第二十話 対談

 疾風はやて依月山いづきやま寅彦とらひこと対峙している頃、あかりは「夢桜ゆらの里」の境で辰彦たつひこを出迎えていた。

 濃縹こきはなだ直衣のうしを着た辰彦は後ろに従者を数人引き連れ、自ら栗毛の馬に乗って現れた。村人が平伏しつつ興味深そうに様子を伺う中、彼は出迎えた燈を見つけて淡く微笑んだ。


「初めまして、詠姫よみひめ様」


 燈は村人と変わらず深く頭を下げて辰彦に答えた。


「初めまして、辰彦様。御足労頂き申し訳ありません」

「いえいえ、詠姫様に来て頂くぐらいなら私が伺いますよ」


 あくまでも柔らかな物腰の辰彦。燈も微笑んだまま、それでも首を振った。


「いえ、私はもう詠姫ではありませんから」


 辰彦は答えず、黙ったまま。燈は仕方なく案内しようと歩き出し、ふとその笑顔に既視感を覚えた。


(この表情、どこかでみたような……?)


 まさかと思ってこっそり顔を伺うが、辰彦に変わった様子はない。燈は気のせいだろうと考え、黙って歩いていった。

 民家と畑の並ぶ小道を抜け、村の中央へ。かつて村長の家があった場所には、小さいが瀟洒しょうしゃな作りの屋敷が建っていた。切妻の桧皮葺ひわだぶきの屋根は陽光を浴びてしっとりと蘇芳すおうに輝き、白木の柱の間には白練しろねりの布に朱の紐をあしらった几帳きちょうが渡されている。

 この建物は、辰彦が来ると聞いて急遽建てた会談用の建築物だ。燈が普段住まいにしている住居もごく普通の民家であるため、その場拵えではあるが一国の皇子を迎えられるような場所を用意したのである。

 そのため小規模で内装も必要最低限だが、村人が色々手伝ってくれたのでとても良いものができた。少なくとも燈はそう思っている。招かれた辰彦は特に建物について反応を示さず、優雅ではあるがどこか急くような足取りできざはしを上っていった。

 階の奥はすぐに座敷だ。板張りの床に幾枚かの厚畳あつたたみを並べ、円座わろうだと脇息、ひとつ文机が置かれただけの機能的な部屋だが、几帳の向こうから心地よい薫風が入り堅苦しさを感じさせない。居心地の良いように作られた空間に、入室する二人が纏う空気だけが僅かに緊張を帯びていた。

 辰彦は足音も立てずに部屋に入ると、円座に座る前に真っ直ぐに屹立し、同じく目の前に立った燈に優美に一礼してみせた。


「まずは、本日の会談に応じて下さったこと、心より感謝致します」


 燈はひとつ溜め息をつくと、表面だけは落ち着いて「顔をお上げください」と言った。あくまで詠姫に対しての接し方を崩さない辰彦に、燈も膝を折り、王族に対する正式な礼をする。


「とんでもございません。今や私は辰彦様に面会するのも憚られる程の身、そのように礼を尽くされる必要はございません」

「詠姫様……っ」


 何か反論しようとした辰彦を止める。顔を上げた燈は、不服そうな彼ににっこりと微笑んでみせた。


「けれど、そんな私もお話したいことがあって、こうしてお会いしているのです。ですから、今は私が詠姫であるかや、身分の上下などは置いといて会談と致しましょう?」


 燈の言葉に、辰彦も不承不承ながら頷いてくれた。


「そうですね。有意義な話をするためにも、この場の礼儀は不問にしましょう。……けれど、ひとつお礼を言わせてくださいませんか」

「お礼、ですか?」

「ええ。会談とは別に、お会いしたらお礼しなければと思っていたことがあるのです」


 首を傾げる燈に、辰彦は改めて深々とお辞儀をした。折烏帽子の下、銀紗のような髪が動きに合わせてさらりと流れる。


「冬の日に、飛鴛ひえん山脈で助けて頂いたことを覚えておられますか? あの時水をくださり、瑞希みずきの側まで連れて頂いたことに、改めて感謝申し上げます」


 燈は暫し中空を見つめた後、はっと目を見開いた。思い出したのは、北の村を出てすぐのこと。


「まさか、あの時の商人さん……?」


 辰彦は僅かに頬を染めて微笑んだ。


「あの時は、部下に無理を言って連れ出してもらいまして。どうしても身分を明かすわけにはいかなかったのです。お恥ずかしながら、道に迷うとは思っていなかったのですが」


 少年のように照れた表情の辰彦に、燈は口をあんぐりと開けてしまうのを堪えるのが精一杯だった。確かにあの商人には不審な点が多かったし、疾風も多少警戒している様子だったが、まさか辰彦だったとはとても信じられない。

 不意に辰彦が微笑みを消した。未だ半信半疑といった燈を切れ長の瞳が射抜く。


「身分を偽ったことは大変申し訳なく思います。けれど、おかげで良いことを知ることができました」


 錫色すずいろの眼光は鋭く、薄い唇から告げられる声は生真面目な色をしていてその場の空気を緊張させる。燈はぴくりと肩を震わせた。


「今まで私は、僭越ながら詠姫様のことを少し不誠実な方だと思っておりました。大事なお役目を捨てて逃げられるなどと憤慨していたのです。けれど、あの時お会いしたことでそのような方ではないと感じました」


 語られる口調は固いまま。けれど、その声は優しさと嬉しげな響きを含んでいた。


「この方は、きっと理由があって神苑しんえんを離れたのではないかと。そう思ったのです。それで私はこの会談に応じました。ですから、どうかお聞かせ願いたい。何故詠姫であることを辞め、神苑から去ったのかを」


 その瞳はどこまでも真摯で偽りがない。燈はその誠実さに、辰彦と話すことの手応えを感じた。商人と騙っていたことに驚きはしたが、彼なら燈の言葉をきちんと聞いてくれるだろう。

 燈は手元に用意していた文書を文机に広げつつ、努めて穏やかな声で辰彦に答えた。


「私を高く評価して頂いたこと、大変嬉しく思います。もちろん全てお話するつもりです。ですからまずは、これを見て頂けないでしょうか」


 文机の上の山と積み上げられた文書を、指で指し示す。辰彦は眉を顰めた。


「これは……?」

「依月山の『詠姫供養の庭』に残された資料と、宮城に保管されていた詠姫や真幌月まほろづきに関する文書の内容を私が纏めたもの、その全てでございます」


 燈は何も、ここで「夢桜の里」の発展ばかり考えていたわけではない。真幌月にいた頃から、疾風に手伝ってもらってあちこちの資料を集めていた。それらの全てを比較、選別し、今日のために纏めていたのである。

 全ては辰彦に、真幌月の伝承が偽りであること、詠姫の制度など悲しみを生むだけの仕組みでしかないことを分かってもらうために。


「これらの資料が示すとおり、伝承には大きな矛盾点が沢山あります。辰彦様、真幌月の伝承など全くの虚構であり、詠姫を生贄にする意味などどこにもありはしないのです」


 燈の語気が強まる。瞳に紅蓮の炎が灯る。

 辰彦が驚きと恍惚の混じった目で見入っているが、燈は気づかない。ただただその思いを彼に分かってもらおうと訴える。


「ですから、私は詠姫に戻るつもりはありません。詠姫は私の代で終わりにし、制度そのものを廃止させます。捧げる必要のない生贄になど、誰もならなくていいように」


 燈の話を辰彦は呆然と聞いていたが、やがて静かに問い返した。


「……貴女が私と対話しようと考えたのは、そのためですか? 真幌月の伝承が偽りで、詠姫が意味のないものであることを知らせるために?」

「それだけではありません」


 燈は即答する。むしろここからが重要だ。詠姫制度の撤廃についても協力を要請したいと思っていたが、それは後で必要な話。伝承が偽りであり、詠姫など全く必要のない制度であることを踏まえた上で、辰彦に話すべきことがある。燈は自身の夢と約束を果たすためにここにいるのだから。


「大事なのはここからです。私は詠姫制度の歪さを知り、自ら詠姫であることをやめました。けれど、それでも辰彦様とお話したかったのは、天子様との約束があったからです」

「父上との……?」


 燈は僅かに目を伏せ、未だ色褪せぬ天子様との思い出をなぞるようにそっと告げた。


「天子様は私に、辰彦様と寅彦様に仲良くしてほしいとおっしゃいました。そのために、私に協力して欲しいと」


 天子様の、最初で最後の頼みごと。燈はそれを一度たりとも忘れたことはなかった。その優しい言葉と微笑みを胸にここにいるのだ。同時に、初めて芽生え己を熱く焦がす夢を叶えるために。

 顔を上げ、辰彦を見つめる。黒きまなこに強い意思を灯したまま、燈は花開くようにあでやかに微笑んでみせた。


「私は、天子様との約束を叶えたいと思っています。そして、私には夢があるのです。詠姫ではなくなったとしても叶えたい夢が。そのために、こうして辰彦様とお会いしているのです」


 甘やかな声は、辰彦に逃げることを許さない。真摯で穏やかな声であるというのに、込められた思いは何よりも強く辰彦に届く。


「私は、辰彦様の思いを聞くためにここにいるのです。辰彦様と寅彦様、お二人ともの思いを聞かないと意味がないのです。……さあ、私がこの対談を望んだ理由は全てお話しました。次は辰彦様が、ご自身の思いを聞かせてくださいませんか?」


 燈の柔らかな微笑みに、辰彦の息がぐっと詰まる。その力は策略か、才能か。それともあまりにも真っ直ぐな思いが生み出したのであろうか。

 果たして辰彦は、観念したように深く息をついた。


「少しだけ、私の話を聞いて頂いてもいいでしょうか」


 纏う空気の変わった辰彦に、燈はしゃらりと首を傾げる。そのあどけない姿に隠しきれない苦笑いを浮かべながら、辰彦はゆっくりと話し始めた。


「お話するのは、弟の寅彦のことです。昔、私は彼と何度か遊んだことがありました」


 母親同士の仲が悪かったとしても、辰彦と寅彦の仲が悪いわけでは決してなかった。もちろん妃が遊ばせようとしたことはなかったけれど、寅彦が辰彦の部屋に忍び込むたびに相手をしたものだった。


「とらがどうやって侵入していたのかは分かりませんが、あの子は昔から冒険好きでしたからね。いつの間にか龍笛を吹けば現れるようになり、私もそれが楽しみになっていました」


 いつの間にか寅彦のことを「とら」と呼んでいることに気づかないほど、辰彦は思い出に浸っていた。その言葉ひとつひとつから、弟への隠しきれない愛情が伝わってくる。

 どこからか摘んできた竜胆りんどうを大切に飾っていたこと。同じしとねに座って物語や歴史書を読んだこと。碁や双六を教えたこと。

 あまりにも慈愛に満ちた声で語られる思い出を、燈は少し切なく思った。そんなに仲が良かったのに、どうして争わなければならないのか。否、今からでも遅くはないはずだ。燈は強くそう思う。今からでもきっと、二人は元の仲のいい兄弟に戻れるはずだと。

 辰彦は、吐息を零すような密やかな声で囁いた。


「私はとらが大好きでした……いや、今でも大好きです。何があっても弟を愛しいと思う気持ちは、あの子と過ごした日々が何にも代え難い幸せであったことは、決して否定するつもりはありません」


 微笑みを浮かべたまま言い――不意に、辰彦はその表情を消した。



「けれど、それでも私は天子にならなければなりません」



 その言葉は、先程とはうって変わって刃のように鋭い。


「私は天子になるために生まれてきました。誰もから、天子になることだけを求められてきました。それが私の生きる意味であり、私の使命です。たとえ、それで大切な弟を失っても」


 寅彦と元の関係に戻るつもりはないと、辰彦はきっぱりと言い切った。驚く燈の前、彼はがたりと大きな音を立てて立ち上がる。文机の文書が崩れ落ちた。

 慌てて何か言おうとした燈に、辰彦は手を伸ばした。色白の細い指が、燈の肩にくい込む。


「……!?」

「詠姫様、私を天子にしてください!」


 華奢な肩に縋りつき、辰彦は懇願した。錫の瞳は血走り、常になく興奮した口調でまくし立てる。


「貴女は詠姫様です。伝承がどうであろうと関係ない。たとえどのような約束や夢があろうと、貴女は詠姫という宿命にあるのです。ですからどうか、今この場で、私を天子にしてください。そうすれば天羽の全ては良い方に纏まるのです!」


 燈が肩の痛みに思わず呻いたとき、不意に几帳の向こうから別の声がした。



「それはどうかな、辰彦様?」



「誰だ!」


 辰彦が燈の肩を離し振り返った次の瞬間、ひとりの黒い影が部屋の中に飛び込んだ。

 現れた少年の姿に、燈は驚きと安堵が混ざった声で叫んだ。


「疾風!」

「こら、無茶すんなって言ったろ」


 燈の肩に触れて大きく安堵の息をついた疾風は、彼女を背中に庇って辰彦を睨みつける。

 辰彦は不満げな様子で疾風を眺めまわした。


「あの時の少年か……。さっきの言葉はどういう意味だ?」

「そのままの意味ですよ。貴方が天子になっても寅彦様が天子になっても禍根は残る。どちらが天子になったとしても、天羽が完全に纏まらないことくらい、俺にでも分かります」

「なら、どうすればいいというのだ!」


 激しく突っかかる辰彦に、疾風は燈を背に庇ったまま一枚の文書を差し出した。


「まあまあ。話はとりあえず、それを読んでからにしてください。貴方に宛てたものですから」

「疾風?」


 話が見えない燈が、疾風に問いかける。疾風はちょっと後ろを向くとにっと笑った。


「あれは、寅彦様が辰彦様に宛てた手紙だよ」


 意味を理解して、燈の表情がぱっと晴れた。それを見て、前髪の向こうに覗く彼の黒瞳が自慢げに輝く。彼はいたずらが成功した子供のように、得意げな表情で言った。


「ちょっと手間取ったけど……ちゃんと寅彦様の気持ちを聞き出してきたぜ、燈」

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