有機の罪と無機の罰 (縦読み版)

榎本愛生

序章 落日

序章 1

「大統領、急いで地下シェルターに向かってください。攻撃される恐れがあります!」

 二二〇九年、五月八日。午後五時四十二分。大統領執務室のドアが、大統領主席補佐官の声と共に勢いよく開け放たれた。部屋の主が、冷静な口調で答える。

「わかっている。行くぞ」

 ロシア連邦の首都モスクワのクレムリンに建つ大統領府の主、マリーニン・ユーリ・ドミトリエヴィチ大統領は、すでに退避準備を終えて、地下へと続く隠し扉の前で待機していた。彼は補佐官が入室してくる十数秒前に報を受け、自らを落ち着かせるようにダークブラウンの髪をゆっくりと後ろにひと撫でしてから、一転して素早い動作で卓上端末に記録されている作業情報と資料を消去し、かたわらに置かれた眼鏡型端末を装着しながら本革張りの椅子から腰を上げ、その足元に置かれた緊急時用ブリーフケースを掴み上げると、迅速な足取りで大統領執務室の隅にある隠し扉を開けて、数秒後に飛び込んで来るであろう部下を待っていたのだった。

 イヴァーノフ補佐官と十人の大統領近接警護担当者たちが全員揃っているのを確認したマリーニン大統領は、隠し扉から斜め下に向かって延びる高速エスカレーターに先行して乗り、核攻撃や地中貫通爆弾や大質量宇宙兵器の衝撃にも耐えられるシェルターの中核へと向かった。補佐官と十人の執務室警備担当者たちが大統領の背中を追って高速エスカレーターに乗ると、その背後で、今後しばらく使われないであろう隠し扉が自動的に閉じ、重苦しい音を立てて施錠された。

 大統領は脳波入力によって眼鏡型端末を操作し、現段階で明らかとなっている情報を展開して、レンズ部分に表示させた。眼鏡型端末を着用している本人にしか見えない報告書が、まるでホログラム映像のように、約四十センチ先の空間に浮かび上がる。彼は緊急事態発生から間を置かずに作成された報告書を確認し終えると同時に振り返り、低い声で指示を出した。

「警護部長、閣僚の退避状況を報告しろ」

 大統領警護部長を務める警護庁所属のアントーノフは、眼鏡型端末で警護庁機密情報に接続し、重要人物の退避状況を確認して報告する。

「全員、すでに地下へと避難中です。誘導に手落ちはありません」

「よろしい。通常どおり、八分弱で合流できそうだ」

 大統領の責務は、深呼吸をするいとまも許してはくれない。マリーニンは大統領警護部長とのやりとりを終えてすぐ国防相と通信を繋ぎ、最も重要であろう問いを口にした。

「核攻撃の準備はできているな、ドミトリチェンコ国防相?」

「もちろんです、大統領」

「そのまま備えておけ」

 確認を終えたマリーニン大統領は、すぐさまアメリカ合衆国大統領とのホットラインを繋ぎ、冷静な口振りで、脅威的存在との対話を開始した。

「スティーブン・クロウリー大統領。こちらはロシア連邦大統領、マリーニン・ユーリ・ドミトリエヴィチだ。当方の状況を説明させていただく。我々は軍事行動を起こす気はない。我々は、此度の中国による核攻撃とは無関係であり、中国政府の行動を強く非難する。我々は今、多大なる脅威を感じている。互いに性急な結論を出すことなく、事態が解決されることを強く望む」

「こちらはスティーブン・クロウリー大統領。当方は中国からの核攻撃のみを確認しており、貴国からの核攻撃の兆候を確認していない。よって、貴国に核攻撃を加える意思はない。この状態を維持するためにも、誤解を招くような行動は慎んでいただきたい。不穏な動きがあった場合、我々は然るべき行動を起こさざるを得ない。以上だ」

 簡潔に行なわれた対話を終えたマリーニン大統領は緊張を解いて、未来を伺った。

 考えるまでもなくアメリカ合衆国は、我が国の軍事施設に核攻撃の照準を合わせている。だが、当分は発射命令が下されることはないだろう。脅されはしたが、先制攻撃をせずにいてくれたことに関しては、素直に感謝せねばなるまい。

 マリーニン大統領は長考して時を無駄にしてしまった自身を責めながら、アメリカ合衆国大統領に続いて、ロシア連邦外務大臣との通信を繋ぐ。

「ノヴィツキー外務大臣。すでに声明を送信しているとは思うが、改めて、これから読み上げる声明を各国へ送れ。ロシア連邦は、中国による核攻撃とは無関係である。また、現在発生している戦闘行為に介入する意思はない」

「大統領声明として、速やかに送信します」

 初動を終えたマリーニン大統領の思考が、鋭く未来を巡る。

 現在、世界各国は中国との核戦争に総力を注いでいる。現段階では、我が国にまで核の炎が及ぶことはないだろう。猶予はある。次に打つべき手は、各国の大使館と総領事館の職員を地下に避難させ、彼らを通じて、改めて声明を伝えることだ。集中を保たねば。最悪の場合、戦争に巻き込まれてしまう。

 大統領は各国の要人を保護するよう命令し、次に国民の避難状況を把握して、それから各地の迎撃ミサイル部隊が無事であることを確認したあと、国土の各所に隠された地下ミサイルサイロの発射準備状況を確認し、すでに飛び立っていた戦闘機の展開状況を把握した。全てが定められた手順に沿って滞りなく行なわれていたが、それらが形ばかりの防衛体制でしかなく、実際に核攻撃を防ぐことは困難であることを、マリーニンは知っている。戦闘機は核ミサイルに対して無力であるし、迎撃ミサイルの精度は西側諸国の水準に満たないので、多数の核ミサイルを撃ち漏らすことが予想されるのだ。マリーニン大統領は高速エスカレーターの手すりを強く握り、胸を張って立ちながら、自らに命じた。

 今、私に要求されているのは、核戦争に巻き込まれるのを回避することだ。幸い、各国は中国のみが核戦争を仕掛けたという事実を正しく把握している。我が国に対する疑念はあるだろうが、情報を正しく分析し、核攻撃をせずにいる。困難な状況ではあるが、最悪な状況ではない。今、できることに集中しろ。私が神に選ばれて大統領となったのは、今日という日のためだったのだ。私が、この国と民を救うのだ。

 高速エスカレーターは微かに唸りながら、国の行く末と家族の無事を案じるロシアの戦士たちを地中奥深くへと導く。

 冷え切った沈黙が、時間の感覚を狂わせる。重責を負った男は、いつまで経っても終着地点に到達しないことに苛立ちと覚えるのと同時に、心のどこかで安堵していた。自身の本能が、この極限の状況から逃げてしまいたいと願っていることに気づいたマリーニンは、軍事訓練を受けていた若き頃のように拳を握り包んで指の関節を鳴らし、自らを鼓舞する。

 しばらくして、大統領の目がエスカレーターの終着地点を捉えた。彼がその床を踏みしめた瞬間から、立ち止まっていられる猶予は終わる。決してのがれられない現実との対峙まで、あと三十メートル。輸送対象が終着地点に近づいたことを感知した高速エスカレーターが徐々に速度を落とし、乗員がバランスを崩さないよう緩やかに停止して、仕事を終えた。

 大統領の靴底が、地下十五キロメートルの地を鳴らす。高速エスカレーターを下りた先にある長い廊下には、赤い絨毯が真っ直ぐに延びており、その両側には、黒いつや消し塗装が施された二百体の大柄なロボット兵がずらりと並んで敬礼し、困難に立ち向かうあるじを迎える。大統領は、大男が特注した甲冑のような風貌のロボット兵や、その背後に見える幾筋もの通路に視線をやることなく、真っ直ぐ前を見据え、緊急執務室へと続く廊下を行く。高級感あふれる厚い赤絨毯の上を歩く十二名のくぐもった足音が心拍音のように聞こえ、彼らの緊張を煽る。

 通路の両側に整列するロボット兵の背後の壁に飾られている、穏やかな顔をした歴代大統領の肖像画が、絨毯の上を歩く現大統領を見送る。それらの肖像画は、深刻な事態に陥りながらも鷹揚自若おうようじじゃくに対応して国家を防衛しなければならない大統領を鼓舞するために飾られているのだが、マリーニン大統領の目には入らなかった。彼の頭の中では怒りが膨張し始めており、周囲の光景に気を払うことなどできなくなっていた。

 門番のように立っている二体のロボット兵が、黒檀で組まれた荘厳なダブルドアを左右に押し開き、金の装飾がなされた大きなシャンデリアが印象的な緊急執務室に大統領を迎え入れる。マリーニン大統領は歩く速度を緩めず、未だ一人の閣僚も辿り着いていない無人の緊急執務室を突っ切って上座に向かい、豪壮な椅子に腰を下ろして、次々に飛び込んでくる状況報告に目を通した。補佐官と十人の大統領近接警護担当者たちは散開して、部屋の隅で置物のように立っている。

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