第二十一話 思慕

 月の沈む音も聞こえてきそうなほどの静寂に、ただ二人の男の荒い息遣いだけが響く。

 正眼で太刀を構えた寅彦とらひこが、小刀を逆手で握る疾風はやてを睨む。一方の疾風も低く腰を落とし、今にも懐に飛び込んでいきそうな格好だ。

 気の詰まるような無音の後、先に動いたのは寅彦の方だった。


「はああっ!」


 一声。力強い踏み込みと同時に太刀を繰り出す。巨大な刀身ながら、その動きは俊敏且つ流麗。狙い違わず疾風の身体を両断したはずだった。

 ――が、彼が立っていたはずの場所に残っていたのは、立ち上る砂煙だけ。


「またかよ」


 寅彦が溜め息をつく。その目線を真横に向けた先に、疾風がいた。

 懐に飛び込んでくる疾風を太刀で受け流す。再び、一定の距離を空けて両者が睨み合う。

 この繰り返しを、およそ三十回。何度繰り返しても、二人とも一歩も引かない状態が続いていた。


「お前、なかなかやるな。ここまでやりあって勝負がつかないやつは初めてだ」


 不敵な笑みを浮かべた寅彦に「そうですか」と返しながら、疾風は声に出さずに呟く。


(まあ、お互い様だけどな)


 疾風とて、これほど弾かれた経験は今までにない。攻勢に出た寅彦を避け続けられてはいるが、決定的な攻撃は全くといっていいほど入らない。全て寅彦の太刀の前に弾かれてしまうのだ。

 この状況は、技量が互角であるということ以上に、相性が全く合わないことに問題があった。寅彦の太刀が一対一の打ち合いで真価を発揮する一方、疾風が習った小刀による刀術は基本的に無合。打ち合いなく、鍔迫り合いもなく、一刀のもとに切り捨てる。どちらかというと暗殺に用いられる技術だ。

 皇族も含め、普通天羽あまはの貴族の家にはその家に伝わる武術というものがある。基本的には剣術と弓術で、一子相伝。しかし、それらの殆どは形骸化した儀式的なものだ。身分が高く、剣術にも秀でた者というのは天子様ぐらいだろう。

 その天子様も、皇族に伝わる剣術が暗殺術であるとは考えにくい。しかし、この術を疾風に教えたのは天子様だ。どうして彼がこのような術を会得していたのか、教え込まれた疾風も未だ知らずにいた。

 だが、その出どころはともかくとして、疾風が使える技はこれだけだ。打ち合いに不都合ではあっても、これだけでどうにか寅彦に勝たなければならない。勿論、彼を殺すことなく。それがあかりの望みだ。

 燈を思って、疾風は思わず笑みが零れそうになった。出立前、燈は疾風にこのようなことを言った。


『何があっても、どんなことを言われても、決して誰も殺さないで』


 寅彦は勿論、彼の連れた兵が邪魔をするかもしれない。それでも決して誰も殺してはならないと。

 その上で、燈は満面の笑顔で言い切った。


『大丈夫。疾風なら、殺害なんてものに頼らなくても寅彦様と話をつけられるって信じているから』


 そこまで頼られたならば、応えないわけにはいかないではないか。

 まずは、この膠着状態をどうにかしなければ。疾風は密かに懐を探った。


(武士道を重んじる寅彦様に、これは卑怯かもしれないが……)


 もはや、なりふり構っていられる状況ではない。できるだけ早く寅彦の話を聞き、燈のもとに帰るのだ。

 ふと、寅彦の表情が変わった。彼の顔に好戦的な笑みが浮かぶ。


「おっ、表情が変わったな。やる気出てきたのか?」


 どうやら、表情が変わったのは自分の方らしい。疾風は苦笑する。


「そろそろ、終わらせないとと思いましてね」

「奇遇だな。俺もそう思っていたところだ」


 頷いた寅彦は太刀を構え直した。纏う空気がすっと鋭くなる。

 下草が揺れて、止まる。海鳴りのような木々のざわめきすらも遠くなった時。


 「――だから、一太刀で終わらせてやるよ!」

 地響きのような音とともに、寅彦が攻めてきた。


 猛る獣のように素早く力強い動きを、すんでのところで疾風が躱す。

 そのまま背後に回る彼を寅彦が追おうとして、不意にその脚を引っ張られるように身体が崩れ落ちた。


「何?!」


 驚く寅彦。慌てて自分の脚を確認した。そこに巻きついていたのは、糸のように細い鉄線。

 よく見ると、疾風がその端を握っていた。彼は、二人が行き交った瞬間に寅彦の脚に鉄線を絡め、自身と相手の動きを利用して転けさせたのだ。

 鉄線を解くと、脚には傷ひとつない。一歩間違えれば骨の近くまですっぱりいっていたものを、転けるだけに留めるように加減されていたと知り、寅彦の頭にかっと血が上った。

 冬の木立のように立つ疾風に、怒りと羞恥で血走った目で吼える。


「お前、卑怯だぞ! 剣客としての誇りはないのか!」

「生憎、俺は剣客ではありませんからね」


 答える疾風は僅かに疲れた声。だが、不敵に笑って問いを重ねた。


「さて、俺の話を聞いてもらえますか?」


 寅彦は悔しげな瞳で疾風を睨みつける。が、やがて僅かに溜め息をつき、太刀を収めてその場にどっかりと腰を降ろした。


「仕方ない。何でも尋ねるといい。答えられる範囲で答えよう」


 落ち着いた様子の寅彦を見て、ふっと短く息をつく。ようやくここまでたどり着けた。

 次いでこっそり空を見る。東の空には、既に陽が昇っている。どこからともなく響く鳥の声。程なく、燈も辰彦と会う頃だろう。

 短刀を収めた疾風は、ここからが正念場だと改めて気を引き締めた。言葉を選びながら話し始める。


「俺がここに来たのは、燈に頼まれたからです」

「燈っていうと……。ああ、詠姫よみひめ様のことか。足止めでも頼まれたのか?」


 寅彦が問う。やはり、燈と辰彦たつひこの対談のことは知っていたらしい。燈の予想通りだ。大方それを踏まえた上で、話すよりも試合をした方が早いと考えたのだろう。

 侮られていたのは癪だが、勝った方の話を聞くというのは疾風にとっても都合が良かった。何せ、疾風が頼まれたのは足止めだけでは決してない。


「確かに足止めも頼まれましたが、それだけではありません。俺は寅彦様と話をしに来たのです」

「話ぃ?」


 寅彦は不審げに首を傾げるが、疾風は自信たっぷりに微笑んで見せた。朱鷺色の陽光を受け、彼の艶やかな黒瞳がきらりと輝く。


「俺は、燈の目指す天羽を見たいと思っています。彼女はそのために、寅彦様の本音を聞いてきて欲しいと言いました。ですから、教えてくれませんか? 貴方が今、何を思って天子になることを目指しているのか」


 疾風が思うことは、本当にそれだけだ。燈の望みのため。


『だからお願い。依月山いづきやまに行って、寅彦様と話して。寅彦様が考えていることを、なるべく早く教えて欲しいの』


 その言葉を叶えるために、ここにいるのだ。

 僅かな沈黙の後、寅彦は深く溜め息をついた。

 その息に紛れ込ませるように、彼にしては低く小さな声で、一言ぽつりと呟く。


「俺は、たつ兄上が大好きだったんだ」


 その言葉を皮切りに、寅彦は静かに語り始めた。


「幼い頃、些細なきっかけで兄上の部屋に忍び込んだ俺は、それから幾度となく兄上と遊ぶようになった」


 それは、幼い頃を懐かしく語る、糸雨いとさめのように優しく穏やかで少し切ない物語。

 辰彦の龍笛が好きで、聞こえるたびに部屋に忍び込んだこと。「とら」と自分の名前を呼ぶ、優しく慈愛に満ちた声。雨の日に会えることが多かったので、庭に咲いていた竜胆の花を摘んで雨を祈ったこと。霧雨の音が幽かに響く部屋で教えて貰った碁や双六……。

 その語り口はとても穏やかで、しかし酷く悲しげだった。


「たつ兄上はいつだって優しかった。俺は、強くて穏やかで物知りな兄上を尊敬していた。……けれどある日、兄上は俺にもう自分の部屋に来ないように言ったんだ」


 それは、寅彦が何歳いくつの頃だったか。秋雨に木の葉がはらり、はらりと落ちる日のことだった。

 辰彦は訪れた寅彦に、酷く真面目な声で「もうここには来ない方がいい」と言った。


『母上の見張りが厳しくなっている。母上は西の御方を嫌っているから、もしとらが見つかったらぶたれてしまうかもしれない』

『ぶたれるのは嫌です』

『私も嫌だ。だから、暫くここには来ないでおくれ』

『いつになれば、また会うことができますか』


 素直に頷き、問い返した寅彦。辰彦は驚いたように目を見開いた後、いつものように優しく微笑み、寅彦の頭を撫でながら言ったという。


『そうだな……。とらが、強くて立派な男になるまで、かな』


「それから、俺は強くて立派な男になることを考えた。もう一度、兄上と会うために」


 今の疾風には考えられないことではあるが、それまでの寅彦は線が細く気が弱い少年だった。西の御方のいう「武士もののふの道」からも逃げがちであったが、真面目に取り組むようになった。稽古にせいをだし、苦手な学問に頭を悩ませた。全てはもう一度、大好きな兄に会うために。

 けれど、寅彦と辰彦の交流を知らない西の御方は、息子の様子を見て別のことを考えた。


 ――寅彦を天子に推したらいいのではないか、と。


 丁度その頃、りんで大規模な反乱が起き、睹河原とがはらが荒れ始めたころであった。八津原やつはらでは何もしない宮城に不満が募り、武人が政治の中心に立つことを望む声も大きかった。

 そして幸か不幸か、寅彦は武人として非常に優れた才能を持っていた。


「もはや、俺が嫌だと言うことなどできなかった。母上は俺が天子になることだけを望んでいる。他の西家の者もだ。兄上は、宮城で俺とすれ違っても目を合わせなくなってしまった」


 何が間違っていたのか。どうすれば良かったのかも、もう分からない。もう二度と、辰彦と昔のように話すことはできないのかもしれない。それでも。


「それでも俺は、今もたつ兄上のことが大好きなんだ!」


 突然、語り続ける寅彦の語調が強くなった。身を切るような、酷く切ない叫びが「詠姫供養の庭」にこだまする。


「俺は、兄上をお支えしたかった! 天子になんてなれなくてもいい。兄上の言った通り、強くて立派な男になって、この武でもって優しい兄上をお守りしたかった。もう一度昔のように、雨音の響く部屋で兄上とお話したかったんだ……!」


 寅彦の、身を焦がさんばかりの兄への思慕の情を、疾風はただ静かに聞いていた。

 ふと、寅彦が疾風の顔を見つめた。


「なあ、お前と詠姫様は天羽を変えようとしているんだろう?」


 疾風も寅彦を見る。鳶色の寅彦の瞳が、期待と不安を込めて揺れた。


「詠姫様の作る天羽が見たいって、お前言ったよな? そのためにここに来たって。……だったら、俺がたつ兄上ともう一度会える未来もあるのか?」


 その声は、迷子の子供のように拙く震えていた。

 疾風ははあ、と大きく溜め息をついた。


「その未来を、燈は探しているんですよ。辰彦様と寅彦様が仲直りできる未来を」


 二人の父の天子様が、燈に願ったから。

 もしかしたら、天子様は息子達の交流を知っていたのかもしれない。疾風はふとそう思った。今となっては知り得ないことではあるが。


「だったら……!」


 ぱあっと顔を明るくした寅彦を、疾風の冷静な瞳が見つめる。


「けれどそれを叶えるためには、できるだけ早く燈と辰彦様に貴方の思いを伝える必要があるんです」

「兄上にも?」


 疾風は頷いた。恐らく燈も、それが目的だったのに違いない。

 彼女は今、辰彦の思いを聞くために頑張っている。辰彦は、天子になることにとても積極的だという。彼の思いを聞くのは至難の技と想像に難くない。

 だがきっと、寅彦のこの思いは辰彦の心も揺さぶるだろう。対談に間に合わなくても、後になんらかの突破口を作るのに違いない。兄弟の絆は、今もなお続いていると信じられるから。


「どうにかして、今の寅彦様の気持ちを伝えなければなりません。ですが……」

「今俺が兄上に会いに行ったら、対談が滅茶苦茶になるか。そもそも、上手く伝えられるか分かんねえしなあ……」


 何かお前には話しやすかったけど、と寅彦が笑う。一戦交えて本音も話したことで随分と気安く感じているらしい。

 疾風は懐から、懐紙と小筆を取り出した。


「直接話しにくいのでしたら、文でも書いたらどうですか? 俺はどのみち燈のところに戻らなければなりませんので、お届けします」

「そっか、お前詠姫様の付き人だもんな。……じゃあ、頼む」


 寅彦は筆記具を受け取ると、迷い悩みながらも文をしたためた。最後の一文を得意気に綴ると、疾風に手渡しながら言う。


「今日はありがとな。お礼といっちゃなんだけど、来たときに乗った馬貸してやるよ。右翼うよく平原の方に、馬でも通れる近道がある。見張りの方も俺がどうにかしとくから」


 疾風はその申し出には有り難く応えつつも、首を振った。


「礼を言う必要はありません。俺は、燈の願いを叶えただけですから」


 堂々と言った疾風を、寅彦はどこか神妙な目で見つめた。


「お前って、本当に詠姫様が大切なんだな」

「なっ?! なんですかいきなり」


 思わず疾風は顔を赤くした。それを見て寅彦が苦笑する。


「いや、何だか羨ましく思ってな。俺もそうやって、兄上が大切だってちゃんと周りに言えば良かったと思ったものだから」


 そういう寅彦の瞳は、どこか遠いものを見つめるような、羨ましそうなものだった。


「俺、お前のそういうところ尊敬してる。だからさ、もし今の天羽の問題が全て解決したら、また会ってくれないか?」

「ああ、いいですよ」


 疾風が頷くと、寅彦は両手もろてを上げて喜んだ。


「よっしゃ! 次は負けないからな?」


(また試合するのか……)


 そういえば寅彦は、宮城でも武官を捕まえては試合をしていると聞いたことがあった。これでは最早、尊敬とか羨ましいとか関係なく再戦したいだけなのではと疑ってしまう。

 疾風は僅かに苦笑し、「詠姫供養の庭」を出ようとして、ふと立ち止まった。未だ嬉しそうにしている寅彦の方を見て呟く。


「お礼じゃありませんが、俺からも一言伝えておきます」


 突き抜けるような青空の下、疾風が僅かに微笑む。


「今日は仕方がないですが、気持ちはできる限り直接伝えたほうがいいですよ。面と向かわないと分からないことも、きっとあるはずですから」


 素っ気ない言葉は、寅彦を後押しするもの。寅彦は再び「ありがとな」と言って、去りゆく疾風に手を振った。

 眩しい陽光が空より地に満ちる。涼やかで軽やかな風が、それでも力強く二人の背中を押して駆けていった。

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