第2話
案内された応接室は、脚の短いテーブルと二つのソファがあるだけの殺風景な場所だった。写真や絵画の類どころか、仕事道具になりそうな大型端末や資料の類も見当たらない。
「コーヒーでいいかな。砂糖とミルクは?」
「えっと、大丈夫、です」
夏生が興味深く応接室の中を見回していると、奥でコーヒーを淹れてきたらしい少年が戻ってきた。
二人はまだ自己紹介も済ませていない。見た限り、彼は夏生と同い年か一、二歳上といったところで、紅茶色の癖っ毛に同じく明るい茶の瞳、白い肌が印象的な少年だった。
少年は応対に出たときから一貫して砕けた――ともすれば横柄ともとれる――口調を取っている。一応夏生よりも年上そうに見えるので敬語で話し続けているが、同年代の少年からここまで仰々しい態度を取られたこともない。夏生はどう話せばいいのか判断に困った。
「へえ、ブラックで飲めるんだ。ボクには無理だな。せめてミルクが欲しい」
「はあ」
振られた雑談にも、身の振り方が決められないため曖昧な返事しか返せない。しかし相手は気を悪くした様子もなく、何も入っていないブラックコーヒーを夏生の方へ、もう一脚のカップとミルクピッチャーを自分の手元に置いた。
「クリスタルの解錠、という話だったけれど、まずは軽く自己紹介といこうか。ウェブの情報だけでここに来たんだろう? なら、色々と驚いていることだろうしね。ボクはこの事務所の職員で所長を務めている縹だ。古い言い方をすれば一人親方ってやつさ。他に人員はなし。仕事はボクひとりで行っている」
そう言って差し出されたのは、今時珍しい紙の名刺だった。
縹電機事務所 所長 縹。
青とも緑ともとれる色合いのインクでそう書かれていた。
夏生より僅かに年上に見えるとはいえ、この若さで独立しているとはにわかには信じられない。思わず相槌を打つのも忘れて、驚きに目を見張ってしまった。
夏生の住む都市は、郊外を含め十四歳で成人と認められている。親元を離れ、ひとりで暮らすことも、学業に励むのではなく労働に従事することも個人の自由。ただし、酒や煙草といった嗜好品は二十五歳を過ぎてからと別途規制されている。現在十五歳の夏生は、成人を迎えて一年と少し経ったところだった。
年上らしきこの少年が、独立して事務所を構え、ひとりで仕事を行っているというのは、制度上何らおかしな話ではない。だが、夏生の周りではあまり見かけない類の生き方だった。多くの人間は、十八歳まで労働ではなく学業を選び、親元で暮らしているのだから。
「あの……表札には〝花田〟とあったんですが、お名前は花田ではなく、縹、なんですか?」
読みこそ〝はなだ〟と同じだが、花田と縹では姓と名で全く異なる。花田という表札を目の当たりにし、暫く固まってしまった自分を思い出した。
「字が違うのが気になった?」
「字というか……花田だと名字でしょう? この街で名字を名乗られる方は珍しいなと思って」
「まさかボクの名前を花田縹だと思っていたり……」
「し、しません!」
姓も名も同じ読みの人間など、どれくらいいるというのか。からかわれていることにも気付かず、夏生は全力で縹と名乗った少年の発言を否定した。
「冗談だよ。街の流儀にのっとって名乗りはしないけど、ボクの名字は花田じゃない。単に名前の縹をもじっただけさ。ボクの名前は簡単に言ってしまうと花色って意味でね。花の青汁で染められた色。だから花田と書くこともある」
「へえ……」
縹が得意げに聞かせてくれた名前の由来は、夏生が初めて耳にするものだった。学校の勉強は色々と頑張ってきたつもりだが、こういった話を見たことはない。
「さて、次はキミの番だ。自己紹介を……いや、まずは書類に依頼書を書いてもらおうか」
縹が傍らから携帯端末を取り出し、書類画面のままずいっと夏生の前に差し出した。一緒に寄越されたタッチペンと一緒に受け取り、必要事項を記入する。不思議なことに書類には依頼内容の項目が記載されていなかった。
全てを書き終え、端末を再び縹へと戻す。
「夏に生まれるで夏生、なのに冬生まれなのか」
へえ、と関心とともに告げられた言葉は、夏生にとって苦にしかならないものだ。夏生の個人情報を見た誰もがそう言うのだ。夏生なのに冬生まれなんだね、と。
個人情報を探られたわけではない。ほんのちょっとした雑談。話の種。しかし、十五年生きていても、未だに夏生は割り切れないでいる。
「父が、とても寒い冬の日に生まれたからこそ、暖かな夏のように生きて欲しいと……」
何度も口にしてきた言葉だ。他人から名前について何か言われる度に説明してきたこと。縹が先程自分の名前について解説したように、自分も名前について話しているだけだ。夏生は必死に自分に言い聞かせ、込み上げる羞恥を飲み込もうとした。
「ふーん、変わった父親だね。よく言われないか?」
「……別に。僕は僕、父は父なので。父について僕が何か言われることはありません。それに父は既に亡くなっていますし」
冬生まれの子どもに夏の名前を与えた風変わりな父親は五年ほど前に亡くなっている。それ以来、夏生は母親との二人暮らしだった。
初対面の人間から、どうして父親の人格について言及されなければならないのだろう。
ここまで言えば、大抵の人がパーソナルスペースに踏み込みすぎたと思ってそれ以上何か言ってくることはなくなる。夏生の経験上、これで一旦会話が途切れるはずだった。
「個人主義ってやつかい。家族はたまたま血が繋がっているだけの他人……その考えはボクも大いに賛成だ」
しかし目の前の少年は夏生の予想を裏切った。踏み込んだ上で妙な同意の仕方をしてくる。
――なんだろう、このひと。
夏生の中にはすっかり縹に対する警戒心が芽生えていた。やっぱり機械に深く関わる人は人間的に変わっている人が多いんだろうか。
戸惑い、用心深くなる夏生に対し、縹はどこまでもマイペースだった。端末を操作しつつ、言葉を投げかけてくる。
「依頼はクリスタルの解錠ってことだけど、誰か身内のものかい?」
「――亡くなった母のものです」
「実物は?」
「持ってきていますが……」
出したくない。辛うじてその言葉を飲み込み、唇を噛む。
夏生にとってクリスタルはとても大切なものだ。それこそ、十五年分の思い出が詰まっているといっても過言ではないほどに。それをこんな怪しげな人物に預けたくない。
クリスタルとは記録保存メディアの一種だ。ハードディスクやフラッシュメモリと同じように、コンピュータ上のデータを保存することができる。とりわけ、クリスタルは都市の人々が埋め込んでいるチップの記録保存に用いられるものだった。
個人の記録――身体の一部として機能していたものならば最早本人の思い出といっても過言ではない――を保存する以上、そのロックは通常のメディアに比べて遥かに厳重なものとなる。
夏生が今回解錠を求めるクリスタルは、先日亡くなった母親が遺したものだった。
病に冒されていた母は、入院生活の中で左手からチップを除去し、専門の業者を呼んでクリスタルとした。
夏生は病院に毎日見舞いに訪れたが、母が業者を呼んでチップをクリスタルに加工しているとは知らなかった。
余命僅かな者がチップをクリスタルに加工し、形見として遺すのにはいくつかのパターンがある。自分がいたという記憶を遺しておきたいというもの。自分の遺したものを見て偲んで欲しいというもの。自分の存在を単純に美しいものにしてしまいたいというもの。
夏生は、母がどういった想いでチップをクリスタルとして遺したのか分からない。だから想像するしかなかった。
遺書。財産。クリスタル。それが一人ぼっちの夏生に残されたものだった。
造るのに専門の業者がいる以上、クリスタルはロックを解除するにも専門の業者がいる。掛けた業者で解けそうなものだが、あいにく夏生は母が一体どこの業者に依頼してクリスタルを造ったのか知らなかった。
遺書にはクリスタルを解錠するかどうかは夏生に任せると書いてあった。しかし解錠のヒントとなるような文言は一切なく、夏生はそこに母の葛藤を見た。自身の体験を美しいクリスタルとして遺すものの、むやみやたらに暴いて欲しくはないという想いを。
だが、クリスタルは母が生涯を共にしたチップが埋め込まれている。死してから、母のことが分からなくなった。母のことを知りたいと思ったのだ。たとえ彼女の想いの死体を暴くことになろうとも。
都市の内部にいる解錠専門の業者を数件当たってみたものの、どこも「うちでは難しい」という返答だった。
クリスタルの解錠に求められる知識は、第一言語だけではなく第二言語の知識も含まれる。
第一言語とは、人間と機械間の言語のことであり、広義には、人間が機械に出す指示全て、もしくは機械側から発せられる表示全てと定められている。
例えば、コンピュータの画面に人語が表示されており、その内容に従って選択や操作を行っていく対話型と呼ばれる操作も、広義の第一言語を用いたものだ。
逆に、狭義の第一言語とはかつてプログラミング言語と呼ばれていたものである。基本的に世のコンピュータ関係の従事者は、この狭義の方の第一言語を取得している。
第二言語とは、近年になって見つかった機械間で行われる囁きだ。人類が第二言語を発見できたのはほとんど偶然だといわれている。通常、第一言語取得者でも理解できるものではない。
第二言語は第一言語よりも情報が圧縮されているため、機械間でのやり取りは一瞬で済む。もっとも、人間の体感とコンピュータの体感が同じであればの話だが。
「うちに来たのはネットの情報を見たからだろうけど、広告もろくに出してないから検索結果の上位には来にくいはずなんだけどね。よく見つけたものだよ」
「それは……その、都市にいる解錠業者の人をいくつか当たってみたんですけど、全部断られてしまって。最後に当たったところに、ここならもしかして、と名前を教えてもらったんです。ここなら第一言語だけじゃなくて第二言語も取得しているらしいから、と」
「なるほど、第二言語か。これはあくまでただの雑談なんだが、キミは第二言語と言われてどういうものを想像する?」
「どんな、と言われても……僕は専門家ではないので……」
「感覚的なもので構わないよ。一般論が知りたいだけだから」
「……第二言語は機械の言葉だと思います。機械の囁きだとか、第二言語も第一言語に含まれるとか、色々意見があるのは知っていますけど、よく分からないです」
「機械の言葉か、シンプルでいいね。なら、第三言語は人間の言葉か」
第一、第二の他に人間同士の会話や文字でのコミュニケーションを第三言語とする層もいるのは知っているが、あまり主流の呼び方ではなかったはずだ。
「ボクは街の方ではそういう風に言われているのか……機械の言葉が分かるなんて、そんな大層なものじゃない。ボクは人間の言い分を機械に押し付けているだけさ」
狭義の第一言語すら理解できない夏生にしてみれば、第二言語など理解の範疇外にも程がある。縹の言い分の半分も理解できそうにもなかった。
機械の囁き。そんなものが本当に存在するのだろうか。聞くところによると、第一言語従事者の間でも第二言語の存在を信じていない人がいるのだという。
自分よりほんの少しだけ年上の少年。どこか横柄な態度も、周囲よりも優れた技能を持っているからなのか。
ここを訪れたのは藁にも縋るような思いがあったからだ。何でもあると言われる都市ですら見つからなかった解錠業者。示された可能性は都市の外にあった。
初めて一人で出歩く都市の外。今日は家を出るだけでも大分緊張した。バスでの失敗。縹と出会ってからの数十分。
何のためにここまで来たのか。今日の覚悟を全て水の泡にするつもりなのか。苦いものがこみ上げ、腹の中をぎゅうと掴まれるような感覚があった。
(全ては母さんの形見――クリスタルに込められた思いを知るためだ)
夏生は意を決し、鞄からクリスタルを取り出した。クリスタルは透明な立方体をしており、中央に春の陽光のような柔らかな色合いの四角片が埋め込まれている。そして、四角片を囲むようにして紅葉のような赤い直線が回路を成していた。
「依頼を……お願いします。母の遺した思いを教えてください」
クリスタルを縹の方へと差し出す。母が遺してくれたものはあまりに軽く、美しいものだった。
「――分かった、引き受けようじゃないか」
「本当ですか?」
「嘘をついてどうするんだ。仕事をしなければボクだって食べていけないんだぞ。キミはボクのご飯を持ってきた客人さ。代金分の仕事はさせてもらうよ。ただ……」
手渡されたクリスタルを光に透かしながら、躊躇いがちに縹が口を開く。
「少し……時間が掛かる上に、依頼主であるキミにも多少の手間を掛けさせるかもしれない。これだけ複雑な回路を生成したクリスタルなんて、ボクも初めて見た」
「そんなに複雑なんですか?」
専門外の夏生にしてみれば、クリスタル内の回路の複雑さなど一見しただけでは分からない。
透明なキューブの中に生成された赤色の直線たち。突き進み、折り曲がり、幾重にも重なり合って、複雑さよりも美しさの方が強く感じられる。
「複雑を通り越して異様だね。一体どんなデータを閉じ込めたらこんな奇っ怪な回路になるんだ」
母の形見であり、その思いの結晶であるかのように思えていたクリスタルが、その一言で急に不可思議な物体に思えてしまった。
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