第十七話 萌芽

 霞のような花曇りの空に、柔らかな黄金こがね色の光が満ちていく。

 暖かな春の日差しを受けて、再建されたばかりの工場こうばから出てきたあかりは高く両手を伸ばした。

 燈が天羽あまはの北の廃村を再興させて作った「夢桜ゆらの里」も、既に葉桜の季節。青々とした葉の下、毎日のように人々の笑い声が響いている。

 空へ伸ばした腕を、誰かの手がひょいと掴んだ。


「楽しそうだな、燈」


 顔を上げると、疾風はやてが目元を細めて穏やかに微笑んでいた。どこかの手伝いをしてきたらしい。黒緋くろあけ狩衣かりぎぬの袖は動きやすいように紐で結えられ、長い前髪の隙間から覗く額には、小さな汗の玉が浮かんでいた。


「お疲れ様、疾風」


 指先で汗を拭いながら燈が言うと、疾風は僅かに肩を揺らして笑った。


「いや、俺も楽しいよ。村がどんどん元気になっていくのが分かってわくわくしている」


 それから疾風は、野山を駆け回る子供のような笑顔で今日手伝った場所のことを語ってくれた。伐採した木で、古い家の改築をしたこと。一緒に来たお爺さんが元大工で、久しぶりに金槌を握りながら、建設に適する樹木や漆喰の土について教えてくれたこと。


「建てた家に人が長く長く住むのが、何よりも嬉しいって言っていたよ。そんな家を建てることに再び携われるのが、嬉しくて仕方がないって」


 それは疾風の言うお爺さんに限らず、夢桜に来た全ての人に言えることであった。年老い、身体を壊し、様々な事情で働けなくなった人々。そんな人々が再びその仕事に携わり、あるいは自分では動けなくても、若い人に教えることでその喜びを思い出している。開墾をしながら、水の引き方や田畑に良い土を教える老爺。製紙工場の復旧に伴い、材料となる樹木を山中で探しながら、食用や染料に使える植物を教える老婆。彼らの知識や技術が、元兵士の若者や孤児だった子供達に引き継がれていく。そうしてこの村全体が豊かな姿に蘇っていくのが、燈も何よりも嬉しかった。


「燈は製紙工場を見てきたんだろう? 上手く復旧できそうか?」


 疾風の問いに、燈は微笑んで手招きした。先程出てきたばかりの工場に疾風をいざなう。

 建て付けの悪い木戸がぎいと音をたてる。白木組みの壁は煤を纏ったかのように黒光りし、茅葺きの屋根も僅かに苔が生えている。いかにも古い粗末な建物であったが、屋内に入った疾風は、内部の様子を見てはっと息を呑んだ。


 戸を開けた瞬間に溢れるのは、流れる水の音と木々の香。


 壊れたや網は修繕され、木枠には近くの川から汲んだばかりの冷たい水が湛えられている。並ぶ作業机に山と積み上げられているのは、材料となるまゆみこうぞの木片。それに、にれ糊空木のりうつぎといった粘材となる植物だ。


「凄いでしょう? 村に残された資料をもとにして、沢山の人が手伝ってくれたのよ」


 燈は隅に積み上げられた紙片に手を伸ばしながら、誇らしげに微笑んだ。

 その紙片は、冬にここに来たとき地下室に遺されていた村の資料だった。事細かに記された紙漉きの方法。最上級の紙に用いられる雁皮かりかわが採れないこの地で、より上質の紙を作るためにどのような技術が使われたのか。村独自の色や文様を作り出すための手法など、村がどれだけ素晴らしい技術を持っていたのか細やかに記されている。それはまるで、滅ぼされ忘れ去られていく村で、それでも誰かに故郷の素晴らしさを伝えようとするかのように。


「この村は、もう忘れられた村じゃないわ。形を変えても、確かにここで生きた人々の培った技術わざが、今の夢桜に受け継がれている」


 遥か昔に綴られた文字に込められた思いを受け取るように、そっと指でなぞり囁く燈に、疾風も嬉しそうに言った。


「そうだな。燈が、忘れられた村を再び蘇らせたんだ」

「私だけじゃないわ」


 燈は首を振り、ゆっくりと頭を上げた。その瞳が見つめるのは、光満ちる木戸の向こう。陽が朱を帯び、夕焼けに輝く「夢桜の里」の姿だった。


「村を復興して『夢桜の里』を作れたのは、私だけの力じゃないわ。疾風、お母様、一緒にここに来てくれた人、誰が欠けても成し得ることではなかった」


 燈が紙片を置いて立ち上がる。吹き込んだ風を受けて、艶やかな黒髪がふわりと揺れた。ほっそりとした足を一歩、二歩、軽やかに進めて。戸をくぐる直前、不意にその足がぴたりと立ち止まる。

 それから燈は、僅かに首を回して疾風の方を振り返った。はにかむように少し頬を染め、楽しそうな色を声に灯して囁いた。


「それに、私の夢はまだまだ始まったばかりだもの。やらなきゃならないことは沢山あるし、頑張らなきゃ」


 その笑顔は暖かで眩しくて、疾風も嬉しそうに「ああ」と頷いた。


                *


 数日後、陽が高く昇る頃に、燈は一軒の民家を訪れた。

 その民家には、足の悪い老婆が住んでいた。歩けないが何かと物知りな人で、子供達が毎日のように遊びに行っている。燈も時々、様子を見に顔を出していた。


「こんにちは、お婆さん」

「あら燈様かい? どうぞお入りくださいな」


 戸口で声をかけると、しゃがれてはいるが元気で優しい声が返ってきた。


「もう、『様』はやめてくださいと言っているではありませんか。私はもう詠姫よみひめではないのですから」


 土間で草履を脱ぎながら燈は言うが、奥の間からは呵呵とした笑い声が聞こえるのみ。


「詠姫様であってもなくても、私らにとっちゃ命の恩人で有難い存在に変わりありますまい。ささ、何もないところではありますが、どうぞ奥の居間まで来て下され」


 嬉しい言葉にほんのり胸が暖かくなるのを感じながら、燈は薄暗い廊下を抜けて奥に向かう。日当たりの良い居間の前にさしかかったとき、何やら木がぶつかる軽い音が聞こえた。


 とんからり、たんたん。とんからり。


 一定の調子で刻まれる音に、何だろうと首を傾げながら居間に入ると、白髪の老婆が何か大きな機械の前に座っていた。木枠を組み、そこに細かい櫛のように針金が並んだものが吊るされている。そこに通された糸が、老婆の踏む板によって、手前に規則正しく並べられた糸に組み合わさるようになっているらしい。

 

「これは、織機というんですよ。この家に残されていたので、直してもらって使っているのです」


 燈が興味津津に見ているのが分かったのだろう。老婆は皺だらけの顔を綻ばせながら説明してくれた。


「下の糸と上の糸が組み合わさって、一枚の布を作る機械です。ほら、そこの針金の部分があるでしょう。あれは綜絖そうこうといって、あの本数によって織り方が変わるのですよ」


 老婆の手が、綜絖に糸を一本一本丁寧に通していく。踏み板をとんと踏むと、からりと綜絖が持ち上がって、下の糸と組み合わさる。それから糸を巻いた竿さおを通し、糸と糸の間がしっかりと締まるようにたんたんと打ち込んでいく。


 とんからり、たんたん。とんからり。


 繰り返し響く音は、ゆったりとしてどこか懐かしく、燈はうっとりと聞き入った。老婆は織機を動かしながら、どこか間延びした昼下がりの陽光のような声で話す。


「昔から、天羽の女は母に織機の扱い方を教わって育ちます」


 それは寝物語のように、あるいは唄のように緩やかに紡がれる言葉。


「母から娘へ。その娘が我が子のための衣を織り、その手業が次の世代へ受け継がれていくのです」


 古くから織物が盛んだった天羽では、各々家の女性達が自らの技術を競ってきたのだという。その技術は今日まで大切に継がれ、今も様々な文様の織りが編み出され続けている。


「私には子がいませんが、ここに遊びに来てくれる子供達に織ってあげようと思いましてな。老いぼれてできることも少なくなりましたが、ここに織機が残されていたということは、きっとこういう宿命さだめだったのでしょう」


 そう語る老婆の顔は、終始柔らかな笑みを湛えている。まるで、ここで自分にできることが見つかって嬉しいというように。

 燈は老婆の語った話を少し考えた。いにしえから続く技術。大切に大切に受け継がれてきた伝統。歪む伝承もあれば、形を変えず残されてきた文化もある。そのことを。


(私は、歪む伝承を厭い、それを打ち砕いて新しい風を呼び込もうとしているけれど)


 愚かな人の考えで歪む伝承がある一方、変わらず在り続ける伝統も存在する。そのことを、燈はとても嬉しく思った。


「燈様が着ていらっしゃるのも、そんな衣なのでしょう?」


 不意に老婆の瞳がこちらを向いた。燈は、尋ねられた言葉の意味が分からずきょとんと首を傾げる。彼女は織機から手を離し、燈が着ている衣を指で指し示した。依月山いづきやまに旅立つ時に女将さんに貰った、中紅花なかくれないうちぎを。


「とても上品で繊細な袿。中紅花の色も、どうしたらそれほど鮮やかな色が出るのか。きっと燈様のお母様が大事に作られたに違いありません」


 燈は、羽織った袿の袖にそっと触れてみた。あの時女将さんと交わした会話が、再び鮮やかに耳に蘇る。



『燈に、これを着て欲しいと思ってね』



 力強く、優しく励ましてくれた女将さんの言葉。優しい笑顔。

 気を抜けば溢れそうになる涙を堪え、燈はゆるゆると首を振った。


「いいえ。これは、私のお母様が織ったのではないのです。……けれど、母のように慕った方から頂いた大切な衣です」


 不思議そうな顔をするお婆さんに、燈は懐かしさと愛しさを込めて微笑んだ。もしかしたら、この袿は女将さんが織ったものかもしれないと思いながら。もう一度女将さんと会って、かつてのようにお話したいと思いながら。

 開け放たれた窓からさす琥珀色の光が、思い出に浸る燈を優しく照らしていた。


                  *


 どうやら、随分長い間話し込んでいたらしい。お婆さんの家から出た時には、既に空の色が茜に変わっていた

 そろそろ自宅にしている家に戻ろうと燈が足を進めた時、少し離れたところから駆けてくる人影があった。


「燈!!」


 現れたのは疾風だった。髪を乱し、息を荒げ、興奮で酷く急いた口調で叫ぶ。


「第一皇子が夢桜に来るらしい! 文書が届いて燈に渡すようにって!」


 大慌ての疾風に対し、燈は話を聞いても顔色を変えないままだった。疾風にも落ち着くように促す。

 やきもきした様子の彼に、燈は至極当然と言った声で答えた。


「知ってるわ。辰彦たつひこ様をお呼びしたのは私だもの」

「何?!」


 疾風は驚くが、燈は頷く。そして、「そろそろ必要だと思ったの」と言った。


「天羽のために、皇子様とは早くお話すべきだと思っていたの。たまたま辰彦様の方から夢桜に文書が届いていて、暫くやり取りをしていたのよ」


 それは、「夢桜の里」を作り始めた頃から交わしていることだった。何通ものやり取りを重ね、ようやく会って話せるところまで漕ぎつけたのだ。

 そこまで説明した燈は、未だ納得のいっていない顔の疾風に向き直った。


「それでね、疾風にひとつお願いがあるんだけど」

「何だ?」


 珍しい「お願い」という言葉に疾風が目を見開く。燈は一瞬言いにくそうに口ごもった。が、一度深く瞬きをした後、再びはっきりと言い直した。



「私が辰彦様と夢桜で会っているとき、疾風には依月山で寅彦とらひこ様と話して欲しいの」

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