第20話 【化学】原子説とバツマーク

「ねえーカケル君?」


「...はい」


「確認なんだけどさ、私昨日ちゃんとBTB溶液の色の変化説明したよね?語呂合わせ込みで」


BTBべとべと黄緑青きみのせいだった気がします」


「じゃあなんで水酸化ナトリウムに滴下すると白色になるとか書いてあるのかな。もしかして新発見...?」


「あのー理乃さん、復習サボった俺が悪かったからそんないじめないでくれ」


「もうしーらない」


そう言って、理乃は子供みたいにぷくーっと頰を膨らました。俺は苦笑いしながら、理乃が作ってくれた理科の小テストの結果を見つめる。36点。もしこれが平方数じゃなければ、理乃の機嫌はもっと損なわれていたかもしれない...。


理乃の真実を知ってから、俺と理乃の距離は少しずつ近づいていった。理乃は以前より遠慮笑いが減り、代わりに子供のような無邪気な笑顔が多くなった。一方で半年後の受験に向けて勉強を教わる時は、こうして友人というより師弟の関係となっている。


無意識だが、気がつくと彼女の活き活きとした横顔に見惚れている事があった。それに気づくと、照れたように叱って勉強に集中させてくる理乃をいじらしくも感じた。3日後に退院が決まった事を彼女に伝えたときも、彼女が分かりやすく寂しそうにしてくれて、少し嬉しかった。


もちろん退院して一週間経った今でも、こうして理乃のお見舞い兼勉強会のため病院に来ているのだが。


「まあ、間違えちゃうのは仕方ないけど、これからはどんどん減らしていこうね」


「理乃は、俺の出来の悪さに失望したりしないのか?」


俺がそう尋ねると、理乃は少し考えて言った。


「ジョン・ドルトンっていう科学者分かるよね」


「ああ、たしか気体反応の法則を唱えた...」


「それはゲーリュサック!でも重要だから覚えておいてね。それで、彼は1803年に原子説っていうけっこー革新的な仮説を世間に広めたの」


「ああー、習った気がしなくもない」


「ちゃんと習いましたー」


曖昧な俺の返答をたしなめるように、理乃は目を細めて言った。素直に「仰る通りです」と認めると、彼女はまたいつも通りの笑顔に戻る。


「彼によるとね、原子はこれ以上分割できない物質の構成単位で、大きさとか質量とか性質がそれぞれ違うんだ。それで化学反応は、単純な原子の組み替えなんだっていう考えなの」


「なんか言われてみれば当たり前のような...」


「でもね、さっきのゲーリュサックが気体反応の法則っていう理論を世間に出して、矛盾が生まれたの。彼によれば気体が反応する時、同温同圧なら気体の体積比や原子の比が簡単な整数比になるんだ。これは、フツーの化学反応の基礎だよね」


「まあな。でも、矛盾ってどういう事だ...?」


「水素を燃やしたら水が出る反応式書ける?」


理乃がにやついて尋ねる。まさか書けないと疑っているのか。さすがにそこまで落ちぶれてはいないぞ。俺は広げていたノートの端っこに2H2+O2=2H2Oと書いた。


「カケル君、イコールじゃなくて矢印だから覚えておこうね」


理乃はにこっと笑いながら、修正部分を書き直す。俺は少し反省した。


「いまはこう知られているけど、昔はH2じゃなくて、水素の最小単位はHだったの。同じようにO2もO。気体反応の法則に則って言えば、2個のHと1個のOから2個の何かができるの...ちょっとおかしいよね?」


「...分割されている?」


そう呟くて理乃が「だいせいかーい!」と目を輝かせて俺の手を握る。俺は少し胸がざわついたので、少しだけ後ずさりする。


「HとO合わせて3つ分の原子を2つ分の原子に変えるには、Oを分割しなきゃダメだよね。でも、それって原子の定義にそぐわないんだよ」


「なるほどなぁ。こんな基本的な矛盾が出たのか」


「これの修正案として、アボガドロが分子説を広めたというわけなんだ。この流れは覚えておいてね!」


一通り説明を終えた理乃は気持ちよさそうに伸びをした。そういえば...


「理乃はなんでこんな話しようとしたんだ?」


「あ、忘れてた!そうドルトンさんみたいに、どんなに頭が良い人でも矛盾のある仮説を考えて、失敗するんだよ」


俺は自分の小テストを見つめる。


「私達が間違えないわけないよ。失敗して、分かんなくなって、嫌になる時だってある。でも、『壁にぶつかったら試行錯誤』の繰り返しが一番大事なの。そうしたら、ちょっとずつでも正解に辿り着けるから」


「そうか...」


「だから、こんなに壁に当たってるのにまだ勉強続けてるカケル君は、立派だよ」

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