第二十三話 緋姫


 辰彦たつひことの対談から三十日あまり経ったある日、あかり疾風はやて瑞希みずきの宮城に向かっていた。

 数日前、夢桜ゆらに東家と西家名義でそれぞれ文が届いたのだ。


『私に、両家の仲を取り持って欲しいそうよ』


 疾風に文の内容を問われた燈は、檀の上質紙に濃い墨で書かれた文字を見たまま答えた。

 両家の文の内容は大体同じ。それぞれ相手の家と和睦し、二人の天子による新たな国づくりに寄与したいということ。そのために、具体的な施策を話し合うための場を設けるので、そこに燈も仲介役として参加して欲しいということ。

 燈はすぐに了承の文を出し、日取りと瑞希の宮城で行うことを決めたのだ。

 今日はその前日。瑞希は夢桜から離れているので余裕をもって出立したのだが、既に陽が西に傾こうとしている。秋水しゅうすいを駆る疾風の背中にしがみついたまま、燈は久々に訪れた瑞希の関を見た。


「瑞希は、少しずつ復興に向かっているらしいな」


 同じように立派な門を見ていたのだろう、疾風が馬を駆りながら呟いた。こちらを振り返らないままの言葉だったが、口元に僅かに浮かんだ笑みが見える。燈も微笑みながら答えた。


「会談の前から、東家と西家が協力して支援しているらしいわ」


 辰彦と寅彦とらひこは、自分たちの王位争いで瑞希の民を不安に陥らせたことを侘び、今回の会談できちんと決着をつけることを約束した。その上で、瑞希が元の豊かさを取り戻すために率先して支援に励んでいるという。

 徐々に茜に染まる関は綺麗に整備され、一礼して通してくれた門番の男性も生き生きとしている。冬の、飢えて暗い顔をした人が蔓延っていた頃とは大違いだ。燈はそこに、瑞希が少しずつ元の姿に戻っていっていることを感じて嬉しくなった。

 期待とほんの少しの懐かしさを感じながら、瑞希の玄関口である宿場町へ。その時、一人の女性が髪を振り乱しながら燈のもとへ駆け寄って来た。


「燈!」


 力強く野太い声。燈は聞き覚えのあるその声に驚いて、思わず声を上げた。


「えっ、女将さん?!」


 焦げ茶の髪に混ざる白髪が増え、灰汁色の小袖に包まれた身体も少し痩せたようだったが、確かに「長元坊ちょうげんぼう」の女将さんだった。

 女将さんは燈を見ると、突然深々と頭を下げた。


「燈、あの時は本当に申し訳なかった……! あの時燈に事情があったことも、荒れたこの町を救おうとしていたことも、分かっていたはずなのにね。あの時はどうかしていたよ」


 突然の女将さんの言葉に、燈は目を白黒させるばかり。

 曰く、東家と西家が会談をすることと同時に、そこに「元詠姫よみひめ」が参加することも噂になったらしい。その話を聞いた女将さんは、燈が宿場町を訪れるのを今か今かと待っていたそうだ。


「アタシが夢桜だっけ?に行けたら良かったんだけどね。折角再開できた『長元坊』を閉めるわけにもいかないし、準備したいこともあったからさ。でも、ちゃんと会えて良かった……!」


 茶味を帯びた黒瞳に涙をため、しきりに謝り続ける女将さん。燈はそれを見て、秋水の背中から降りた。


「おい、燈」


 疾風が何か言いたげな表情で燈を見る。が、燈はそれを軽く微笑んで制し、女将さんの正面に立った。


「顔を上げてください、女将さん」


 恐る恐る顔を上げた女将さんの両手を、燈は自身の両手でそっと包み込んだ。驚く彼女に、笑顔を浮かべたまま話し続ける。


「もう、謝らなくても構いませんよ。確かにあの時は悲しかったですが、女将さんが私しか責められなかったのも分かっています。それよりも、また女将さんとこうしてお話できるのが嬉しいんです」


 悲しみも怒りも、確かにあった。あれは全て本当の気持ち。けれどその全てを置いてでも、燈は女将さんと再び話せるのが嬉しかった。


(それに女将さんは、私に秋水を渡してくれた)


 お互い気まずかっただけで、絆は繋がっている。そう信じられたから。

 女将さんはその言葉を聞いて、燈の身体をぎゅうっと抱きしめた。後から後から溢れる雫が燈の肩を濡らしたが、僅かに見える頬にはあの時願った笑顔が浮かんでおり、燈は喜びのままに抱きしめ返す腕を強めた。


 その様子を、疾風はどこか訝しげな表情で見ていた。


 秋水に跨ったまま燈と話す女将さんに向ける視線は、刃物のように鋭利で厳しい。あの時の罵詈雑言を聞いていた疾風は、未だ彼女のことを許すことができないのだ。

 それでも燈が望むならと小さく溜め息を吐いた時、後ろからくすくすと笑い声が聞こえてきた。


「疾風は、本当に燈のことが大好きなのですね」

「貴女は……」


 聞き覚えのある穏やかな声。振り返ると、生成りの衣を纏った女性が立っていた。お母様だ。


「貴女、真幌月まほろづきを降りることができたんだな」


 秋水から降りた疾風は、覗き見を咎める代わりに溜め息混じりに呟いた。


「望めば、このくらいは造作もありません。燈の願いでできているとはいえ、あの子も神主様を真幌月に縛りつけたいとは思っていませんでしたし。もちろん、今の私も幻影に過ぎないのですが」


 そう答えるお母様の肌は、透き通るような白。肩口までの黒髪も僅かに黄金の光を帯び、この世の者でないことは明白だった。

 それでも少しも幻に見えないのは、それほど燈の思いが強かったからであろうか。

 疾風がそんなことを思っていると、不意にお母様が彼にすっと手を差し伸べた。


「疾風、少しお話しませんか? 私、貴方ともっと話してみたいと思っていたのです」

「えっ。だが……」


 疾風は目を丸くした後、後ろ髪を引かれるように燈と女将さんの方を見た。

 その時、燈も女将さんに誘われてどこかに移動しようとしていた。躊躇うように疾風の方を見る。

 反射でついて行こうとしたが、燈の方から駆け寄ってきた。


「女将さんに、長元坊で働いておられた方もいるって話していたの。長元坊の出店のところにいらっしゃるから会いに行きたいのだけど、さっきお母様が……」


 躊躇いがちな声に、隠しきれない喜びを含ませて語る燈。疾風がどう答えようか逡巡していると、お母様が一歩前に出た。


「行ってきなさい、燈。私は後でも構いませんから」


 燈の艶やかな髪をさらりと撫で、お母様は微笑む。


「積もる話も沢山あるのでしょう? ゆっくり話しておいでなさい。その代わりと言っては何ですが、疾風を借りてもいいでしょうか」


 燈が疾風を見た。彼は仕方なさそうに微笑んで頷く。それを見て、燈はお母様に「もちろんです」と頷いた。それから、再び疾風を見る。


「疾風、長元坊で待っているわ。今日は泊めてくださるらしいから。よろしければ、お母様もそちらにおいでください」


 燈はそこまで言うと、女将さんの後を追って大通りに消えていった。

 疾風が燈の消えた方角をじっと見ている。と、お母様が彼の肩を控えめに叩いた。


「そんなに心配しなくても、大丈夫だと思いますよ」


 疾風が振り返る。お母様は目を細め、穏やかな口調で話し始めた。


「私は、真幌月からあの女性を見ていました。何度も迷い悩みながら、あの方も今日まで歩んできたのです。宿屋さんのことも、燈のことも」


 昼間は宿の人々を元気づけながら、夜は立ち去っていった燈のことで悩んでいた女将さん。燈に放った罵声を、彼女は激しく後悔していた。もし再び会えたら。話すことができたら。自分は燈に何をしてあげられるだろう。そんなことをずっと考えていた。


「それを分かっているからこそ、あの方の燈への思いがとても真摯なものだと分かります。だから、疾風もそんなに心配しなくても大丈夫ですよ」


 その言葉は心配するのをやめられない疾風を気遣うもので、彼は恥ずかしくなってそっぽを向いた。そのまま話すべき言葉を見つけられずに黙っていると、急にお母様が話題を変えた。


「それより、私のことを『貴女』って呼ぶのは寂しくはありませんか? 燈のように『お母様』と呼ぶとか……。いっそ『母さん』なんて呼んでくれても」

「嫌だよ。……そんなことを言うために、俺と話そうと思ったのか?」


 呆れた表情をする疾風に、お母様は「そんなことはありません」と首を振った。


「ただ、疾風が眉根を寄せているのが見えたので、何か悩んでいるのかと思いまして」


 貴方も息子のように思っていますから、と彼女は微笑む。慈愛に満ちた笑顔は、本当に世に聞く母親のようだ。

 疾風は肩の力を抜くと、目線を上空に向けた。夕焼けと宵闇の境の空。地平線の果てで燃える今日最後の陽が、濃紫の閃光を放つ。

 それを見ながら、疾風は独り言のように呟いた。


「俺はまだ、女将さんを信用することができないんだ」


 吐息のような言葉をぽつり、ぽつりと漏らす。虚空を見つめる瞳に浮かぶのは、拒絶と不審感。


「燈は優しいから、すぐに許そうとするのも分かる。燈が喜んでいるのは俺もとても嬉しい。けど、駄目なんだ。俺はどうしても女将さんが燈に何かするんじゃないか、また罵詈雑言を浴びせるんじゃないかと気が気でない」


 その過剰なまでの心配性は、疾風の過去が培ったもの。かつて大切な人を、他人の欺きによって失ったことが原因の人間不信だった。

 けれど、疾風は両の拳をぎゅっと握り締めた。


「けど、俺はそれじゃいけないと思う」


 疾風はぐっとお母様の方に視線を向けた。その瞳には、燃え盛る紅蓮の炎が灯っている。


「俺は、燈を支えたいんだ。燈の夢が叶うように手助けをして、燈が望む天羽あまはの未来を見たい。だから、そこにこんな利己的な感情は」

「疾風は、もっと我が儘になってもいいと思いますよ」


 自身に言い聞かせるような言葉に、お母様の言葉が重なった。

 はっと目を見開く疾風に、お母様はふわりと微笑んで言った。


「疾風が燈のために、言いたいことを我慢する必要はないと思いますよ。確かにあの子が理想を見つめる姿は輝いていて、応援したいと思う気持ちも分かります。けれど、燈はひとつを見定めるとそこへ突っ走っていくところがありますから」


 それは燈の美点でもあるが、同時に危なっかしいところでもある。だから疾風が心配になるのは当然だと、お母様は笑った。


「間違いを諭し、危ないことを止めるのも、手助けをする上で大事だと思いますよ。自分が過剰だと思うことも、それが本当に正しいこともあります。何より、燈にとって疾風がそんな顔をしていることが一番嫌でしょうし」


 疾風が言いたいことを言った方が、燈も安心して夢に向かって進めるだろう。そう言われた疾風は、少し俯いて「そうだな」と呟いた。

 未だ何か考えている様子の疾風。それを見て、お母様はさらに追い打ちをかけてみることにした。


「もしかして、『燈のことが好き』と言わないのもそれが理由ですか?」

「なっ、何をいきなり……」


 不意打ちに、疾風の顔が真っ赤になる。それを見て、お母様はくすくすと笑った。


「疾風が燈のことが大好きなのは明白なのに、それを必死で隠しているようですから」


 隠している理由も先程と同じようなものなのでは。そう尋ねられて、疾風は視線を地面に落としたまま呟いた。


「この想いこそ、利己的なものに過ぎないだろ」


 それは、疾風が燈のことを好きだと自覚してから、ずっと抱いていた想い。具体的には、冬の廃村で燈の願いを聞いたときから。

 燈が目指す天羽の未来を、その夢の先を見てみたいと思った時、同時に自分の想いにも気づいた。きっと、ずっと前から自分の中に存在していた、焦がれるような激情を。

 けれど、彼はその想いを自分の中に秘めておくと決めていた。


「俺は、元詠姫の付き人で、今も燈を一番近くで支えたいだけの存在だ。燈の願いを叶えるためならなんだってしたい。けど、だからこそ、この気持ちを伝えて俺が燈の足枷になるのは嫌なんだ」


 だから、この気持ちは伝えなくていい。

 そっと呟いた疾風に、お母様もそっと言葉を返した。


「それでも、少しでも伝えたいという思いがあるのなら、私は伝えた方がいいと思いますよ」


 疾風がはっと顔を上げる。お母様は切なげに微笑んだ。


「秘めた想いを伝えずに後悔する前に。貴方達には、後悔して欲しくありませんから」


 宵の風がどこかの木の葉を乗せて流れていく。その様子を見送るお母様に、疾風が控えめな声で尋ねた。


「貴女は、後悔したことがあるのか?」


 ちらりと、お母様の目が疾風の方を見て、宮城の方角へ動いた。「恥ずかしながら」と囁く彼女の頬は僅かに染まっているが、細めた目元は憂いを帯びていた。


「きっと、後悔しているのでしょう。叶わぬ恋と分かっていても、あの人が見つめる未来の手助けをできるだけで満足だった。偶に話しに来てくれるだけで十分だった。そのはずなのに、もう二度と会えないと知ってこんなにも胸が痛くなっているのですから」


 伝えられる時に、伝えれば良かった。相手を困らせるとしても。

 じっと宮城の方を見つめて、お母様は繰り返し嘆いた。まるで最後に残った想いを断ち切るかのように。

 目尻に浮かんだ涙をそっと指で拭うと、お母様は再び疾風を見て言った。


「私はもう伝えることができないけれど、貴方は伝えられるのです。もしいつか後悔すると思うのなら、その前に伝えなさい。私は燈だけでなく、貴方の幸せも祈っているのですから」


 疾風はその言葉を聞いても、未だ何も答えることができなかった。

 お母様は彼の様子を見て、くすりと微笑んだ。


「それに、燈もそろそろ気づくかもしれませんよ?」

「えっ……?」


 疾風が目を丸くする。お母様は笑ってぽんぽんと背を叩き、その歩みを促した。


「さあ、そろそろ行きましょうか。燈も待っているでしょうし」

「ああ……」


 疾風は歩き出しても暫く考え込んでいたが、不意に正面を向いたままぼそっと呟いた。


「……ありがとう、母さん」


 昇りゆく半月の、柔らかな白銀の光が二人を照らす。軒先に灯された提灯の朱が、宵の温い風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。


                   *


 翌朝、まだ陽も明けきらない頃、「長元坊」で一泊した燈は、いつかのように女将さんに呼ばれて奥の間に向かっていた。

 引き戸を開けると、姿見と長持を用意している女将さんと目が合った。


「おはよう、燈。よく眠れたかい?」

「おかげさまで」


 燈は返事をしながら、きょとんと首を傾げた。


「女将さん、それは何の用意をしているのですか?」

「アタシから、燈にお祝いと祈願を兼ねて贈ろうと思ってね」


 女将さんは燈を招き寄せると、長持の蓋をひとつ開けた。現れたのは鳳凰紋の、それにあけの地に金糸で花喰鳥紋はなくいとりもんが描かれた唐衣からころもだった。桜の枝を咥えた鳥が、今にも飛んでいきそうなほど繊細に縫い取られている。


「これを、私に……?」


 燈は声を失って女将さんを見た。彼女は、「このくらいしか、アタシに贈れるものはないからね」とはにかんだ。


「燈も十六になったんだろう? それだというのに、裳着もぎもしていないというじゃないか。だから、今日の会談の成功も祈って、着付けてあげようと思って用意したんだ」


 一枚一枚丁寧に取り出し、汚れやほつれがないか確認していく女将さん。不意に、燈は夢桜で聞いたことを思い出した。


「もしかして、これ、女将さんが作ったのですか……?」


 あの時の中紅花なかくれないうちぎも。夢桜でお婆さんが織っていたように、女将さんが織ったのではないか。そう思ったのだ。

 不意に、女将さんは忙しなく動かしていた手を止めた。顔を上げて、明かり取りの小さな窓を見る。少しずつ差し込み始めた早朝の光に目を細めながら、そっと呟いた。


「この宿が昔、お貴族様の屋敷だったことは話しただろう?」


 燈は頷いた。宿屋のお手伝いをした時に聞いた話だ。女将さんのお祖父さんが使用人だったので、屋敷を分け与えられたのだと。


「その頃からね、代々うちの女は専属で衣を作っていたんだ」


 中央に比べたら劣っても、貴族の衣に使われるくらいには高い技術を持っていた。大勢の使用人がいた中、女将さんのお祖父さんに屋敷の一部が与えられたのも、そこに理由があったらしい。


「お貴族様に仕えることがなくなっても、母から娘へ、その手業が継がれてきた。アタシも本当は、この技術を娘に継がせないといけないんだろうけどね……」

「娘さんがいらっしゃらないのですか?」


 燈が問うと、女将さんは静かに首を振った。


「一人いたけど、死んだんだ。先代の天子様が即位される直前に、瑞希の争いでね」


 女将さんの言葉に、燈が驚いて目を見開く。彼女は上を見上げたまま、独り言のように話し続けた。


「まだほんの赤子だったんだけどね。この子はきっと美人になると思って、その成長を祈って中紅花の袿を織ったんだ。けれど、困窮の中栄養不足が祟って、言葉も話せないうちに逝ってしまった」


 淡々と語られる言葉は、未だ忘れられない痛みに満ちている。燈は胸が苦しくなった。

 多分、燈が荒れた瑞希に戻った時あれほど女将さんが険しい顔をしていたのは、娘さんが亡くなった時のことを思い出していたのだろう。再び、同じことが起こるのではないかと。


「仕舞いっぱなしだった袿を燈に渡した時、アタシはあの子にできなかった代わりにあんたの支えになろうと思ったんだ。けれど、結局感情に任せて傷つけてしまった。それから、ずっと考えていたんだ。燈のために、アタシに何をできるのかを」


 そこまで言って、女将さんは上げていた視線を燈に向けた。燈を姿見の前に立たせ、背後に回ると、寝巻きの小袖を取る。素肌を晒した背に香油を塗り、新たな小袖、緋の袴、単。そして袿を一枚一枚丁寧に重ねていく。かさねは祝い事に用いられるくれないにおい

 木漏れ日のように甘やかに差し込む陽の下、少しずつ華やかに彩られていく燈の背後で、女将さんの優しい言葉が響く。


「あの子の代わりじゃなくて、アタシは燈の歩む道を見守ろうと思ったんだ。本当に、燈の旅路の支えになれるように。そう願って、この衣を織ったんだ」


 打衣うちぎぬ表着うわぎを重ね、唐衣を着せる。どれも燈のためだけに、女将さんが宿屋を復旧しながら織った晴れ着。詠姫の時は着たことがないような、緋色を基調とした鮮やかな装束。

 腰に裳を付けた時、女将さんが裳に描かれた鳳凰を指で辿りながら言った。


「鳳凰は天羽を示す鳥であるとともに、古来から続く平和の象徴。……燈、どうか今日の会談で、天羽に末永く平和が続くように導いておくれ。もう二度と瑞希が荒れることがないように。娘のように幼くして死ぬ子供がいなくなるように」


 燈は俯き、言葉を噛み締めるように「はい」と頷いた。


「必ず、天羽にとって一番良い結果となるように尽力してきます」


 鏡に映る燈の瞳に、決意の光が灯る。室内に舞い込んだ初夏の風が、彼女が進むべき道を示していた。


                   *


 準備を終えた燈が「長元坊」の外に出ると、戸のすぐ脇で疾風が待っていた。

 宿の壁に持たれかかるように立っていた彼は、着飾った燈を見てはっと息を呑んで、そのまま押し黙ってしまう。燈は唐衣の裾を持ち上げ、おずおずと尋ねた。


「……変じゃ、ない?」


 疾風は少し目を見開くと、その黒瞳を柔らかく細めた。


「綺麗だ」


 率直な言葉に、かあっと頬が染まる。思わず先程までの会話を思い出して、燈はふいっと顔を背けた。頬の熱も冷めないままに、「ありがとう」とぼそぼそ呟いた。


(もう、女将さんがあんなことを言うから……)


 それは、裳を付けた後、女将さんに髪を整えてもらっていた時のことだった。

 黄楊の櫛で燈の髪を梳かしながら、彼女は笑い混じりの声でこう言った。


『そういえば、疾風とはどこまでいったんだい?』

『えっ……?』


 燈が首を傾げると、女将さんが楽しそうに笑った。


『いやね、昨晩からうちの宿の者がそればっかり聞くものだから、燈に聞いてみるって約束しちまったんだよ。で、本当のところどうなんだい?』

『……?』


 不思議そうな顔をする燈に、驚いたのは女将さんの方だった。


『まさか、自覚していなかったのかい? でも、燈は疾風のことが好きなんだろう?』

『好き……?』


 確かに、疾風のことは好きだ。どんな時も彼に助けられてきた。疾風がいたからこそ前に進めてきた。

 そのことを話すと、女将さんは暫し黙り込んだ後「まあ、それでいいか」と笑った。


『色恋沙汰ってものは説明できるものじゃないからね。今はそれでいい。でも、ひとつだけ覚えておきな』


 燈の髪の一部を頭頂で結い上げ、金の冠と紅玉のついた簪を差し込んだ女将さんは、くるりと振り返らせると、黒瞳を覗き込んで笑顔で言った。


『伝えたいことは、伝えられる時に伝えること。後悔しても遅いからね』

 本当は疾風の方に言うべきなのかもしれないけど、燈の方から発破かけてやりな。


 付け加えられた一言はよく分からなかったけれど、燈は頷いた。疾風に伝えたいことは沢山あったから。


「そろそろ行くか」


 不意に疾風が発した声で、燈は我に返った。そろそろ宮城に向かわないといけないらしい。

 歩きだそうとする彼の衣の裾を、燈はくいっと引っ張った。


「どうした?」


 首を傾げた疾風に、燈はひとつ深呼吸をしてから言った。


「全部終わったら、話したいことがあるの。聞いてくれる?」


 上ずった声。どきどきしながら疾風の返事を待つ。

 彼は不思議そうに首を傾げたが、にっこり笑って頷いてくれた。


「分かった」


 疾風の返事にほっと息を吐いた燈は、足を一歩、宮城の方に踏み出した。

 上り詰めた朝日が光を増す。木々は青々と茂った葉を揺らす。追い風に乗って飛ぶ数羽の鳥が鬨の声を上げる。

 その、天羽の全てを受け止めながら、燈は疾風に手を指し伸ばした。



「行きましょう、疾風」

 全てを終わらすために。歪んだ伝承の全てを、変えるために。


 緋の衣纏いし、夜明け導く姫。

 後に原初の「緋姫あけひめ」として後世まで讃えられる彼女の、それが最初の一歩であった。

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