第9話 月には何も見えていない
僕は仕事に向かおうとしている。
準備に手間取ったわけではないけれど、気が進まないからか、出発に時間がかかってしまった。
誰を殺しに行くのかよくわからないけれど、僕は今日誰かを殺しに行かなくてはならない。
何でもやるのが僕の仕事なだけに、こういった仕事もたまに入ってくる。前回は一ヶ月前だったか、半年前だったか。
朝ご飯は食べたのだろうか。まあ何も用意せずに家を出ることはないので、何かしら作りはしたのだろう。
こういう仕事の時もなゆたを連れて行ったり、行かなかったりする。後者の場合はまといや、主に有理に面倒を見ていてもらう。
その都合がつかなければ連れて行くことになる、けれど実際に仕事をするところまでは見せたりはしない。それは、なゆたが知らなくてもいいことだ。
いつものように、世間話をしながら列車に乗る。列車に乗っている人たちの風貌は、どういうわけだかはっきりとしない。
僕はいつもそういった仕事の際は、相手を確認しても出会い頭に殺したりはしない。まずは様子見である。
この体質を使えば、凶器を使うこともないし、相手に接触する必要もないので、未確認の内に、無計画に、不用心に殺しに行ってしまってもいいのだけれど、万が一にも疑われ始めてしまってはそれを晴らす方法が僕には一つも無い。
神の不在の証明、という言葉がある。神が実在することを証明するにはその証拠となり得るものを用意すれば良いが、不在を証明する手立てはない、という物である。
同じく、どんな未解決事件も僕が殺していないと証明することは出来ないのだ。
誰であっても、
だから、最初は必ず相手の行動パターンを見る。
目印になりそうな場所を見つけ、透明になった状態でなゆたにそこで待っていてもらい、僕は単独で相手を
そうして何日かして行動パターンがわかった頃に、もっとも目立たないような方法で仕事を果たす。
今回も上手くいった――みたいだ。夢の中のようにふわふわと頼りない。というか、多分これは夢なのだろう。
殺してから帰るまでの道中、僕は見知らぬはずの人に会ったのだから。
最初はなんだか既視感を覚える景色だと思った。
見たことがない場所なのに、その角を曲がるとどんな光景が広がっているか知っている。
前から走ってきた子供にも何処か見覚えがある感じで――と、そこで僕は、目の前にいるのが自分自身だと自覚した。
顔に自分の面影を見たのかもしれない。なんとなく感じ取れたのかもしれない。
前を見ずに走っていた僕は、ただ突っ立っていた僕にぶつかってしまう。
慌てて謝る僕に、僕はどう声をかけていいのかわからない。
その子を呼ぶ声がした。
僕と同じく、その声に反応した僕は、また走って行く。
そんな僕を抱きかかえた人物を見て、思わず目を見張る。
顔は塗りつぶされたようにはっきりとしない。輪郭も、体格も、よくわからない。目をこらそうとすると焦点が合わなくなる。
けれど、そこにいたのは間違いなく僕の両親だった。
彼らにぶつかるようにして、僕は抱きついていった。
その影からおずおずと小さな影が出てくる。あれはきっと妹なのだろう。
そこには幸せな空間が広がっていた。暗闇の中の光、冷たさの中の温もり。そこだけが切り取られたように存在している。
――切り取られたのは僕の方かもしれないが。
もうあの場所にはたどり着けない。あれはもう届かない未来だ。
手を伸ばして、伸ばしただけ遠ざかってしまう。
いずれそこから僕だけが消える。
家族は幸せそうに、けれど妹だけがそれに気づいて辺りを見回し始める。
僕は消え、父親が消え、母親が消え、そして視界が暗くなる。
テレビの砂嵐のような音とともに、夢の世界は閉じた。
目を覚ますと、そこになゆたはいなかった。
今日は早起きしたのかもしれない。昨日はともかく、いつもなら僕が起こさない限りずっとだって眠っているような子だ。
そんな細かいところにも成長を感じながら、僕は起き上がる。軽くのびをして、窓を開け、外の光を取り込む。
なゆたは今何をしているのだろう。少し涙目になりながらそんなことを考える。
全身に血を巡らせてからすっきりした気持ちで寝室を出る。
我が家は一戸建てである。昨日の話をもとに改めて考えてみると、三人で住むのもさして問題なさそうな広さな気がする。だから、同じ家にいるのに姿が見えない、というのはたまにある。
なゆたがいそうな所は……と考えると、案外思いつかないものだった。僕が普段いそうな所も、自分の事ながら想像できないけれど、なゆたが居そうな所というと
大体いつも僕と一緒に居るからなあ。まあ、探しに行かなくても朝食を作っているうちにふらっと出てくるんじゃなかろうか。
外でもないんだし、まさか家の中で迷子になることもないだろう。
そう思い、僕は寝室から這い出た。
匂いでおびき寄せるために、今日はなゆたの好きなものでも作ろうか。
そんなことを悠長に考えていた。
なゆたは基本的に甘いものが好きである。そんなに甘いものばかりを食べて、女の子にとって一生向き合っていかなくてはならない問題――体重との折り合いはつくのだろうか、と
外見からは想像も出来ないような運動でもしているのだろうか。
ふと思った。
昼食や夕食に甘いものはなかなか出せなくても、朝食になると途端に許されるのはどうしてだろう。晩ご飯にフレンチトーストでも、本人が良ければ問題なさそうだけれど。
なんてとりとめもないことを考えていたら、パンを焦がしてしまうところだった。
さて、そこになゆたの好きなジャムをのせ、ココアを入れて、
「なゆたー、ご飯できたよー」
どこに居るかわからなかったけれど、とりあえず声をかける。
匂いに釣られてか、声に反応してか、なゆたの足音がすぐに聞こえてきて――
来なかった。
聞こえてなかったのだろうか。
二階に上がり、部屋を探す。
収納や、物陰まで探って、それでも見つからない。
――なゆたがどこにもいない。
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