第十五話 待春

 響く歌声。舞う桜花。花の香を纏い棚引く霞。幻想的な光景に、戸惑い怯えるように一箇所に集まる人々。

 冬空を進む真幌月まほろづきは今、沢山の人で溢れかえっていた。 


「ごめんなさい。でも、危ないところではないですから」


 あかりは安心させるように声をかけながら、ひとりひとり様子を見て歩く。真幌月の中は常に同じ気温とはいえ、衰弱している人も多い。水盥みずだらいの水を変えたり汚れものを洗ったりと、彼女は人々のためにせっせと働いていた。

 その様子を見ていたからだろうか。女将さんをはじめ、燈を非難していた人々も瑞希みずきにいた時以上のことは言わず、気まずそうな目をしてはいるものの黙っていた。

 燈は、女将さん達が自分を非難してきたことを悪いことだとは思わない。きっと仕方がなかったのだ。誰もがこの状況に困惑し、怒りをぶつけられる相手が燈しかいなかったというだけ。燈に原因の一端があるのは確かだし、元通りに落ち着けばきっと女将さん達の接し方も戻ってくれると信じている。今の燈にできるのは、天羽あまはを元通りにするためにできる限りのことをすること。そして、もう二度とこんなことが起こらないようにすることだけだ。


(お妃様達や、皇子様達と相対しなければならない時も近いのかな)


 竿に洗った布を掛けながら、燈はぼんやりと思う。

 どのみち、天子様との約束を果たすためにもいつかは会わなければならない。詠姫よみひめの伝承が偽りだということも話す必要がある。そのためにも、根拠となる資料をなるべく早く集めてしまわなければならないだろう。やることはまだまだ沢山ありそうだ。

 つらつらと考えていると、不意に後ろから頭を小突かれた。


「相変わらず難しい顔してるな、燈」

疾風はやて


 振り返ると、瑞希に降りていたはずの疾風が戻ってきていた。後ろに何人かの人もついてきている。皆泥だらけの手に、様々な物資を抱えていた。

 真幌月は冬でも春のように暖かいが、食料などがあるわけではない。そこで、舟なのであちこちに動けることを活かして、瑞希全体やその周辺から食料や怪我の手当てに必要な物資などを集めているのだ。

 地上の人々との交渉や運搬は疾風に任せている。本当は燈も行きたかったのだが、疾風が「自分にも頼って欲しい」というので任せることにしたのだ。


(私、疾風にいつも頼ってばかりだと思うんだけど……)


 燈は、ここ最近の疾風の様子の変化を不思議に思っていた。いつも明るく笑顔で優しい疾風には変わりない。けれど、北の村の廃屋で語った時から、どこか雰囲気が変わったような気がする。

 燈の疑問に、疾風が気がついた様子はない。今日もいつも通りの笑顔で燈を和ませてくれる。その様子にほっとしつつ、燈も微笑んで話しかけた。


「疾風、今日もありがとう。何か変わったことはなかった?」


 燈の問いに、疾風は少し首を傾げてから言った。


「大したことは無かったな。またどこかから離反した兵士は拾ったが」

「そう……」


 燈は僅かに目を伏せて頷いた。

 宿場町以外でも、動乱のせいで増えた孤児や、宮城や貴人から離反した雇われ兵士を拾っている。疾風は危険だと言ったが、見捨てるわけにはいかなかった。今は、彼自身が密偵ではないか確認することで納得しているらしい。燈としては、結果的に外部と交渉しやすくなり、真幌月に物資を運んでくれる人も増えたので良かったと思っている。

 離反した人は、騒乱の中で家族を亡くした人も多かった。誰もが燈に感謝するのに、彼女は曖昧な笑顔で答えた。

 本当は、こんなこと起こらない方が良いのだから。未然に防げなかったことを悔やむべきなのだ。感謝される必要はどこにもない。

 けれど一方で、「ありがとう」と言ってもらえるのは嬉しく思う。彼らのそんな言葉が、今の燈を支えてくれる。

 このことを疾風に言うと、彼は笑って燈の頭を撫でた。


「燈が頑張っているのは確かなんだから、お礼ぐらい素直に受け取っておけ」


 燈は頭が固いんだからと言われるが、よく分からない。ただ優しい言葉は嬉しくて「ありがとう」と頷いた。

 花の香りを孕んだ風が、ふわりと燈の髪を揺らして流れていった。燈は未だ不安に苛まれる人々を見据え、運ばれてきた物資を抱えて歩いていく。

 

 その姿を、疾風が優しく、どこか誇らしげな目をして見送っていた。


                  *


 動ける人も増え、真幌月がようやく落ち着いてきたころ、燈はお母様に会いに行った。

 お母様は、あの時と同じように神社の前に立っていた。柔らかい風が肩口までの髪を揺らす。薄桃の花びらが、生成きなりの衣に幾つかついている。彼女は目元に優しい笑みを湛えて燈を迎えてくれた。


「よく来ましたね、燈。何て立派になったこと」

「お母様」


 燈は幼子のような明るい笑顔を返し、それからきょとんと小首を傾げた。


「私、あの時から何か変わりましたか?」


 お母様は燈を見ながら、幸せそうに目尻を綻ばせて頷いた。


「ええ、あの時とは見違えるほど立派になりましたよ。……素敵な夢を見つけたのですね」


 そう言う彼女の瞳は喜びと誇らしげな光で満ちている。燈は恥ずかしそうに頬を染めた。

 雪の民家で決意した燈の夢はまだ始まったばかりで、未だ手探りを続けている。宿場町の人々を救おうとしたことだって、そうしなければならないと思ったからしただけだ。それでも、こうしてお母様に褒めてもらえるのは嬉しかった。

 燈は赤くなった頬を指で掻きながら、お母様ににこりと微笑んだ。


「ありがとうございます。でも、宿場町の人々を救えたのはお母様のおかげです」


 燈は表情を正して、真っ直ぐにお母様を見た。深々とお辞儀をする。ありったけの感謝を込めて。


「あの時私は迷ったけれど……。お母様の言う通り、人々を助けるのに真幌月を使って良かったと思います」


 燈は、荒れた宿場町に真幌月が現れた日を思った。

 あの時、燈は町の人々を助けるのに真幌月を使うのを躊躇った。何故なら真幌月は、天子様が亡くなり、宿場町が騒乱に巻き込まれる原因の一因となったものだったから。

 しかし、お母様は燈が真幌月を使うことを望んだ。それで、人々が助けられるのならばと。


『真幌月は、天羽に人々の犠牲がある限り消えません。燈も見たでしょう? 舟の上で安らぐ子供たちを』


 言われて、燈も思い出した。初めて真幌月に乗った時に見た、身体が半分透けた子供たちを。幸せそうな顔をした、七歳ほどの少年少女達。


『あの子達は皆、いらぬ犠牲によって亡くなった人々の魂です。真幌月は前世の燈と疾風の夢。寂しかった「ミツゲ」の心そのもの。そのせいか、天羽の寂しい魂を集めてしまうのです』


 少年少女の姿が本来の姿であるとは限らない。彼らの魂は真幌月に導かれた時、すべからく子供の姿になって舟でその心を安らがせるのだ。それは、言わば偽りの天国。


『天羽で寂しい心を抱いて亡くなる人がいなくならない限り、真幌月は消えません。たとえ燈が降り真幌月がこの形を失ったとしても、誰かが新たな真幌月を作ることでしょう』


 真幌月に沢山の子供たちがいたように、天羽には燈以外にも理不尽に亡くなる人々がいるのだから。たとえ今の真幌月がなくなったとしても、他の同じような願い真幌月を作ってしまうだろうと。

 だからこそ、とお母様は話した。


『だからこそ、


 その言葉は祝福の光に満ち、燈の行く道を明るく照らすようであった。


『燈が抱いた夢は、きっと真幌月に来る人々をなくすことでしょう。いつかは真幌月も消えるはず。そして二度と現れなくなるのです。それはきっと、それほど遠いことではありませんよ』


 お母様は燈がひとつの夢を抱いたことを喜び、その夢が叶うように励ましてくれた。それが、燈は何よりも嬉しかった。


『真幌月が燈の夢の助けになるのでしたら、これほど嬉しいことはありません。いつか消える未来のために、今は躊躇いなく使いなさい。私も、母として貴女の助けになれることを嬉しく思いますよ』


 だから、燈は真幌月を使ったのだ。お母様の話を聞いたから。

 最初は躊躇ったけれど、今は使って良かったと思っている。真幌月を使ったからこそ、これほど沢山の人を助けることができたのだ。

 そこで今、お母様に感謝を言いに来たのだが、彼女は笑って首を振った。


「真幌月のおかげでも、ましてや私のおかげでもありませんよ。人々を助けられたのは、貴女が動いたから。それを忘れてはいけません」


 お母様はそう言うと、おいでなさいと右手で燈を呼び招いた。

 突然のことに不思議に思いながら近づくと、お母様は燈を両腕でぎゅっと抱きしめた。

 あたたかな腕に癒されつつ、燈は戸惑うようにお母様を見上げた。お母様は目を細め、燈の耳元で囁いた。


「燈は頑張っている。それを母は知っています。だから私の前でくらい、泣き言を言ったって構わないのですよ?」

 その言葉を聞いたとたん、燈の中で何かが切れた。


 不意に視界が歪んだ。堰を切ったように溢れる涙に自分で驚く。お母様はそんな燈を胸に抱いて、優しく頭を撫でてくれた。

 本当は燈も辛かったのだ。女将さんに恨まれ、優しかった町の人々に嫌われ、悲しくて仕方がなかった。

 しかし、燈が泣き言を言うわけにはいかなかった。皆が嘆いている。誰もが絶望の底から這い上がろうとしている。ならば、燈が手を差し伸べなければ。それが燈の責任であり、やるべきことであり、夢なのだから。そうずっと思っていた。

 けれど本当は、燈だって泣きたかったし怒りたかった。優しく送り出してくれた人々の態度が急変したことへの理不尽さに、燈が何も知らない内に起きていた悲劇に、大声で喚けるのなら喚きたかった。

 今、燈は温かな母のかいなに抱かれて、初めて押し隠していた思いを表に出すことができていた。それでも声を殺してひっそりと泣く燈に、お母様が優しく声をかける。


「大丈夫。今は泣いてもいい。怒ってもいいのです。燈は立派に歩んでいます。だから、少しくらい休んだっていいのですよ」


 優しい囁きは、耳の底で真綿のように柔らかく蕩けて、燈に更なる涙を促す。お母様の胸に額を強く押し付けて、燈は小さな子供のように鼻をぐずらせた。

 いとけない少女の歌声だけが聞こえる神社で、微かな燈の泣き声が響く。少し肌にくすぐったい生成りの袖で包み込んで、お母様いつまでも燈の背を撫でてくれていた。


 ――誰もが待ちわびる春は、もう目の前。

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