第23話 この世界の理

「はじめまして。早瀬君」


「......こちらこそ。星原さん」


 緊急の検査が入った都合で、二日ぶりに見た彼女に、理乃の持っていた幼い雰囲気はかけらも感じられなかった。落ち着いているうえ物静かな彼女は、俺の知る彼女と大きくかけ離れていて、違和感が広がる。


「あの子と仲良くしてくれて、本当にありがとね」


 ベッドに背をもたれる詩織は、そう言って優しく笑う。笑い方はちっとも理乃に似ていなかったけれど、どこか優しい笑顔で、その優しさはなぜか理乃を連想させるものだった。


「いや、俺が勉強を教えてもらってただけで、別に感謝されるようなことはしてない」


「それでも、早瀬君の存在がとっても心の支えにはなったんだと思う」


「──そうか、それは良かったよ」


 俺は目の前の慈愛に満ちた眼の少女を見て安心した。


 なんだ、彼女は、ちっとも理乃のことを病気だなんて思ってはいないし、異常な存在とも思っていない。1人の人間として、きちんと相手の幸せを願っている。


 だから少しだけ、肩の荷が降りた気がした。


「明後日、退院なんだ。普通にしていれば、その......理乃の人格は出てこないみたいで、私は普通の生活に戻るみたい」


 少しだけ寂しげに俯いて、詩織は呟く。


「君は......星原さんは、俺のことを全く覚えてはいないんだよな」


「ええと、ぼんやりとだけなら」


 そう言って彼女は目を閉じ、軽く息を吸った。その様子は、理乃が難しい問題を考える時の癖とよく似ている。過去の知識を呼び出すための、ちょっとした準備だそうだ。


 ややあって、微かに彼女の表情が歪む。俺にはそれが、苦痛に耐えているかのように思えた。


「大丈夫か? 無理に思い出さなくてもいいんだぞ」


 何も言わず、彼女は集中し続ける。額には薄く汗が滲み、見ているだけで心が痛んだ。


 けれど、彼女は無理に笑って告げる。


「最後に──伝えたいことがあるみたいなの。その願いを、私は叶えてあげたいんだ......」


 突如、少女の表情が変わった。


 それは、数ヶ月前に命の輝きを教わり、数ヶ月間に渡って共に過ごし、数日前に朦朧としたまま別れてしまった、理乃の表情だ。


 俺を見て唖然としている彼女の瞳には、程なく涙が満ち溢れた。顔をくしゃくしゃにして泣き崩れる彼女を、俺は優しく抱きしめた。


「君と会うのはもう最後みたいなんだけど、なにか言いたいことはある......? 」


「理乃のことが好きだ」


「......知ってるよ。カケル君分かりやすいもん」


「ああ、そうか。やっぱり理乃には敵わないな」


「そうだね、私の代わりに科学界で名を残すなんて、カケル君ができるのかなあ」


 泣きながらも、少しおどけた理乃はあははと笑う。それに少しむっとした俺は、少しだけ抱きしめる力を強めて、誓ってやった。


「理乃よりすごい奴になってやるから、安心して寝ていてくれ」


「へへ、じゃあ安心だ。そうなるまでは、もう死ぬ事なんて考えちゃ駄目だよ」


「分かってたのか......」


「とーぜん!」


 得意げな声とは裏腹に、俺の肩は理乃の涙でますます濡れていく。


「ああ......消えたくないなあ。せっかく、自分にできる事が何かって分かってきて、せっかく、カケル君が好きって言ってくれたのになあ......本当に理不尽だなあ......」


 俺は黙って、しばらくの間彼女の背中をさすっていた。


 今まで溜め込んでいた不安や後悔や失望を、全部全部受け止められないかと、そんな途方も無いことを考えながら。そんなことはできなくても、今だけは心の拠り所になれればなと祈りながら。


 理乃は束縛していた腕を離して、顔を上げる。泣き腫らした眼に似合わない無邪気な笑顔で、告げる。


「私もカケル君が好き」


 その一言は、この世界の理そのものだと思えた。今の俺なら、理乃の言葉を原動力に、現存するあらゆる常識や理論を破りつくしていけそうな気がした。それには何年も、何十年もかかるかもしれないけれど、きっといつか理乃の生きた証が残せる日が来るだろうと確信した。


 自信に満ちた、1番の笑顔で俺は理乃に返事した。


「ありがとう。元気もらった」


 突如、また彼女の顔が苦痛に歪む。

 最後に一言だけ、理乃は僕に残した。


「カケル君は......夢中になり過ぎちゃうところが、あるから、さ......違う世界を見せてくれる人と、いつか出会えると、いいね」


「──ああ、そうだな」


「今まで、ありがとね。楽しかった」


「ああ」


 堪えていた涙が飛び出そうになるのを踏ん張り、俺は笑顔で理乃の門出を見送る。

 大きな喪失感や悲しみを与えられた代償に、大きな自信をもらった。理乃が託してくれたものだ。俺はそれを大切に持って、生きていこう。胸をどんと叩くと、滝のように涙が溢れ出した。よくここまで堪えられたと自分を労い、思う存分泣くことにした。


 気を失った彼女をベッドに寝かせて、俺は病室を背にする。やりたいことは決まったから、あとはそれだけ見ていればいい。


 確かな決意を胸に、俺は一歩歩き出した。

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