つもない。心の要塞を維持するには、絶えず自身を鼓舞し続ける必要があったからだ。彼らは毎秒ごとに、生還できると自らに言い聞かせながら、降り注ぐ敵意の塊が打ち止めになることを祈った。
防護壁の厚さ、残り四キロメートル。
彼らは、祈り続けるという行為が、どれほどの体力を奪うものなのかを知った。
マリーニン大統領だけは、じっと目を瞑ったまま祈りの姿勢を崩さなかったが、数人の閣僚は、俯いたり、かすかに充血した目を爛々とさせて緊急執務室の天井にぶら下がるシャンデリアを見つめるなどして、自らが置かれた絶望的状況と懸命に戦っていた。
防護壁の厚さ、残り一キロメートル。
敵の地中貫通ミサイルが尽きることを期待していたが、その望みは叶わなかった。弾着報告が齎される間隔は少しも遅れることはなく、シェルターの防護壁は毎分ごとに厚みを失っていく。それと同時に、緊急執務室にいる面々が心に築いた要塞の城壁も、徐々に崩壊し始めていた。彼らは懸命に、崩れた心のレンガを積み直し続ける。
防護壁の厚さ、残り六百メートル。
幾度も幾度も襲来し、天井を
防護壁の厚さ、残り二百メートル。
くぐもった爆発音が、頭上から響いてくる。彼らの耳には、それが悪神チェルノボグの足音のように感じられた。刻一刻と迫る悪神の気配に冷える背筋と、対照的に熱を帯びる心臓。悪神の魔手が胸ぐらを掴むまでの猶予は、
防護壁の厚さ、残り三十メートル。
地中貫通ミサイルによる処刑法は、圧死か、爆死か、焼死か、それとも蒸発死か。国の中枢を担って緊急執務室に詰めている者達は、死刑執行を待つ者の気持ちを初めて理解しながら、自分がどのような殺され方をするのかと思いを巡らせていた。理性的な思考は失われ、時折、夢であってくれと願う気持ちだけがふわりと浮かんでは、すぐ掻き消される。精神の限界が訪れるのが先か、天井が突き破られるのが先か。閣僚たちの平常心は、
マリーニン大統領は、閣僚たちの顔を見渡した。このような場面でも、彼はつい部下の資質を探ってしまうのだった。部下たちの表情を読んだ彼は、消沈しながら思った。
我ながら困惑する。長年に渡って培われてきた習慣は、死を目前にしながらも顔を出してしまうものなのか。ミハーイロフ首相は良き政治家だが、繊細すぎて覇気に欠けるようだ。もし生還できたならば、後継者は彼ではなく、ドミトリチェンコ国防大臣にすべきか。まあ、それは有り得ないことだが。天井は、あと一発か二発で崩壊する。このような事を考えるのは時間の無駄だな。これではいけない。最後は、厳かに迎えなければ。
大統領が口を開き、深呼吸のように大きく息を吸うと、それを見た部下たちも同じように息を吸った。久々の大きな呼吸によってむせた数人の咳払いが、緊急執務室に響く。
「諸君、最後の祈りを。……アミン」
「アミン」
祈りを終えたマリーニン大統領が、溢れ出る感情を言葉に変えて放った。
「ベロボーグ計画がある限り、ロシア連邦は不滅である。諸君の――」
大国ロシア連邦大統領の口から発せられようとしていた心からの謝辞は、崩れ落ちたシェルターの瓦礫によって潰され、誰の耳にも心にも届かぬまま、
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