第19話 二十億光年の孤独 後編
「ずっと、1人だったの」
溜め込んでいた涙を流し切った理乃が、小さく呟く。俺は彼女が泣いている最中に撫で続けていた右手をゆっくり引っ込め、彼女の目を見つめながら静かに二の句を待った。
「私が詩織の人格と入れ替わった時、お医者さんも友達も家族も、みんな眉間に皺を寄せて慌てるの。まるで私が存在することは異常で、対処しなくちゃいけなくて、歓迎なんてされない、いなくて当然のものみたいに」
薄赤く泣き腫らした理乃の目には、早くも雫が溜まる。俺がそれに気づいて、ハンカチでそっと拭ってやると理乃の涙はその反動みたいにぼろぼろ溢れてきた。
「...今まではね、何度か入れ替わることはあっても詩織の時間の方が長かったんだ。でも、最近は詩織が全然出てこなくてね。今私が入院してるのも...星原詩織の身体を乗っ取る悪い病気を退治するためなんだ」
「理乃は病気なんかじゃない!」
俺は少しだけこめかみが熱くなった。理乃はおそらく、星原詩織が生きる過程で生まれた二つ目の人格なのだ。確かに、星原詩織にとっては、理乃の存在は普通の生活を送ることのできない原因になり得るかもしれない。しかし、それが理乃の人格を異常と見て尊重しない理由には、全くならない。
怒りとか悔しさとか、そういうものが全て入り混じった激情が溢れ出さないように、俺は強く拳を握りしめる。
「少なくとも詩織にとっては、私はいない方がいい存在なんじゃないかな」
「もし詩織がそんな事を言ったら、俺が殴る」
感情に身を任せて言った言葉に、涙目だった理乃は少しだけ笑った。
「痛いのは私なんだよ?」
「そいつは理乃じゃないから、大丈夫だ」
「...ふふ、なにそれ...」
そう言うと彼女は病院着の袖で荒々しく涙を拭き、俺の握り拳を両手で優しく包んだ。
「カケル君と会ったとき、君が私の名前を知らないって聞いてちょっとだけ魔が差したの。もし私が星原詩織って自己紹介しなかったらどうなるのかなってね」
固く閉ざされた俺の両手を、理乃はいとも簡単に開いて自分の両手と繋ぎ合わせる。
「気づかないどころか、ずっと理乃、理乃って架空の名前呼んでくれてさ。最初の方はしてやったりって思ったりもしたの」
でもね、と付け加える頃には、理乃の瞳に涙は浮かんでいなかった。代わりに、慈愛に満ちたような暖かい何かがその目に灯っていた。
「初めて名前を呼んでくれて、嬉しかった」
俺は、彼女のその屈託ない笑顔に見惚れていた。いつもする、遠慮がちな微笑みではない。心から嬉しいと思っていることがひしひしと伝わる、そんな笑顔だ。
「治療の成果もあってね、私もうそんな長くないみたいなの。だから、最期にカケル君みたいな優しい人に出会えて、本当に良かったな」
「ま、待て。もしかしたら、理乃が生き残る道もあるかもしれない。詩織の人格はそのままなんだろ?だったらいくらでも打つ手は...」
「いいの」
理乃はそう言って両手のつながりを離し、身体を寄せ、俺の背中に手を回した。そしてぎゅっと、俺を抱きしめる。
「カケル君は、今ここにいる『理乃』の事を知りたいって言ってくれた。ずっと孤独だった私に、こうやって温もりを教えてくれた」
「しかし、それじゃ...」
俺も出来るだけ優しく、理乃を引き寄せて続ける。
「あまりにも、理乃が報われないじゃないか」
「報われない、か...」
理乃一字一字を噛み締めながら復唱する。すると、理乃は背中に回していた手をそっと緩めて俺から離れた。そして少しだけ当惑した表情で告げた。
「私、自分が生きてたっていう証がほしい。私に出来ることっていっても、理系科目くらいかもだけど...」
「なら、いい考えがある」
彼女は軽く首を傾げる。そんな理乃に向けて、俺は自信満々に言い放ってやった。
「理乃は俺に理系科目を教えてくれ。そうしたら俺が理乃の代わりに、理乃が生きていた証明を残せるだろう?」
理乃は驚きを隠せず、目を丸くしていた。
「でも、カケル君数学も理科も大の苦手だって...」
「今までは野球ばかり見ていたからな。野球ができない今、理乃の教える科目に目を向ければ簡単な話だ」
「そっか...そうだね!」
理乃はさっきの当惑が嘘だったみたいに笑顔を取り戻し、再び俺の両手を握って言った。
「びしばし教えるから、覚悟してね!」
俺も、とびきりの笑顔で返事した。
「ああ!」
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