第十六話 夢桜
「お母様、今までありがとうございました」
瑞希に人々を降ろす前に、燈はお母様に会いに行った。お礼を言う燈に、お母様が優しく微笑む。
「これからも頑張るのですよ、燈」
「はい!」
お母様の言葉に、燈は元気よく頷いた。
「燈」
お母様と話していると、後ろから疾風が現れた。瑞希に降りるための準備をしていた疾風は、既に両腕に大量の物資を抱えていた。
「準備ができた。もう全員降りられる」
「分かったわ。行きましょう」
燈は疾風に頷き、神社に背を向けて歩いていく。ついていこうとする疾風を、お母様が呼び止めた。
「何か用か?」
燈を先に行かせてから疾風が首を傾げる。お母様は彼を見て、くすりと微笑んだ。
「いいえ。ただ、貴方も随分変わったように感じたものですから」
穏やかに目を細めるお母様に、疾風も僅かに口角を上げた。
「俺にも、やりたいことが見つかったからかな」
やりたいことというか、見たいものというべきか。
そう言って笑うと、疾風もまた神社から立ち去っていく。その後ろ姿を、二つの桜花が寄り添うようにして追いかけていった。
*
宿場町のあちこちで明るい歓声が上がる。再びこの地を踏めたことを喜び合う声。
色とりどりの花が咲く春の瑞希で、人々は新たな門出を迎えようとしていた。
自宅を確認したり、物資を運んだり。そんな人々を手伝う手をふと止めて、燈は再び活気づいた町を見る。
「燈?」
隣でしゃがんで物資の仕分けをしていた疾風が、燈を見上げる。燈は町を見つめたまま微笑んだ。
「やっぱり、瑞希は綺麗ね」
瑞希だけではない。天羽はとても綺麗だと思う。時とともに移り変わる姿。四季と人が重なり紡ぐ景色。そこには、いつまでも変わらない真幌月とは違った美しさがある。
穏やかに囁く燈の傍らで、疾風もしみじみと呟く。
「ああ、そうだな」
彼の黒瞳が町を見、燈を見、次いで柔らかく蕩けた。
「燈がいる世界は、いつでも綺麗だ」
その声は遠くに思いを馳せるような、それでいて何かが腑に落ちたような響きをしていた。どこか郷愁のこもった瞳に燈は首を傾げたが、疾風は笑って「何でもない」と言った。
「それより、これからどうするんだ? 暫く瑞希にいるのか?」
疾風の問いに、燈は迷うことなく首を振った。
「いえ、移動するわ。疾風が言っていたことも気になるし」
燈は真幌月にいた時、疾風に不審な話を聞いていた。北の村から出た時、
『宿場町の人も知らない。降りた先の瑞希の人も知らないというのは変だ。そもそも、火災があった
不審に思う疾風に、燈も彼が何者なのか疑問に思った。もし東家か西家の手のものだとしたら、燈の居場所は既にばれている。冬が終わったことで何らかの動きがあるに違いない。さらに、燈は瑞希に降りてから、時々不審な視線を感じていた。悪意は無いようだが、じっと観察するような不躾な気配。
「再び、瑞希や宿場町を荒らさせるわけにはいかないわ。移動して、その場所に皇子様を呼ぶ。天子様がかつて何を思っていたのか、
瑞希を離れるだけではいけない。もう二度と、この町の人々に迷惑はかけられない。しかし、詠姫に戻って天子を決めることもできない。そんな燈が、唯一できること。それは、皇子様やお妃様と実際に会ってとことん話してみることだ。
これは、詠姫の制度を終わらせることにも役立つ。燈には大きな後ろ盾なんてない。有力な人物の協力など得られない。そんな燈が、皇子様やお妃様を納得させることができれば、歪んだ伝承を正す大きな一歩になることだろう。
それに、移動したいのにはもうひとつ理由があった。
「前に、北の村で考えていたことを話したでしょう? あれを実際に始めてみたいと思っているの」
雪の夜に疾風に話した時は、ぼんやりとして輪郭も掴めなかった燈の夢。けれど、少しずつ考えていくうちに幾つかの案が浮かび、大分形として纏まってきたのだ。
これが、本当に天羽の、人々のためになるかは分からない。けれど、少しでも何かができるなら試してみたいと思う。
燈の言葉に、疾風もにっと笑って頷いた。
「よし。夢の実現のために頑張るか」
疾風の言葉に、燈も笑顔で大きく頷いた。
町の人々に配る物資を抱えて歩き出す。未だ不安は沢山ある。けれど、その足取りは自分でも不思議なほど軽かった。
*
町に人々を降ろし、建物の補修や物資の配給も一通り終わった頃、燈は再び真幌月に乗った。
燈と疾風の二人ならば歩いても構わなかったのだが、十数人ほどの人がついてくることになったのだ。
「詠姫様、ついていくことを許して頂きありがとうございます!」
僅かに涙ぐんで頭を深く下げる男性に、燈は微笑む。
「顔を上げてください。私はもう詠姫ではありませんよ。それに、私がついてきて欲しいと言ったのです。礼など必要ありません」
「しかし、こんな爺婆もついていって構わないのですかな」
杖をついた白髪の老婆が重ねて問う。燈はもちろん、と大きく頷いた。
「年齢も性別も関係ありません。誰もが来られる、誰もが自分の居場所にできる場所を目指しているのですから」
太陽のような燈の笑顔を羨望の眼差しで見ているのは、小さな子供、若い男、腰を曲げて歩く老爺や老婆。彼らは瑞希で居場所を失くした人々だった。
燈は天羽に、誰もが来られる避難所のような場所を作ろうと考えていた。居場所を失った人が頼れる場所。傷ついた人が安らげる場所。悲嘆にくれる人が頼れる場所を。
燈に、何がどこまでできるかは分からない。けれど、その場所を作ることが燈の夢を叶えることに繋がると思ったのだ。
「燈のおねーちゃん、これからどこに行くの? 一緒にいてくれる?」
瑞希に降りてからもずっと燈にくっついていた子供達が、不安そうな目で見つめてくる。燈は彼らの頭を撫で、安心させるように優しく話しかけた。
「大丈夫、ずっと一緒にいるわ。もう、怖いことなんて何もないのよ」
そうして、真幌月に乗り込もうとした時、疾風が近づいてきた。
「燈」
「疾風、どうしたの? ……それ、は」
疾風の方を見た燈は小さく息を呑んだ。彼は一頭の馬を連れていた。
人懐こい目をした、青毛の馬。見覚えのあるその姿に目を丸くする。
「秋水?」
その馬は、女将さんに返したはずの秋水だった。彼も燈を覚えていたのか、名前を呼ばれて嬉しそうに鼻面を擦り寄せてくる。
その後ろ、疾風がぼそっと呟いた。
「女将さんが、燈に餞別だってさ」
「え?! ……そう」
疾風の言葉に燈は驚いた。が、やがて静かに目を伏せた。
女将さんとは、真幌月に乗っている時も瑞希に戻ってからも一言も話していない。視線が合うと、気まずそうな顔で逸らされるだけ。燈はそれを、仕方のないことだと思っていたけれど。
柔らかい
(まだ、泣いちゃ駄目)
今は、思い出に浸って泣く時ではない。お母様に散々泣かせてもらったのだから。過去に足を捕らわれず、きちんと自分の信じる道を進んでいかなければ。
けれど、もし。もし、叶うのであれば……。
――願わくば、再び女将さんが笑顔を見せてくれますよう。
心に秘めた小さな願いとともに、人々を乗せた真幌月は霞立つ春の空を渡っていった。
*
大きな期待と一抹の不安とともに真幌月で天羽の空を渡った人々は、降りた直後、言葉をなくして呆然とした。
月光を浴び、煌く春の空気。朧に霞む夜闇に沈む廃屋。所々に見える痛々しい過去の傷跡――。
その全てを包み込み、夢見るように舞う桜吹雪。
天羽最北端の無人の村は、溢れんばかりの桜の花弁に包まれていた。
訪れたことのない人々は勿論のこと、冬景色しか見たことのない燈と疾風もあまりの美しさにほうっと溜め息を吐いた。
「綺麗……」
「村の周囲に生えていたのは、桜の樹だったんだな」
最南端の瑞希では、既に桜の時期は終わっている。しかし、こちらでは今が丁度盛りらしい。
吐息のように感嘆の声を漏らす燈。その背後に、ひとりの少女が近づいてきた。黒い振り分け髪に鮮やかな萌黄の衣を着ている。
「おねえちゃん」
「どうしたの?」
近づいてきた少女の髪についた花弁を取りつつ、燈が尋ねる。少女は子供らしい、きらきらと澄んだ瞳で燈を見上げた。
「おねえちゃんが行きたかった場所って、ここ? ここがわたしたちの居場所になるの?」
少女の後ろでは、ついてきた人々が燈を見つめていた。期待と不安、半々の眼差し。
燈は、花開くように少女に微笑んだ。
「そうよ。ここが、みんなの居場所になるの」
天羽の避難所。全ての人が絶対的に守られる場所に。
今は小さな村でしかないかもしれない。けれど、ここが燈の夢の始まりだ。
もうすぐ陽が昇る。桜花を纏った暖かな風が、暁の方向へ流れていく。
夜明けを待つ人々の顔は、明るい希望に輝いていた。
――これが、後に天羽の尾羽「
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