序章 3

「これより、ベロボーグ計画を発動する。ついて来い」

 マリーニン大統領はそう言うと、未知の計画の存在に戸惑う閣僚たちを引き連れて黒檀製のダブルドアを開け放ち、ロボット兵が整列している廊下の壁に飾ってある歴代大統領の肖像画の額縁に、次々と触れていきながら歩いた。

「これらの額縁には、指紋認証と静脈認証とDNA認証機能が備わっている」

 そう語るマリーニン大統領に対して質問を投げかけたい衝動に駆られた者もいたが、未知の計画の存在が明らかとなった上に、その謎が解き明かされようとしている今、誰一人として言葉を発することができず、ただ黙って後をついていくしかなかった。

 第六代大統領の肖像画の額縁を触りながら、現ロシア大統領は秘密の一端を明かし始めた。まるで骨董品でも愛でるような目つきで、穏やかに肖像画を眺めながら。

「ベロボーグ計画とは、引退間近となった第六代大統領が一部の閣僚とともに立案し、その後、歴代大統領のみに脈々と引き継がれてきた最重要計画だ。この継承方法により、ベロボーグ計画の秘密は保たれてきた。後継者と見込んだ者にベロボーグ計画の存在を明かす行為こそが、実質的な権力継承の儀式となる。私も、早い段階で先代から明かされた」

 マリーニンの手が、最後の認証が行われる先代大統領の肖像画の額縁に触れる。音もなく認証が済むと、正面に見える大統領執務室直結エスカレーターの踏段が次々に下がり始め、さらなる地下へと続く階段に変容した。

「我が国で最も偉大な遺産が、今、我々の希望となって未来を照らす。ついて来い」

 計画について何一つ知らぬ閣僚たちは、計画の全容を知る唯一の存在である導き手の案内で、旧世代だが長寿命の発光ダイオードが照らし出す階段を、慎重に降りていく。

「祖先への敬意を胸にいだきながらあゆめ」

 ロシア連邦政府の中枢を担う者たちは、聖人が葬られた地下墓地で執り行われる特別礼拝に参列するかのようなうやうやしい足取りで、一段一段ゆっくりと階段を降りる。

 胸を張りつつも足元を確認しながら階段を降りるマリーニン大統領が、後ろを振り向かぬまま、秘密計画の情報開示を再開した。

「ベロボーグ計画は、決して途切れることなく継承される仕組みになっている。大統領が継承前に死亡した場合は、体内に埋め込まれた専用通信機が生体反応の喪失を感知し、自動的に継承プログラム起動コードを送信して、あらかじめ設定しておいた暫定継承者に遺産が受け継がれる。実際に、そうして緊急継承されたこともあったそうだ」

 計画の全容を知らない閣僚たちは、唸り声を返すことしかできなかった。

 階段を降りた先には、銀行の金庫を連想させる、鈍色をしたタングステン製の大扉が待ち構えていた。いかなる解体機具や重機をってしても破壊できそうにない、高さ六メートル、横四メートルの大扉は、ドーム状に膨らんでいる。金庫全体が球体になっており、その形状によって、あらゆる衝撃を受け流して耐えられるようになっているのだ。

 胸の高さあたりに備え付けられているタッチパネルの前に立った大統領が、首飾りをスーツの中から引き上げながら振り向いて、今もなお困惑の只中にある閣僚たちに説明する。

「この首飾りには、先代のDNA情報が記録されている。この扉は、私と先代によって開かれるのだ」

 大統領はタッチパネルに向き直り、自身の右手と、先代の体細胞と解除コードが入っている首飾りを掴んでいる左手を、認証機を兼ねているタッチパネルに密着させた。すると、瞬時に認証を終えた管理コンピュータが、複雑に噛み合った鉤扉かぎとびらを前後にずらして開錠した。続いて、わずかな地響きと共に分厚い大扉がゆっくりと左右に開いて、ベロボーグ計画の施行者を出迎える。大扉の奥に隠されていたのは、予想に反して絢爛な、広さ八メートル四方ほどの部屋だった。大統領の背中越しに、煌々と照らされた豪華な内装を目の当たりにした閣僚の面々は、みな一様に、就任式が執り行われる広間を連想した。無垢な白壁に壮麗な金の装飾が施されたその一室は、狭いながらも、クレムリンにあるどの広間よりも美しく見えた。

 先代と共にこの部屋を訪れたことがあるマリーニン大統領は、装飾など気にも留めず、真っ直ぐに部屋の中心へと歩を進め、憲法典と共に傾斜台に飾られた、金の装飾が美しい革張りのフォルダを手に取って振り返り、後ろに控える閣僚たちに向かって突き出した。

「この計画書に目を通せ」

 最も近くに立っていた大統領補佐官が、そのベロボーグ計画書を受け取って反転し、閣僚たちに見えるように胸元で開き、自身も首を傾けて書面を覗き込んだ。ひしめき合い、覗き込むようにして計画書を読む閣僚たちの目が文字を拾い上げるたびに、彼らの顔に沸々と生気が戻っていく。

「これは素晴らしい!」

「さすがは、伝説的大統領だ!」

「我々は終わらないのだな!」

 計画書を読み終えた閣僚たちは、これから自身に降りかかる不幸をしばし忘れ、口々に賛辞を述べた。ほんのひと時ではあったが、彼らは希望を取り戻すことができた。

 彼らがベロボーグ計画の内容を把握するまで黙って見ていた大統領は、頃合いを見て語り始めた。マリーニンただ一人だけは、これから訪れる現実を見据えていた。

「西側諸国は混乱に乗じて、一般市民もろとも我が国を壊滅させるだろう。未来に禍根を残せば、再び核戦争が起きかねないと判断するからだ。奴らはこの地を蹂躙し、全てを清算しようとするだろう。第六代大統領はこのような事態を予期し、ベロボーグ計画を立ち上げた。このベロボーグ計画が、ロシア連邦を救うだろう。たとえ、我々が滅しようとも」

 大統領の言葉によって死という現実に引き戻された閣僚たちは、家族を想って俯いたが、すぐに顔を上げて胸を張り、強い意志を宿した目で、大統領と視線を交わした。

 閣僚たちの高潔な瞳によって高ぶったマリーニンの心が、声となって発せられる。

「誇り高き国に生まれ、諸君と共に国を盛り立てられたことを誇りに思う」

 同じく心が高ぶった閣僚たちが、次々に言葉を捧げる。

「有り難き御言葉」

「私の中にある愛国心が、強く脈打っております」

「我が身にロシアの血が流れていることを、これほど誇らしく感じた日はありません」

「この国に尽くしてきた日々が、私の中で眩しく輝いております」

 マリーニン大統領は瞼を閉じ、ゆっくりと頷いてみせながら言った。

「諸君の献身に、心から謝意を表する」

 大統領は、その一言に全ての感情を込めた。そして、立場上どうしても伝えきれない個人的な思いを、心に反響させる。

 彼らは殊勝な人材だ。別れるのが惜しい。失われるのが惜しい。皆、よく働いてくれた。困難なこともあっただろうに、それでも一生懸命にやってくれた。時には、無理なこともさせた。手を汚させたこともあった。私は冷酷すぎたかもしれない。きっと、今もそうだ。

 大統領は顔が歪むのを隠すようにして踵を返し、部屋の奥にある台の上に置かれている古めかしいメダル型の高出力通信機を手に取り、背中越しに見せながら説明した。

「これが、ベロボーグ計画専用の通信機だ。使うのは一度きり。計画発動命令を受信した最寄の計画拠点が、その内容を付近の拠点に伝達する。それを繰り返すことで、全ての拠点に命令が伝わる」

 歴代大統領からの贈り物が今、マリーニン大統領の手に渡った。マリーニン大統領は咳払いを一つしてから、専用通信機を口元に持っていった。指向性通信を用いているので傍受される可能性は極めて低いのだが、もし傍受されたとしても計画内容が理解できないよう、極めて簡潔に、最初で最後の通信を実行する。

「実行せよ。以上だ。を《ー》る」

「了解」

 通信機の向こうにいる女性の声もまた、極めて簡潔に、計画の遂行を確約した。

 こうして、今、ロシア連邦最後の希望の火が灯された。次の瞬間、ベロボーグ計画によって齎された興奮が、静寂に包まれた通信室から静かに蒸発していき、閣僚たちは再び死の恐怖にいだかれた。それは大統領も同様だったのだが、彼はそれをつゆも感じさせずに、勇ましく宣言した。

「ベロボーグ計画が発動された。我々は終わらない」

 権力を継承される可能性がなくなったミハーイロフ首相が一歩前に出て、指をピンと伸ばして美しく敬礼し、大統領に忠義を示しながら言った。

「マリーニン大統領。歴史的瞬間に立ち会えたことを、心から光栄に思います。何が起ころうと、我々は一つです。最後の最後まで戦う所存です」

 ミハーイロフの指先と声の震えは興奮ではなく恐怖によって生じたものだったが、大統領はそれを、この国に生まれたことに対する感激と、ベロボーグ計画発動によって湧いて出た感動によるものとして受け取った。他の閣僚たちも同調して敬礼をすると、マリーニン大統領は悠然と答礼した。それが、最後の敬礼と答礼になることを予感しながら。

「では、緊急執務室に戻ろう。計画書をこちらに」

 補佐官から計画書を受け取ったマリーニン大統領が歩み出すと、閣僚たちは素早く左右に分かれて道を作り、誇り高き最後の大統領の横顔を、その目に焼き付けた。

 大統領の歩みは、彼らの目には厳かに映ったが、当人は重苦しい両足を前に出すのに人知れず難儀していた。体が、現実を拒否していたからだ。ウクライナからの不意打ちにより、核攻撃能力と防衛能力の大部分を失ったロシア連邦は、続いて加えられた西側諸国からの核攻撃によって風前の灯となった。ありったけの核兵器を撃ち込んで反撃したが、西側諸国のほうが迎撃能力に長けており、対立する全ての国を壊滅させることは不可能だった。つまり、完全敗北したのだ。ベロボーグ計画を発動し終えた今、彼の役目は終わった。もう核攻撃の決断をする必要はなく、国民の避難を指揮する必要もなく、敵国からの核攻撃が止んだあと、再起のために指揮を下す必要もない。彼はもう、何もできないのだ。彼に唯一残されているのは、緊急執務室で閣僚たちと共に過ごす無常な時間だけだ。その事実が、彼の足を鉛のように重くしていた。手に握られたままのベロボーグ計画専用通信機と計画書が、やりきれない思いを受け止めて、微かにきしむ。

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