第3話
縹の事務所を訪れてから三日後、夏生は自宅で一人静かに電子書籍を読んでいた。チップに落としたばかりのものである。
読んでいるのは『あなたのマシンに囁きあれ』という、第二言語を研究しているとある教授が執筆した本だ。第二言語について、一般向けに書かれている入門書のような一冊で、ネットのレビューでも高評価を得ていたものである。
夏生は縹と話してからというもの、自分の無知を恥じた。母の遺したクリスタルについて、自分では何も知ろうとしなかった。
専門家に任せれば、全て上手くいくと思っていた。あとはプロにおまかせ。自覚のある消極性。
まるで母のことに興味がないかのよう――そんな恐ろしい発想に至ってしまったからこそ、ここ数日はクリスタルや第二言語にまつわる書籍やウェブページを閲覧していた。
チップから浮かび上がる電子ペーパーに目を通す。勉強の甲斐あってか、前書きに書かれてあることなら苦なく読むことができた。
大きく取られた窓の外には雲が広がっており、その隙間から晴れ間が見える。
以前ならば、この家には母親の気配があった。今やそれも残っておらず、自分一人だけなのだと痛感する。痛みが母親の存在を思い出させてくれる。本当なら、もっと暖かく穏やかな気持ちで思い出したいのに。
気を取り直し、本編へと目を向ける。右手で左手の手の甲を一撫でしてページを捲った。
そうしたところで、手の甲の上に音声通話の着信を告げるアイコンが表示された。表示された発信元は「縹電機事務所」。
「なんだろう……別に打ち合わせや途中経過の報告って話はなかったと思うんだけど。チップ、通話」
チップが夏生の音声を認識し、通話を開始する。自分一人しかいないというのに、ついいつもの癖で受話モードで通話を受けてしまった。
左手の手の甲を左耳に当て、チップから聞こえる音声を拾う。
〈ああ、良かった、繋がって〉
聞き覚えのある少年の声。縹のものだ。チップは発信元を正しく表示してくれたらしい。
「あの、何か?」
向こうの声はチップが振動することで聞こえるが、こちらの声はチップが頭蓋骨の振動を拾って音声にする骨伝導マイクで伝えている。
誰かに聞かれて困るような話ではない。ましてや今この家にいるのは夏生一人だ。スピーカーモードにして話してしまっても問題はなかったはずだ。やはり、まだどこかで母とともに暮らしている感覚が抜け切らないのだろうか。
〈預かっているクリスタルの解錠でちょっと困ったことが起こってね……依頼主殿の都合がいいときに事務所に来てくれないか〉
「都合のいいとき、って言われても、そちらの都合だってあるんじゃ……」
〈ボクの方は今のところキミ以外の依頼を受けていないから、アポなしの客が来ない限りいつでも平気さ。まあ、そのアポなしの客っていうのも滅多に来ないんだけど〉
こちらの都合などほとんどお構いなしの縹の言い分に、夏生は少しかちんと来た。
都合のいいとき、という言葉は、相手に合わせるようでいて、その実そうではない言葉だ。いざこちらが日時を指定すれば、都合が悪いなんて言葉が返ってくることがしばしばある。
縹はアポなしの客が来ない限り、と言ったが、その客が突然やって来たらどちらを優先するつもりなのだろう。
「じゃあ今日の午後からそちらに向かうって言っても大丈夫なんですか?」
断られても当然の提案だった。連絡をもらってすぐで、この言い分はあるまい。自分でも意地が悪いと思える。自分で言ったことだというのに嫌悪が湧いた。
〈今日の午後かい? キミの都合がそれでいいならこっちは構わないよ〉
「え……いいんですか、突然のことなのに」
〈いいも何も、最初から大丈夫だと言っている。それに突然連絡したのはこっちなんだ。駄目だったら駄目な時を事前に言っておくに決まってるだろう〉
何を当然のことを、という調子で縹に返された。夏生は思わず面食らってしまい、これが対面ではなく電話でよかったと心底思った。
自分の常識は、どうやら相手にとって常識ではなかったらしい。いい意味で期待を裏切られ、夏生は縹の認識を少しばかり改めた。さほど年が変わらなくても、向こうは一人で生計を立てている分随分としっかりしているらしい。
〈よし、今日の午後だな。今日は終日予定が空いているから、具体的な時間までは結構だ。キミの準備が整い次第ボクのところを訪れてくれ。それじゃあ、また〉
ほとんど縹が言いたいことを言って通話を切ってしまった。
夏生の住むセントラルの自宅から、縹が事務所を構える郊外まで一時間半強。電車とバスの乗り継ぎが上手くいかなければもう少しかかる。
午後ならばいつでも空いていると言われたものの、電機事務所の営業時間内に訪れるのがマナーだろう。それに、夏生としてもクリスタルに纏わる話は早く聞きたい。
「チップ。縹電機事務所への一番早いルートを検索」
チップへ向けて声を放つ間にも、夏生は動き出している。読んでいた電子書籍には栞を挟み、現金を入れている財布を鞄に仕舞った。
チップが表示したルートを確認。今から三分以内に家を出ないと電車に間に合わない。
「急がないと……行ってきます」
誰もいない家に向かって外出の声をかける。当然、「いってらっしゃい」という見送りの声はなかった。
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