第十九話 疾風

 数日かけて山を登り降りし、ようやく疾風はやて依月山いづきやま前の社にたどり着いた。今は参拝する人のいない社の前をすっと横切りかけ、不意にぴたりと足を止める。

 ここは、真幌月まほろづき信仰の社。今は既に、真幌月に神様なんていないと分かっている、間違った信仰の証。


 けれど疾風は、神様と呼ばれる人が確かにいたことを知っている。


 夕まぐれの浅緋あさあけの空、ばさばさと激しい羽音を立てて、数羽の烏が飛んでいく。

 その姿に背を向けるように歩きながら、疾風は昔、自分が神様に仕える烏だったことを思いだしていた。


 ――それは遠い昔。まだ、天羽あまはという名すらなく、神と人が近かった頃のお話。


                 *


 神使だった疾風の主「葉流姫はるひめ」は、慈愛と豊穣の女神として崇められていた。

 彼女が神であると名乗ったことはないが、不思議な力を持っており、その力を使って人々を助けていたらいつの間にか神と呼ばれるようになったらしい。

 彼女は元々、自らの名を持っていなかった。森の中をうろうろしていたところを優しい老夫婦に拾われて、小さな村で育ったらしい。名前もその時もらったのだという。


『この力は、神様の子だから授かったのだと喜ばれたの。だから、森羅万象に愛された娘という意味で「葉流姫」と名づけたそうよ』


 「葉流」は「森羅万象」を指す古い言葉だから。そう言って淡く微笑む主を今も覚えている。彼女は自分を助けてくれた村人に感謝し、そのお礼になるならと、助けを求める人々に自らの力を分け隔てなく使っていた。

 疾風が主と出会ったのも、丁度その頃である。その頃疾風も普通の烏ではなく、俗に「魔」と呼ばれる、限りなく神に近い存在だった。彼の本質は風。烏の形を成し、現世うつしよ幽世かくりよの狭間である「あわい」を自由に駆けていた。ひょんなことから「葉流姫」に助けられ、彼女と行動を共にするようになった、それだけの関係。けれど、疾風は主を心から大切に思っていた。主のために現世を飛び回ることが増えた。その頃は人に変化へんげすることもできたので、そうして主を助けることも多くなった。

 いつしか、「烏を従えた女神」の噂は天羽全土に広まっていた。まだ天子すらいない時代ではあれど、村を跨いで噂が広まり、主も村関係なく誰にでも手を差し伸べたので、遠く山を超えたところまで「葉流姫」信仰は広まることになった。

 けれど、人から人への噂とは得てして歪むものである。

 

 いつしか、人々は自分の村にも神様が欲しいと思うようになった。

 いつしか、「葉流姫」が森で拾われた子供だという噂が広まっていた。

 ――その結果、森で拾った捨て子を「神様の子」とする風習ができた。


 そこまでなら問題はなかったのだが、さらに噂に尾ひれがつき、神様は欲しいけれど食い扶持を増やしたくなかった村の心情と、以前からあった「七つまでは神の子」という言葉が歪んだ合致をとげ、七歳の娘を神に返す伝承ができた。俗にいう「ミツゲ様」の伝承である。

 贄を捧げる風習に心を痛めた主は、様々な村の人々にやめるように言った。けれど、天羽の全域に定着し村の利害とも一致した伝承はそう簡単に消えるものではなかった。

 やがて、欲深いとある村の人々に捕まり小さな「社」に閉じ込められた主は、天羽の秩序を乱したとして他の「魔」に殺されてしまった。それも、疾風が彼女から離れている間に。


 ――その後自分が何をしたのか、今の疾風はあまり覚えていない。


 覚えているのは、真っ赤に染まった自分の羽。嘆き叫ぶ人々の声。

 人も「魔」も恨み、呪い、何もかも壊した。いつの間にか人に変化する力を失うまで。

 そうして大切な人も居場所も失って、気がついたら何人もの「魔」に追われてあわいを逃げ回っていた時、唄が聞こえてきた。


 それは拙くも優しい、どこか懐かしい少女の歌声。


 傷つき疲れていた疾風は、その唄に引っ張られるようにぽとりと現世に落ちた。それが、二人目の大切な人であり今の疾風の全てである「あかり」との出会いだった。

 始めは何も信頼できず燈のことも警戒していたが、彼女の優しさや無邪気な心に惹かれていった。姿が「葉流姫」に似ていたというのもあったのかもしれない。未だ忘れられぬ痛みを抱える中、燈だけが疾風の光だった。


 ――けれど、運命は残酷に繰り返す。


 あろうことか、燈は「ミツゲ様」だった。その時、村人に連れて行かれる燈を確かに見た。疾風は助けたかったが、小さな烏の身では何もできなかった。


(あの時ほど、人の身体が欲しいと思ったことはなかった)


 今でも疾風はそう思い返す。あの時人に変化することができたなら、燈を助けて逃げることもできたかもしれないのにと。最早、後悔など何の役に立つわけでもないが。

 そして燈の願いと疾風の絶望をもとに、疾風に残された「魔」としての力を糧にして真幌月は生み出された。

 それから何やかんやあって疾風は燈とともに現世に戻り、今に至る。

 今もなおそれらの過去を引きずったままであった疾風は、今度こそ燈を守ることを誓っていた。再び人の身体を得た今、燈に傷ひとつ付けさせず、たとえ何があっても自分の全てでもって彼女を守るのが自分の使命だと。だからこそ燈から決して離れず、近づく人々を警戒し、危険だと思うことには彼女が望んでも近づけないようにしてきた。


「けど、違ったんだ。俺がすべきことは、俺が見たかったものは、そうじゃなかったんだ」


 依月山の奥に続く登山道を見据え、疾風は歩きながら呟く。その足取りは今までにないほどに力強い。

 疾風にできることは、ただ自分の思いのままに守ることではなかった。そうでないことを燈自らが教えてくれた。

 燈は、いつも理想だけを見つめていた。その道の先にどんなに辛く悲しいことがあっても、たとえそれで自分が傷ついたとしても、常に真っ直ぐに前だけを見据え、自分ができることを探して駆け抜けていた。


『私は、天羽の全てを守りたい』


 そんな、荒唐無稽とも言われかねない夢を叶えるために。だが、疾風はその言葉にこそ心揺さぶられたのだ。

 あの、雪の民家で話した時の衝撃が今でも忘れられない。紅い炎を宿して煌く燈の瞳は常に天羽の未来を見据えていて、過去の後悔にばかり引きずられていた自分とは大違いだった。


 その時、確かに疾風は燈の見つめる理想を見てみたいと思ったのだ。


 燈を守るだけでなく、彼女が進む道を支えたい。その道が辛く悲しいものであるのなら、自分も傍にいて一緒に歩いたらいい。危険なものがあるのなら、進んでいけるように自分がその障害を取り除いたらいい。必要以上に警戒して安全なものを選ばせるよりも、燈が望んだ道をどこまでも歩いていけるように。


(燈が望み、願ったその道の先を、俺も見てみたい。その先に、もっと良い天羽が……かつて主が望んだ天羽があるかもしれないから)


 人を恨むより、繰り返す運命を嘆くより、進む先に目指すべき光があるのなら。疾風も、燈とともに前へ歩いていきたいと思った。

 だからこそ今、疾風は依月山に来たのだ。それが燈の頼みだから。彼女の傍で頑なに守るよりも、燈の望みに近づける助けになるのなら。


「それでもま、多少は心配だけどな」


 最後に心にこびり付いて離れない恐れを軽口で無理矢理吹き飛ばし、祭祀舞台の後ろの洞窟に入る。灯篭で飾られた泉を半眼で睨みつつ、奥の岩戸を押し開けた。

 久々に訪れた「詠姫供養の庭」は、耳が痛いほどの静寂に満ちていた。

 かつて不気味なほどに紅い彼岸花が咲いていた庭は、今は名も知らぬ雑草が細い葉を揺らしている。今日は望月。空を満たすほどの月光に照らされながら、疾風は生温い春の終わりの空気をかき分けていった。と、その足がぴたりと止まった。


 石碑の前、眩いまでの月光を背にひとりの男が佇んでいる。


 恐らく、あれが寅彦とらひこだろう。短い髪。長い手足。がっしりとした体型が遠目からでも分かる。背丈は疾風の頭ひとつふたつは高く、腰に優美な大太刀を佩いていた。

 気配を消して寅彦を観察していた疾風は、ふっと溜め息をついた。


(今日は殺しに来たんじゃない。話し合いに来たんだ)


 僅かな緊張を殺すように、普段よりも大股で近づく。寅彦はすぐに気づいた。


「お前が疾風か」

「そうですが」


 短い問いに端的に返す。慣れない敬語が不敬に聞こえたのか、周囲を見張る男達が俄かに殺気立った。

 襲いかかってくるかと思ったが、寅彦が片手を上げて制した。


「お前達は戻れ」

「何ですと!?」


 寅彦の物言いに、周囲の兵士がざわつく。しかし寅彦は全く動じず、同じ言葉を繰り返した。


「いいから戻れ。誰も邪魔が入らないよう依月山の周囲でも見張っていろ」


 有無を言わさぬ強い口調に押され、兵士達はしぶしぶ「詠姫供養の庭」から出て行った。

 寅彦は軽く周囲を見回すと、疾風の方に向き直り僅かに目を細めた。


「お前も、この方が落ち着けるだろう?」

「まさかそのために?」


 疾風は訝しむように眉根を寄せる。寅彦はさらににやりと口角を上げ、腰の太刀の鞘を払った。緩やかな曲線を描いた銀の刀身が月光に鈍く光る。


「まあ、邪魔が入らないのは重要だからな」

「俺は話し合いに来たのですが」


 羽織の下に隠した小刀の柄を掴みながら疾風は問う。一方寅彦は、あくまで緩く微笑んだまま。


「俺は、兄上と違って難しいことを考えるのは苦手なんだ。お互い聞きたいことがあってここに来たんだろう? だからさ、一本とった方の話を聞くのはどうだ?」


 これなら単純だろうとふんぞり返る寅彦。疾風はその様子を見ながら、口の中だけでぼやいた。


「俺、そういうの苦手なんだけど」


 疾風が天子様から学んだ剣術は、本来そういう用途で用いるものではない。天子様とは何度か手合わせしたが、あくまで練習。基本的に、面と向かって打ち合うことを想定したものではないのだ。

 だが、と疾風は小刀を引き抜きながら続ける。


「だがまあ……仕方がない。燈の頼みだ」


 燈を思って浮かんだ笑みを意識して消す。手の中の刃を逆手に持ち直し、寅彦の目を真っ直ぐに見つめ直した。

 寅彦も大太刀を順手で掲げ、そうして試合はごくごく静かに始まった。

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