序章 2

 報告書を読んで新たな状況を頭に入れたマリーニン大統領は、地下通路を急ぎ歩いているであろうノヴィツキー外務大臣に通信を入れた。

「報告がないということは、中国首脳からのメッセージは届いていないということだな?」

 感情の水面下で激高しつつある大統領の声を聞いたノヴィツキー外務大臣は、震える声を噛み殺すように、一音一音をはっきりと発音しながら答える。

「はい、届いておりません」

 ドアの奥から聞こえてくる足音が、眼鏡型端末を介した通信先から聞こえる足音と重なる。ノヴィツキー外務大臣は入室して自分の席に向かいながら、話の続きを直接報告した。

「こちらから何度も接触を試みていますが、まことに遺憾ながら無視されています」

「連絡の一つも無しか」

 マリーニン大統領は露骨に溜息を吐き、心の中で悪態をついた。

 能無しめ。大方、軍部の手綱を引き損ねたのだろう。それとも飼い犬に手を噛まれて、全てを失ったか。どちらにしろ、愚かなことをしてくれたものだ。

 外務大臣に続いて、首相、国防大臣、連邦警護庁長官、司法大臣、大統領特殊プログラム総局長、対外情報庁長官、連邦保安庁長官、連邦宇宙局長、そして内務大臣が緊急執務室に到着し、席に着いた。みな一様に黙り込んで、大統領の言葉を待つ。

 マリーニン大統領は閣僚の面々を凪ぐように見たあと、努めて冷静に言葉を放った。

「すべきことは済ませた。あとは防空に注力しながら、各国との緊密なやりとりをする以外に、動かすべき駒はない」

 イワノフスキー内務大臣が、いやに青白い肌に浮かぶ汗をハンカチで押さえながら言う。

「大統領、我が国に核攻撃をせんとする国はないのでしょうか?」

 ドミトリチェンコ国防大臣が丸刈りの頭の生え際に青筋を立てて、マリーニン大統領の憤りを代弁する。

「端末に届いた状況報告を、しっかりと読みたまえ。情報は常に更新されているのだぞ。まあいい、改めて説明する。現在のところ、北大西洋条約機構と東南アジア・オセアニア条約機構の加盟国は、中国との交戦に注力しており、我が国への攻撃の兆しはない」

 マリーニン大統領が言葉を繋ぎ、補足する。

「ただし、中国との交戦が終結したのち、我が国への先制攻撃が行なわれないという確証はない。楽観はしないように」

 すらりとした長身を誇るペトロフ対外情報庁長官が挙手をして、大統領の言葉を遮った。

「大統領、スパイ衛星によって得られた情報の分析結果が出ました。西側諸国は、中国から放たれた大半の多弾頭核ミサイルの迎撃に成功したらしく、ほとんどのミサイル基地は、ほぼ無傷の状態を維持している模様で、引き続き、中国への核攻撃を行っています。対する中国側は、迎撃に失敗して壊滅的な被害を受けています。そう長くはもたないでしょう。日本は、中国から距離が近いこともあり、超音速高機動無人ステルス攻撃機での局地的核攻撃によって壊滅状態に陥っています。日本のロシア大使館にいる駐在員との連絡が取れないので詳細を確認できませんが、衛星画像による分析に誤りはないでしょう。日本に対する警戒は、もう必要ありません。今後は、北大西洋条約機構加盟国のみに照準を絞るのが適切かと」

 突然、ドミトリチェンコ国防大臣が低い声を上ずらせながら報告した。

「報告します、大統領。中国が再度、大規模な核攻撃を実施しました!」

 緊急執務室に詰める面々は、固唾を呑んで報告を待った。中国最後の攻撃の結果次第で、ロシアが核戦争に巻き込まれる確率が大きく変動する。

 不意に訪れた、祈りの時。

 二十分に渡って続いた沈黙が、ドミトリチェンコ国防大臣によって破られた。

「衛星画像分析の結果はまだですが、先んじて、目視による比較の結果を報告します。北大西洋条約機構加盟国の被害は、先ほどと同程度。核攻撃能力は健在と思われます」

 マリーニン大統領は、北大西洋条約機構加盟国の矛先が自国に向く可能性が高くなったことを心の中で嘆きながらも、それを隠して国防大臣に問う。

「中国の状況は?」

「壊滅状態に陥ったとみて間違いありません」

「そうか。これより、ホットラインを介してアメリカ合衆国との交渉を開始する」

 マリーニン大統領は席を立ち、緊急執務室に隣接する大統領専用通信室へと移動しようとした、その時だった。ドミトリチェンコ国防大臣が、全員の鼓膜を破る勢いで叫んだ。

「大量の核ミサイルが襲来!」

 皆が目を丸くするなか、マリーニン大統領が睨むようにしながら冷たく問う。

「どこからだ?」

「ウクライナからです!」

「備えろ」

 冷静に放たれた大統領の言葉を聞いた閣僚たちは、努めて平静を装い、時が流れるのを待った。全員の視線と意識が、眼鏡型端末に表示された弾着予測時刻に注がれる。

 ドミトリチェンコ国防大臣が、弾着までの秒を読む。

「十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、弾着!」

 地下深くにある地下執務室には衝撃が伝わってこなかったが、その代わりに、実体が見えないが故に不気味に纏わりついてくる恐怖感が、全員の心臓を包み込んだ。心拍数が正常値に戻るもなく、ドミトリチェンコ国防大臣が、これから起こる核戦争の序章を語り始める。

「自動反撃プログラムにより、すでに複数の基地から核攻撃指令ミサイルが発射されました。間もなくウクライナのミサイル基地に着弾します。並行して、衛星からの質量兵器による攻撃も実行されます」

「こちらの被害状況を報告してくれ」

「はい。各地のミサイル迎撃部隊と核ミサイル基地との通信が途絶えました。深刻な被害が出た模様です。クレムリンに展開した機動迎撃部隊とも通信できません。迎撃に失敗し、地上にある大部分の核ミサイル拠点が喪失した模様です。敵のミサイルの弾道から計算しますと、黒海に潜む潜水艦からも発射されたようです」

 やりとりを聞いていたペトロフ対外情報庁長官が、周囲の目と耳を気にせず悪態をつく。

「ウクライナめ、やはり核を隠し持っていたな。アメリカ合衆国の差し金か!」

 彼には思うところがあった。ソビエト連邦崩壊時に、大量の核兵器を抱えたまま独立したウクライナは、ロシア連邦とアメリカ合衆国との協議の結果、一九九一年から一九九六年にかけて核兵器をロシアに移管し、平行して自主的に廃棄した。だが、実際には全ての核を処分しておらず、当時のアメリカ政府の手引きによって秘密裏に核兵器を保管しているのではという情報が諜報部から齎されていた。しかし確証が掴めず、噂の域を出なかったので対応できずにいたのだった。激しく悔やんでいるのは、マリーニン大統領も同じだった。ウクライナの核兵器に関する噂は、元諜報部員である彼も知っていた。しかし、悔やんでいる暇はない。現在の彼は諜報部員ではなく、ロシア連邦の大統領なのだ。彼は頭の中で素早く状況を分析し、整理した。

 迎撃部隊との連絡が途絶えたということは、ロシア連邦が迎撃能力を喪失したことを意味する。ただの通信不良ならいいのだが、それは有り得まい。電磁パルスを無効化する強固なシールド加工が施された有線でも通信ができないということは、その有線が物理的に切断されたことを意味している。つまり、迎撃基地とその周辺は破壊されている。

 打つ手なし。大統領の分析は終結した。

 冷や汗をかき始めたドミトリチェンコ国防大臣が報告する。

「ウクライナ本土への核ミサイルの弾着を確認。壊滅状態へと追い込みました。ウクライナは今後、打ち止めまで潜水艦からの核攻撃を実行し続けると思われます。こちらの潜水艦を向かわせ、撃沈させます」

「よろしい。引き続き、備えろ」

 次に何が起こるのかを、この場にいる全員が予測していた。雪崩なだれのような核攻撃が来る。

「続けて報告します。北大西洋条約機構加盟国から、複数の核攻撃を感知。自動反撃プログラムにより、隠蔽した地下ミサイルサイロから多弾頭水爆弾道ミサイルを発射しました」

「全ての核ミサイルを発射するよう命じろ、ドミトリチェンコ」

「一度に、全てを発射するのですか?」

「全てを発射しろと言っている」

 命じられたドミトリチェンコ国防大臣は戸惑いを見せたが、すぐに腹を決め、胸を張って答えた。

「了解しました」

 閣僚たちは、大統領が発した命令が意味するところを正確に把握していた。ロシア連邦は全ての核兵器を放ち、最後まで潔く戦い、そして歴史の中に消え行くのだ。彼らは頭を抱えて俯いたり、虚空を見つめたり、神に祈ったりするなどして、それぞれの形で終焉を受け入れ始めていた。

 だが、大統領だけは違った。

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