暮れ

むなく草

1話目(完結)

「大変言いにくいのだが……」


 朝に紅顔ありて夕べに白骨となる、ということわざがある。ことわざというのは不思議なもので沢山の人がその言葉自体知っていても、その意味を心の底から噛み砕いて理解している人は少ないのではないかと僕は思う。


「君の癌細胞は全身に転移している」


 僕は自分以上にそのことわざを芯まで理解している人間がいることを認めたくはなかった。



 僕は元々身体が丈夫な方ではなかった。小さい頃は、一ヶ月を超えて健常であり続けることはなかったし、中学に入っても毎年のようにインフルエンザだとか溶連菌だとか、厄介な病気にやられて長い間学校を休むことも多かった。


 それでも高校に入って、陸上部の激しい練習メニューをこなすようになり、少しは身体が強くなったと思っていたのに……。



「朝海さん、もうちょっと顎上げてー」


 レントゲンを撮ろうとしている看護婦に言われ顔を少し上げた。エックス線が漏れないように出来ている、陶磁の様なミルク色の壁は幾分か閉塞感を感じる。入院生活を始めてから義務付けられた、毎日の身体検査が行われるこの瞬間も、僕の寿命は刻々と減っていく。


 悪性の肺癌、僕が陸上部の練習中、呼吸に違和感を覚えその日のうちに病院に行った際に宣告された重過ぎるその病は、既に現代医療の手に負える代物ではなくなっていた。


 感覚が麻痺してしまったのだろうか、死の宣告を受けた僕は泣き喚くでも怒るでもなく、ただその事実を事実として受け止めた。即日で入院を勧められ、言われるがまま為されるがままにして気付いたら、病院に用意された個室のベッドの上で横になり、一日中レントゲン室と同じミルク色の天井を見上げる生活が始まっていた。


 担当の医師によると、全身を蝕む癌は今も分裂を盛んに繰り返し、僕が来年の桜を見れる可能性は殆どないらしい。宣告を受けたのが先月8月の2日、つまり僕に残された時間は、長くても半年ということになる。


 余命を意識するようになって、時計の秒針が刻む音が耳触りになった。機械的に進む時計を何もせず見つめているその瞬間も、命という値千金の珠は無軌道に増殖する癌細胞と共に砂となってボロボロと崩れ落ちる。何をしても命の砂漠化は止まらない。そんなことを意識する時間が際限なく増えて、直視しようとしても乾いた笑いしか出てこなくて、声に出して大笑いしてみても当直の看護婦が血相を変えて様子を見に来たこと以外、何も変わらなかった。


「参ったなあ」


 ただいまの日付、9月3日。ただいまの時刻、草木も眠る2時24分。郊外に建っている病院は既に静まり返っており、僕の呟きは闇に溶けた。窓から見える月は白々しいほどに美しい正円形で、逆説的に奇妙な気分にさせる幾何学模様は、残暑の残る病室の気温を幾分か下げているように思われた。


 外から響くコオロギの鳴き声、風が窓を揺らす音、たまに見回りに来る看護師連中の靴がタイルの床を叩く音、いや、隣室の患者が出歩いたのかもしれない、そして時計の秒針が進む音。その一つ一つが僕に否が応でも時間の流れを知らしめる。一日中ベッドの上で横になり、夢なのか夢じゃないのか、それすらも分からないような覚醒状態の中、僕は思考の渦の中に逃げ込む。


 意外でもないが(というのもメディアが最も好む話題の一つでもあり耳にしない方が難しいので)僕の知っている限り不治の病を患った人間像というものは、ある意味でポジティブだ。死に積極的になった人間は、その自分の死をもって人生を完成させるべく、残された時間を使って自分の死を最良のものにしようと、あれこれ演出を始める。家族や恋人とささやかに余生を過ごしたり、何か新しい物事に挑戦したり、それぞれ千差万別だが概して懸命に前を向いて生きようとしていた。


 僕はそういった体験談の数々を自然現象の様に受け止めてはいたが、自分とは無縁のものに感じられた。なぜなら人生の黄昏を鮮やかにしようと、そういった演出にこだわることは、結局のところ純粋な死への恐怖に対する逃避だと思うからだ。


 逃げることが悪いことだとは言わない。出来ることなら、僕も何か他のことに夢中になって、消えゆく自分の存在価値だとか、死んだ後の世界だとか、いくら考えてもしょうがないような難問への問いを狂ったように求め続ける脳の暴走から逃げたかった。でも自分の中で膨らむ死への恐怖は、何か別のことをしても拭うことの出来ない大きさになっていて、誤魔化すことも出来ないほど追い詰められていて、寝ても覚めても頭の中に住み着いた死神から逃げることはできなかった。



 ふとベッドの上に投げ出された自分の足が目についた。痩せ細った足。陸上部で鍛えられ、薄くも丈夫な筋肉が乗っていたふくらはぎは、見るも無残なまでに痩せ細っていた。この調子で冬が近くなるにつれ、僕の身体は緩やかに雄健なそれから離れていくのだろう。


 僕は唐突に虚しくなった。入院して一ヶ月が経った。次の一ヶ月が過ぎた時、自分はどうなってしまっているのだろうか。何か新たに出来なくなっていることはあるだろうか。もしそんなものがあれば、今が人生においてそれを経験することのできる最後のチャンスということになる。更にその次の一ヶ月後は?

 頭が考え付く今でも出来る楽しいことの数の、何倍もの数のもう出来なくなってしまったことが確かに存在する。頭の中でリプレイすることで不完全なクオリアを想起することでしか、その数々の主体となることはもう出来ないのだ。一度も経験したことがないことだって幾らでも考え付く。もう絶対にできなくなってしまったそれらを楽しむ自分を想像しても、ありえもしない妄想の中で破顔することが出来るほど僕は図太い人間ではなかった。そしていつしか想像の中で贋造された笑顔を張り付ける自分を見つめる客観的なもう一人の自分がいて、そいつはいつも涙を流していた。僕は目を伏せ、手の甲で涙を拭った。真夜中に自分の先のことを思い詰めて泣くのは初めてではなかった。



「寂しいの?」


 ベッドから少し起き上がり横を向くと、いつの間にか、病室の半開きになったドアにもたれかかるように人が立っていた。パーティションに映った影しか見えなかったが女性の声だ。


「なぜ?寂しくなんてないさ」僕は上ずった声で返した。


「嘘、じゃあなんで泣いてるの?」


 どうやら泣き声まで外に漏れていたらしい。僕は顔が熱くなるのを感じた。気にするような恥と外聞なんて少ししたら、身体と共になくなってしまうというのに。


「寂しくなくても、泣く理由なんていくらでもあるだろ」


「そうね、涙の数だけ理由はあるかも」彼女はいつもこうだ。掴みどころも意味もない会話を少し煙たく感じた。


「分かったら自分の部屋に戻ってくれよ、七ヶ崎アリスさん」


 彼女は不法侵入者ではなく隣の個室の住人だった。英国人と日本人のハーフらしく、彼女の詳しい病状は知らないが僕がこの病院に来た時、既に彼女は入院していて、たまにこうして夜中に僕の部屋に来ては、二言三言意味のない言葉を交わすことがあった。


「しょうがないわね」彼女はそう言うと部屋の中に入ってきた。


「ちょ、ちょっと?」


 僕は慌てた。彼女の姿を実際に見たことはない。夜こうして話す時はいつもカーテン越しだった。いつもと違う彼女の行動に僕の心拍数が少し上がる。


 彼女は僕の側まで来るとカーテンに手をかけた。すぐ近くまで来ても彼女の影はぼんやりとしていて全体像がつかめない。


「今日は特別だからね」


 そう言って一気にカーテンを開けた。


 僕は驚きのあまり、予定より半年早く心臓が止まってしまうかと思った。そこには白いおばけが立っていたのだ。しかし、すぐに平静を取り戻した僕は、それが誤りであることに気づく。おばけの正体は白いシーツを頭から被った人間だった。シーツの布地の隙間からカーテンに伸びた一本の手が、どうにも滑稽で笑いを誘う。


「ハロウィンには一ヶ月くらい早いけど?」僕は精一杯の冗談を言った。


「いいのよ、私キリスト教徒じゃないから」


 ハロウィンのキリスト教由来のものなのか知らない僕は閉口するしかなかった。白いおばけ――七ヶ崎アリスはシーツを邪魔そうに扱いながら、ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に座ると、間も空けずにこう言った。


「私、あなたの心の叫びが聞こえたの。『寂しいよ、助けて』ってね」


「おばけの次は超能力者の真似事か?悪いけどそういうのは間に合っているんだ、それにこんなところを看護師に見られたら、どんな説教されるか分からないよ」


「構わないわ、だってあなた、もうすぐに死んじゃうんだし関係ないんでしょ?あなたが憑りつかれたように、毎晩ウンウン言いながら思案していることじゃない、朝海君」心の中を見透かされているようで驚いた。彼女は更に言葉を続ける。


「あなたの悩みは、深く考える必要なんてないほど単純よ。恐怖は確かに人間の最も深いところに根差す感情でとても厄介だと思う、でも」彼女は言葉を切って、頭部をグルリと九十度回した。こちらを向いたのだろうか。


「どんな感情だって上塗りして誤魔化すことは出来るはず。そうじゃなきゃ私はとっくに自殺しているわ」そう言って彼女はニッコリ笑った、気がする。


「そんなの個人差だ、君が僕より能天気で思慮が足りていない人間なだけだ」


 身体を乗り出して僕は反論した。ヒロイックを気取っている訳ではない。死の淵を誰よりもリアルに感じる毎日を過ごす俺は、ずっと死の恐怖から逃れる何かを探してきたのだ。脳が軋むほど考えて考えて考え抜いてもそんな答えは見つからなかった。


「あなたの脳は哲学なんて欲してないの。それに気づいてあげれないのは、あなたが自分で思っているよりも幼稚だから」


「な、何を言って……っ」


 彼女は自分の指を僕の口元に伸ばし、続く言葉を言わせなかった。上唇に押し当てられた彼女の人差し指からは僕がまだ経験したことのない、甘美な匂いがした。それはとても生々しく艶やかで、すぐにも僕の頭は真っ白になってしまった。


「大丈夫、それをあなたに教えてあげる」


 そう言うと彼女はシーツの下から今まで隠れたいた方の腕を出し、僕との距離を縮め――僕を抱きしめた。


 背中に回された彼女の腕は、僕のことを慮ってくれていることが分かるほど優しくて、でもその体温が伝わるほど温かくて、彼女の被ったシーツからは太陽の匂いと女性特有の甘酸っぱい匂いが一緒くたになって僕を包み込んだ。


「胸までこんなに痩せて……恐かっただろうね」


 僕は声を押し殺して泣いていた。彼女に抱きしめられる、それだけのことなのに僕の感情の奔流は止まらなくて、どうせすぐに文字通り消えてしまう恥も外聞も気にせず泣いた。


 温かいし暖かかった。異性に抱きしめられることなんて初めての経験で、とても切ないのに、やっと地に足が着いたように頭は明晰で、その安心感をいつまでも享受していたいと心から願った。


 でも、願いは届かない。


やっぱり、違うんだ。


 僕はゆっくりと彼女の身体を引き離した。彼女は少しばかり驚いたようで、僕をかき抱いていた腕の所在に困ったように静止していた。目を丸くしているのだろうか。僕が涙を枯らし、穏やかな寝息を立てるまで、彼女の腕の中で為されるままでいると思っていたのだろうか「そうじゃないだろう?」僕の中の死神が笑う。


 まるで僕と彼女の周りだけ時の流れが止まったようで、いつの間にか窓を揺らしていた風も止んでいて、生温く濁ったミルクティーに手足を絡めとられ溺れるような、そんな心地だった。僕は必死に顔を上に向けて涙がこれ以上零れないように目を瞑りながら、声を絞り出した。


「ありがとう、ありがとう。一瞬でも、僕の心に潜むあいつを隅に追いやってくれて。でも、違うんだよ。あいつはずっとこっちを見てるんだ。君の腕の、その優しさに溢れる揺り籠の中で、心を許そうとした僕を、溢れて止まらない涙と一緒に様々な問題をさっぱり流そうとした僕を、『ふーん、そうか、お前もやっぱりな』と、そんな淡々とした調子で僕を見つめ続けるんだ。あいつはいつもそうなんだ、ただ見てるだけでさ。僕がすっかり諦めて死を受け入れたいとそう切実に願う度に、いつもあいつは現れてただじっと僕のことを見つめるんだよ。皮肉なことにそいつの顔は僕にそっくりなんだ」


 僕は無理をして笑って見せた。彼女の目にシーツ越しの僕の顔はどう映っているのだろう。いや、あいつの顔は、きっと生意気な餓鬼のそれに違いない。

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暮れ むなく草 @hjkl

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