うわばみ食むは花色の煙
てい
第1話
その日はまるで朝顔を潰したかのような空だった。
バスの窓越しにそんな空模様を眺め、夏生(なつき)は溜息をひとつ零した。
バスの中の乗客は、夏生と老婦人、それと小さな男の子とその母親。男の子の「あれなぁに?」という問い掛けがぽつぽつと聞こえるような静かな車内である。
セントラルからバスを乗り継ぎ、郊外へ行くのはほとんど初めてのことだった。以前郊外に出たときは、学校が手配したバスに生徒全員詰め込まれるような形で赴いた。今日のように自分で乗り換えを調べ、バスを乗り継いでたったひとりで街の外に出るというのは多少の緊張を伴う。
道中の案内は、家を出るときにチップ――左手の甲に埋め込まれている極小の端末――に入力している。これに従っていけば目的地まで迷うことはまずない。そう分かっていても、夏生は見慣れた街から離れるにつれてそわそわと落ち着きをなくしていった。
バスの中は涼しく快適な温度が保たれている。なのに夏生の掌はじっとりと汗で湿っていた。見知らぬ土地、これから訪れる場所への不安。初めて会う人。様々な思いが胸に渦巻き、わっと叫んで吹き飛ばせればどれだけ良いことかと思う。
「お兄ちゃんはどこに行くの?」
「わっ」
急に声を掛けられ、思わず驚きの声が出た。窓の外の風景から目を離し、声のした方へと顔を向ける。するといつの間にか小さな男の子が通路を挟んだ隣の席に座っていた。
後ろの方から、「こら! 危ないから立たないでって言ったでしょう」と母親の叱咤が聞こえる。夏生は振り返って母親に小さく「大丈夫です」と告げた。
母親の元に返すためとはいえ、男の子を走行中のバス内で再び立ち歩かせるわけにもいかない。次の停留所までおとなしくしてもらうためにも、夏生がこの子の相手をするしかなかった。
「初めて行くところ。僕もどういうところなのかよく分からないんだ」
「初めて行くところに行くの?」
「うん。行かなきゃいけない用事があるから」
大人や同年代の少年たちと話すだけでも緊張してしまうのに、子どもの相手なんて上手くできるだろうか。
男の子は幼いだけあり、話す言葉は拙く、質問も夏生の言った言葉を繰り返すような形だ。とても会話と呼べるものではない。
こういったやり取りを何度もしなければならないなんて、親というものは大変だな――
「お兄ちゃんのおめめ、きれいだね。宝石みたい」
「あ、ありがとう」
目のことを褒められるのは正直苦手だった。だが小さな子ども相手にむきになって否定する方がおかしい。大分ぎこちないながらも、夏生は何とか笑顔を浮かべてやり過ごした。
髪こそこの都市で一般的な黒髪であるが、夏生の瞳は夏の早朝の静かな空の青をしている。花の色のような薄群青。綺麗と褒められることもあれば、どういう経緯でできた色なのかと訝しがられることもある。
人に自分のことを探られるのは嫌いだった。もしここで、男の子が「ぼくのと違うのはなんで?」なんて訊ねてきたら――
バスのアナウンスが目的の停留所名を告げた。それと同時に左手のチップも下車の二文字を手の甲に浮かび上がらせる。
「お兄ちゃんのお手手すごい! 光ってる!」
「ええと、これは……」
何と言うのが正解なのだろう。目のことを訊ねられなかったのには正直安堵したが、今度は別の問題が出てきてしまった。
まさかチップを見たことのない子どもがいるなんて。目のことを聞かれるのとどちらがましだろう、などと比較すべきではない比較までしてしまう。
「ほら、危ないからこっちにいらっしゃい」
バスが停車に向けて緩やかに減速する。母親がなぜか少し険しい顔で夏生たちのところにやって来た。
「ごめんなさいね、この子が突然」
「いえ……」
母親はちらと夏生の左手の甲を見ると、僅かに顔を強張らせた。どうかしたのかと訊ねるような勇気は夏生にはない。ただ短く返事をするのが精一杯だった。
男の子は母親に連れられ元いた席に戻っていった。
夏生はここが降りるバス停なので、慌てて前方の降車口に向かう。
バスを降りる際、いつもの癖でバス備え付けの接触端末に左手を近付けようとする。しかし目的の接触端末が運転席周りのどこにも見当たらない。なんで、どうして。
焦っていると、運転手が怪訝そうな顔をして夏生を見た。夏生が左手をわたわたと動かしているのを見て、色々と察したらしい。
「お客さん、このバスは電子通貨が使えないんです。現金で払ってくれますか?」
「あっ、は、はい!」
げんきん、現金。一瞬何を言われたのか分からず、言葉の変換に戸惑うくらいには慌てていた。鞄の中から、念のためにと持ってきた現金の入った財布を取り出して運賃を支払う。
ありがとうございました、という運転手の声を背に受けてバスを下りた。未だに心臓がばくばくと音を立てている。
胸に左手を当て、「チップ、心拍数」と唱える。数秒の後、現在の夏生の心拍数や血圧が数値となって浮かび上がった。自分がどれだけ落ち着けていないのか、数値によって客観視することで冷静さを取り戻す。
夏生が下りた停留所は、一言で〝郊外〟といっても長閑な田園風景が広がっているようなところではなかった。間隔は広いものの、庭付きの一戸建ての住宅が至るところに建っており、家々に沿って引かれた道はアスファルトによって舗装されている。車の通りもそこそこあった。
夏生の住む都市は、セントラルと呼ばれる中心地と郊外と呼ばれるその周辺地域によって成り立っている。大きな違いは、夏生のように左手に極小の端末――チップを埋め込んで生活しているか否か。たとえばセントラルならば公共交通機関や店舗は全てチップに対応しており、電子通貨での支払いが可能となる。だから現金を持ち歩くということがほとんどない。逆に郊外は、身体に機械を埋め込むという感覚が受け入れられない人が多く住んでいるため、電子通貨ではなく現金での支払いとなるのだ。その差異に気付かないまま、セントラルに住む人間が郊外に出ると、先程の夏生のように慌てふためくことになる。
都市の中心部――セントラルに住まう人間が、都市の郊外まで出てくることは珍しい。セントラルには物資からサービス、多岐に渡るものが揃っている。左手に埋め込んだ超小型端末さえあれば、公共交通機関の乗り降りも、買い物も、音楽のダウンロードさえもできるのだから。
セントラル生まれ、セントラル育ちの夏生にとって、今回の外出はちょっとした冒険のようなものだった。
バス停を降りてからは徒歩での移動だった。約徒歩十五分――ルート案内を起動している左手の端末がそう告げている。
鞄に入れたままのクリスタルのことが気になった。クリスタルは精密機械中の精密機械だ。日常生活に耐えうる防水や耐熱の加工がされているとはいえ、この炎天下ではさすがに心配にもなる。
そうはいっても、自分には心配することしかできない。クリスタルどころか、一般機械を取り扱う第一言語者の資格も持ち合わせていないのだから。
夏生が郊外に出てきた理由こそ、鞄の中の心配事であるクリスタルだった。クリスタルの解錠。その目的のために、夏生は不慣れながらも郊外行きのバスを乗り継ぎ、ここまでやって来たのだ。
郊外といえども道は舗装されている。アスファルトの照り返しがきついくらいだ。
この先にクリスタルの解錠を得意とする第二言語取得者の事務所があるはずなのだ。案内の通りに歩いてはいても、来たことのない場所はやはり辿り着けるか不安になる。
周囲の風景と、左手の手の甲に浮かび上がる立体地図を何度も見比べては足を進める。すると周囲の家々に比べれば少し小さい平屋の一戸建てが目に入った。昨晩、事前に写真付きマップで見た該当住所の外見ととても良く似ている。チップが告げる残りの距離からして、夏生の目的地はあそこらしい。
「……花田電機事務所」
表札に書いてある文字を見て、夏生はは少し怪訝な気持ちになった。花田。どう考えても名字である。事前に調べたときに書いてあった事務所の名前はこれではなかったはずだ。
基本的にこの都市の人間は、セントラル住まいであれ郊外住まいであれ姓を名乗らないことで知られている。行き過ぎた個人主義――血筋の成り立ちやどこに住んでいるかまで明らかになるような姓は個人情報の塊であるという考え。
セントラルとは異なる考え方が多い郊外とはいえ、そこのところは共通しているはずである。そんなところで、花田というあからさまに浮いた姓を見かけてしまったのだ。
この事務所の所長はもしかしたら相当な変人なのかもしれない――夏生の警戒心も自然と上がってしまう。
左手のチップは先程から小さな振動を続けており、ここが夏生の目的地であることを告げている。ここに踏み込まないことには自分の目的を達することはできない。
夏生は大きく深呼吸をして玄関のベルを押した。
〈はい〉
インターフォンから聞こえてきたのは、想像していたよりもずっと年若い声だった。ひょっとしたら、夏生と同い年くらいの少年かもしれない。
「あの、こちらでクリスタルの解錠を取り扱っていると聞いたんですが……」
〈ああ、お客さんか。ちょっと待ちたまえ〉
ぶつりと通話が切られ、数拍の間。施錠が外される音がする。
尊大な口調にちょっと面食らいながらも、夏生は言われた通り玄関で待った。
ドアがガチャリと音を立て開けられた。これから出てくるのは間違いなく花田電機事務所の人間である。夏生の緊張は一気に膨れ上がった。
「待たせたかな」
「いえっ! いえ……?」
「二回も否定する必要はないと思うけどね。まあ、客人には変わりない――ようこそ、縹(はなだ)電機事務所へ」
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