蜃気楼と甘ったれ

みつこ姐

『海、葉桜、そして夕焼け』

 あ、これ、すごい。


 とっさに小さい頃一度だけ入った海の中を思い出した。

時の流れが、ゆるやかに流れていく。車の急ブレーキと、運転手の焦った表情、周りの生徒の叫び声。角のミラーは異界のものとも取れる形で曲がっている。恐怖する人、騒ぐ人、驚く人、騒ぎで出てきた数人の先生と、倒れている、俺が助けた女の子。各々がSNSに動画をあげたり、家族や友人に連絡を取ったりしている。

 しばらくして、パトカーの声。呆然と突っ立った、俺の幼馴染。

俺らの町は、荒い運転手が多いんだな。学校の前ぐらい手加減してくれればいいのに。


 坊さんの読経は続いている。 

 ふわぁ……。もう一時間ほど退屈なあくびをかみ殺している。春眠暁を覚えず。とはよく言ったものだ。眠いなぁ。ぼーっと読経を聞いていても、サッパリ意味が分からないし、読経をする意味も分からない。そもそも、こーゆー時って坊さん、何考えてんのかな。知り合いならまだしも、他人様に上げる経なんて。

 だだっ広い畳の間で、胡坐をかいた仏様がこちらに微笑を向けていた。穏やかな顔してんだなぁ。どうにも現実味のない顔をしている。

 「タケル」

 隣にいる幼馴染に小さく声をかける。しかし、こいつはどうやら俺に相当怒っているらしく、先ほどからシカトを決め込んでいる。葉桜をバックにした仏頂面はいつもの数倍人相の悪さを引き立てていた。一生のうちに一度あるか無いかの大喧嘩。今回は俺が悪いから、甘んじて受け入れるしかない。そんなに、悪いことしたかなぁ。俺。

 「はぁ、退屈だ。」

時の流れは速いもので、この時からもう一度、桜を見送って、今はツクツクボウシが鳴いている。今日もまた、あの時と同じように、退屈なあくびを噛み殺している。

 

 “高校生”ってさ、不思議だよな。

 

 不意にそんな話を投げられた。懐かしい思い出に浸っていた思考は、そちらにすぐに向かえるわけもなかった。

 「あ? なんだよ急に」

 「お前もそう思わねえ⁉ だってさー、人間だれしも通る道だろ!?人間八十年も生きるのに、みんなこの三年間に憧れるんだぜ、大人も子供も!」

 ついに頭がおかしくなったか。八月の終わりでも、今年は異様に暑いもんな。そんなことを考えてうすらぼんやりとタケルの顔を見る。今年の異常な暑さから、創立百年にして初めてクーラーのつけられた教室内には、今は俺とこいつしかいなかった。俺らのバカ高は昔は進学校だったんだと、ここの卒業生である校長が、お話で言っていたような気がする。今は、適度にバカやってれば卒業できるくらいに成り下がっている。

 「おい、聞いてんのかよ! コウスケ!」

 ふいにタケルがこっちをのぞき込んでくる。首をかしげるそのしぐさが、絶妙に人をイラっとさせる。夏休み最後の日に何がうれしくて野郎となんか一緒にいなきゃならんのだ。くそっ。

 「わりー。昨日のテレビがなんだって?」

 「だーーーっ‼ やっぱ聞いてなかったな⁉ 俺の神的な”高校生”に対する見解を‼」

 俺がききなが…聞き逃したうちに バカの見解は論文レベルまで膨れていたらしい。三分ほど意識を手放していた俺は、そろそろここに居る目的を果たそうとバカの方に向き直った。

 「そーゆーことは補修受けずに済む頭になってから言えよ。」

 「むかつくー‼ これだから学年7位の秀才はー‼」

 「7位ってとこがリアリティあるな。」

 「何の話だよ。」

 「なんでもねぇよ。ほら、宿題やっちまわねぇと、文化祭参加させてもらえねえんだろ。愛しのヨシコちゃんが待ってるぞ。」

 「アイリだよ‼ くっそ覚える気ねえな⁉」

 そんな軽口をたたきながら、やんわりとタケルを机に向かわせた。


 コウスケとタケル

 

 この辺の町内ではうれしくない方向で俺らは有名人らしい。頭はいいくせに愛想がなく、いつも人を射殺すような目で見てくるコウスケと

 バカで愛想はよく、めんどくさいうえにキレたら手の付けられないタケル

 この町では性悪幼馴染として名が通っている。それもこれも、俺的にはタケルのせいだ。

 「そういえばさぁ」

 「何?」

 「この前アイリがお前にお礼言ってたよ。ごめんなさい。ありがとうってさ。」

 「はは、何度目だよ。もういいって言っといて。」

 「はいよ。」

 八月も、終わりとはいえあちぃなぁ。そうかな。

 テキトーに言葉を交わして、また宿題にいそしむ。こんな時間が、夏の間続いていた。


 高校生は不思議――…… か。 ……暑いな。


 あたりはもうツクツクボウシが鳴きだしていた。クーラーの付いた室内で窓の外の蜃気楼を眺める。見ているだけで外の熱気が伝わってくるようだった。硝子越しの温度差にゾッとして、今ある環境に感謝する。文明の利器とはこのことだ。

 俺らが“高校生”になって二度目の夏。そして、平成最後の夏でもある。生まれてから慣れ親しんできた平成も今年で終わりを告げるらしい。

 ぼーっとタケルを見ながら、なぁ、と声をかけた。

 「もし高校生のまま死んだら、お前は幸せなのかよ。」

 宿題に向かっていたタケルが訝しそうに顔をあげる。

 「何言ってんだよ。暑さで頭沸いたか?」

 「それはお前だろ。で、どうなんだよ」

 「そうだなー。全然? さすがにもっと長生きしてから死にてぇわ。」

 ケラケラ笑いながら、タケルは答えた。タケルの着ているワイシャツが、タケルの動きに合わせて同じように笑う。

 「憧れなんだろ? 憧れのまま自分の時が止まったら幸せなんじゃねえの?」

 ずいっと身を乗り出して、割に真面目な顔で問いを重ねる。

 俺の問いに、少し考えてからタケルは口を開いた。

 「憧れって、そういうもんだろ。通過点なんだよ。通過点。」

 にやり。人を挑発するような、面白いものを見つけた子供のような そんな顔でタケルは笑った。シャーペンで人を指さすのはやめた方がいいぞ。あぶねえから。

 「ふぅん。あっそ。」

 俺の反応を見て、タケルはつまんねぇの。と声をあげた。

つまんねぇの、か。わかる。俺はつまらない人間だ。どこがどうつまらないか。俺なりに考えた結論は、『興味がない』ということが一番の問題点だと思う。生きること。朝起きること。飯も、女の子も、感情も、見事に『興味がない。』

 全くない。というわけではないと思う。今も、目の前で俺が宿題を教えている男がかわいい女の子だったらな、なんて思う。ただ、『執着』がわかないのだ。貪欲に、男子高校生が好きそうなこと、楽しそうなこと、欲しがりそうなもの。どれにも別に欲がない。『執着』なんて使いなれない言葉よりも、『興味がない』方がしっくりくる。だから『興味がない』

 そんな俺とこいつとは、対照的な性格をしていると思う。飯も、女の子も、感情にも素直で、高校生らしく貪欲だ。もっとも、女の子に興味がないような軽薄な奴だったら、彼女、幸せにしてやれないな。あ、その理論だと、俺にもし彼女ができたらその子は不幸だな。

 「コウスケ、ここ、わかんねぇ。」

 「おう。」

 ちいさく返事をして、しばらく説明する。見ると、たまっていた宿題もさすがに今日で終わりそうな量だった。

 「終わりそうだな。宿題。」

 「ん? ああ。だって、明日から二学期じゃねえか。さすがにな。」

 宿題にペンを走らせながら、タケルはちらりと俺を見やった。

 「そっか。そうだよな。」

 「文化祭かかってっから。」

 「お祭り好きだなぁ。」

 「お祭りっつーかアイリが喜ぶからな。」

 「好きだなぁ。アイリちゃん。」

 そんな、他愛もない言葉を交わして、宿題を終わらせた。気づけばもう夕方になっている。太陽が、立ち並ぶビルの間から光を漏らしていた。影が伸びて、知らない町みたいだ。夕日をぼんやりと眺めていた俺に、帰り支度を終わらせたタケルが声をかけた。

 「俺、帰るわ。」

 「おう。」

 「明日も来るからな。」

 「何言ってんだよ。始業式だろ。」

 「……そうだよな。」

 またな。またな。

 そう言葉を交わして、タケルは教室を出て行った。俺は、タケルの出て行った教室を、ぼんやりと眺める。並ぶ三十二個の机と、黒板。教卓に、ロッカー。すべてが夕日に照らされていた。

 この教室の窓からは、北門が見える。俺とタケルのかつての帰り道。今は、タケル一人の背中が見える。いつも、自信満々で、大きくて、存在感のある背中が、いつもの数割小さく見えた。

 「お兄ちゃん」

 北門の影から小さな女の子がひょっこりと顔を出す。呼ぶ声は、タケルに向けられたものだろう。”お兄ちゃん”と言葉を交わして、北門に色の地味な花束を大事そうに置いた。あれからもう一年半も経つのに、アイリちゃんは未だに休みのたびに花を持ってきてくれる。小さな手をしばらく合わせると、パッと顔をあげて、所在なさげにしていたタケルと手をつないで帰路に就いた。


 夕焼けに、影法師が二つ。

 

 なぁ、”憧れ”のまま死んだけど、俺的には、幸せだよ。

 だってお前が毎日来てくれるからさ。


 あの退屈な読経がアイリちゃんに向けられたものじゃなくて良かったよ。

 守れて、良かったよ。


 彼女とかいいのかよ。もう 俺と一緒にいなくてもいいんだぜ?


 バカだよなぁ。俺ら幼馴染なんだから、責任感じて気なんか使わなくていいのに。

俺なんかに『興味』持ってさ。


 ……そんな、心に浮かんだ言葉たちは 蜃気楼の中にゆったりと溶けていった。きっと、誰にも伝えられることはないのだろう。どうやら俺は幼馴染のそんな奇行を、嬉しいと感じているらしい。これが、『興味』か。

 夕焼けがまどろみの中で沈んでいく。町という化け物がゆっくりと太陽を一飲みにする。その様子を高みで見物する俺とまばらな星たち。なかでも金星は俺をも見下して笑いながら消えていった。

 「笑いたきゃ笑えよ。」

 誰に言うでもなくそんなことを呟いて、タケルの席に突っ伏した。こんなちゃんとした気持ちを手に入れるなんて思わなかったんだよ。死んでから、泣きたいだなんて。

 なんとも自分らしいと思う。そして、愚かだと思う。


 まだ、夏の暑さに甘ったれている俺がいる。


 俺の方がバカだよな。 ごめんな。 ありがとう。

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