第十一話 真幌月
――どこからか、歌声が聞こえる。誰かに聞かせているかのような、幼い少女の声。
その声を聞いて、
「ここが、
呟いた声が、爽やかな風に吹かれて空へ舞い上がる。見上げた夜空には、
霞の向こう、揺れる下草の間を縫うように一本の道が続いている。端が見えないほど、どこまでも遠くへ伸びる道。燈はその道を歩こうとした。
「燈」
不意にぐいっと腕を引かれた。振り返ると、
燈は大人しく疾風に手を引かれて歩いた。正直なところ、疾風が手を繋いでくれたことに安堵していた。この場所は夢を見ているかのように、酷く曖昧な世界に感じていたから。
優しい歌声が響く道を、ゆっくりと歩く。周囲はほとんど木ばかりだったが、所々、前世の村にあったような小さく古い家が立っている。庭には菜園や集められた落ち葉、放り出されたままの竹籠が見え、扉の隙間からは、囲炉裏の火が覗いている。薪の燃える音が聞こえ、美味しそうな食事の香りも漂ってきた。
歩く度に村の季節は変わり、まるで時間を早回しで進めているよう。その中でも、歌声と霞、舞う桜の花弁だけはいつでも変わらない。
不思議そうにきょろきょろと辺りを見回す燈の横を、ふと、数人の少女が駆け抜けていった。燈は思わず足を止めた。
その少女達は体が半分透けていた。
少女達は燈を特に気にした様子はなく、楽しそうにくすくすと笑いながら駆けていく。よく見ると、あちこちに似たような少年少女がいた。
彼らは皆、七歳ほどの子供に見えた。誰もが幸せそうに、安らいだ表情をしていた。数人で走り回ったり、下草に寝転んだり、思い思いのことをして過ごしている。
燈は歩きながら、暫く彼らの姿を見ていた。彼らは誰なんだろうとぼんやり思う。
(もしかして、天子様の資料にあった子供達と関係があるのかな)
お祭りをしていた子供達。古くは七歳だったという
長い道の果てにあったのは、古く小さな神社だった。
「この神社、もしかしてあの村のものと同じ?」
声には、驚きと当惑の調子が含まれていた。それもそのはず、その神社は前世の燈が神主と過ごした神社と瓜二つだったのだ。
少し苔むした石造りの鳥居。幼い頃は怖かった阿吽の狛犬。神主と二人で掃除をした石畳の参道。何もかもが記憶に残る神社と変わらない。
鳥居をくぐり、記憶に残る道をゆっくりと歩く。手水舎を横切り、紅い提灯が揺れる楼門を抜けると、拝殿の前に一人の女性が立っていた。
「神主様!」
燈は喜びの声を上げた。絶対に神主だ。優しい微笑みも、
けれど、神主とそっくりの女性は静かに首を振った。
「違いますよ。私は神主ではないと言ったでしょう? 私は、彼女に似せて作られたに過ぎません」
燈は首を傾げた。言っている意味がよく分からない。
「作られたってどういうことですか? いったい誰に……?」
女性は慈愛に満ちた表情で微笑んだ。
「貴女ですよ、私の母であり愛しい娘。私も、この舟も、貴女と彼の願いが作ったのですよ」
「私……?」
女性だけでなく、真幌月も燈が作ったのだという。「願い」とはいったい、どういうことなのだろう。
女性は詠うように言葉を続ける。どこか悲しそうな表情で。
「真幌月は夢の舟。……この舟が作られたのは偶然のこと。偶々、貴女の絶望と強い願いが生んだのに過ぎません。けれど、確かにここは貴女の理想として、そして私は貴女の母として生まれたのです」
優しいのに、憂いを帯びた表情はあの時の神主を思わせた。
「私は神主ではありません。彼女は、既に誰の手も届かない場所に行ってしまった。私は紛い物に過ぎないのです。それでも、私を貴女の母にしてくれますか?」
その声は、怯える子供のように不安に満ちていた。燈は女性に近づいて、そっとその手をとった。
「私の母になってくれてありがとうございます、お母様」
あの時、神主が願った言葉。多分、ずっと燈も言いたかった。大切に育ててくれた神主に、ありったけの愛と感謝を込めて母と呼びたかったのだ。
目の前の「お母様」は、神主ではないという。でも、それでもいいと思った。まだ作ったとかそういう話はよく分からないけれど、彼女が燈の母であるというのならそれでいい。
「お母様、聞いて。私も名前ができたのです」
固まったままのお母様に燈は微笑む。さながら、母に甘える娘のように。
「私の名前は、燈です。そこにいる疾風につけてもらったのですよ」
大切な人にもらった宝物を、もうひとりの大切な人に告げる。
「神主様に言われたとおり、大切な人から名前をもらいました。だから、お母様も私の名前を呼んでくれませんか?」
貴女は神主様ではないのだから、私の名前を呼べるのでしょう?
そう言うと、お母様は目に涙を浮かべて言った。
「燈……。とても、いい名前ですね」
愛しげな声は耳にくすぐったく、幸せな音がした。燈は遠くにいる神主にもこの思いが届いているといいな、と思いながらお母様の甘やかな愛を享受していた。
*
ひとしきり母娘の穏やかなひと時が流れた後、燈はもう一度お母様に問いかけた。
「それで、私が真幌月を作ったってどういうことですか?」
お母様は少し目を伏せた。
「正確には、燈とそこの烏だった少年の想いが混ざってできたのです。何の神様の悪戯か、燈の強すぎる絶望が引き起こしたのか。千年も昔、貴女が贄として死んだ直後、真幌月は突如として現れました」
真幌月は、燈が神主に聞いた伝承そのままの姿で生まれた。内部に、記憶の中の村と家、神社、燈の願いと理想を包み込んで。
「燈は千年もの間、この神社の奥でずっと眠っていました。優しい夢に包まれて、現世の辛い出来事など何もかも忘れたまま」
それはさながら、
「私も暫くは、このままでいいと思っていました。貴女が辛いことを忘れて安らげるのなら、このまま眠り続けたらいいと」
いつか、嘆きと絶望で酷く疲れた心が癒されて、新たな世界で目覚める時が来るまで。真幌月は現世の人々を驚かせたけれど、何も影響を与えるようなことはしないのだから。
その認識が変わったのは、「詠姫」なるものが現れた時だった。
「時の権力者達は、あろうことか詠姫を生贄にし始めたのです」
きっかけは、子供が爆発的に増えたのに対して酷い飢饉が続いたことだった。少女達を神様への捧げ物として贄にし、食い扶持を減らそうとしたのだ。
「その象徴が真幌月になったせいで、生贄の伝承だけが現代まで続いてしまったのです」
お母様は悩んだという。母として娘のせいで生贄になる子供が増えたことは見過ごせない。燈を起こし転生させない限り真幌月が消滅することはないが、転生した先で娘に再び辛い思いをさせるわけにはいかない。今度こそ幸せになってほしい。それが母親としての一番の願いだったから。
「そんな時、貴女のよく知る天子が現れたのです」
その時、天子様も悩んでいた。天子様は先代の詠姫の「終演の儀」を終えてすぐの頃、偶然にもかつて詠姫が七歳の娘だったことを知ったのだ。
若くして帝位についた天子様が真幌月に捧げた詠姫は、この時三人目。生贄の儀式を見るたびに胸を痛めていた彼は、何か犠牲のない方法で真幌月を鎮められないものかと探っていたらしい。
詠姫の名鑑に三百年前の記録がないことを知った天子様は、それ以前の詠姫が七歳の娘だったことを知り疑問を持った。詠姫は「唄と舞が上手な少女」。いくらなんでも、七歳の幼い娘には務まらないだろうと。
それから古い資料を探していった結果、真幌月の真実にたどり着いたのだ。
しかし、その時天子様は新たな詠姫を任命しなければならない立場にあった。真実を知った以上、もう詠姫を贄にすることはできない。だが、詠姫の制度を廃止したくとも古い伝承は人々の心に根深く絡みつき、とてもすぐにできる状況ではなかった。
そんな天子様に、お母様が声をかけたのだという。
『いつか詠姫の制度を廃止すると約束するならば、私が協力しましょう』
真幌月に住まう概念であるお母様が協力すれば、より正しい事実が得られる上、説明するのにも説得力が増す。天子様にとっては願ってもいない申し出だった。
問題は、やはり次期詠姫のことだった。お母様が協力してもすぐに制度を廃止することはできない。天羽の有力者を中心に味方を増やし、ある程度外堀を埋めなれば、賛同を得られるはずがなかった。
悩む天子様に、先に提案したのはお母様だった。
『いくつかの条件を呑むのであれば、私の娘を一時期詠姫にすることを許しましょう』
彼女が出した条件は二つ。
一つは、娘を我が子のように沢山の愛情を注いで育てること。
もう一つは、娘と一緒にいる少年を彼女から絶対に離さないこと。
この二つを守れるのであれば、真幌月で眠る燈を現世に降ろして詠姫にしてもいいと言ったのだ。もちろん、彼女が「終演の儀」を迎える前に詠姫の制度を廃止するのを前提とした上で。
『何故、そのような面倒なことをするのだ?』
天子様はお母様にそう聞いた。もちろん、天子様にとってだけであれば、何もかも解決する方法であると知っているのにも関わらず、だ。
詠姫は普通、上流階級の貴族や政治に強い権力を持つ者の娘から選ばれる。彼女たちは詠姫になる前からきめ細やかな教育を受け、詠姫になることの意義と覚悟をしっかりと教え込まれる。勿論生贄になることも最初から知っているし、それを当然のことと思っている。
そんな彼女たちを詠姫にし、その上で伝承は間違っていたから贄にならなくてもいいと言ったらどうなるのか。死ななくていいことは嬉しいだろう。しかし、その覚悟は、背負った期待は全て霧散してしまう。それをどう思うのか。
一方、お母様に言われた娘を詠姫にするのは容易い。捨て子を詠姫にすることは前例がないとはいえ、真幌月のお告げだと言えば信じない者はいないだろう。その娘は何も知らないのだから、贄となることは伏せて教育したところで問題はない。お母様の出した条件も、多少無理を通す必要があるが些細な問題だった。
しかし、お母様にとって自分の娘を詠姫にすることに利点はないのではないか。天子様はそう考えたらしい。
だが、もちろんお母様にも思惑はあった。
「不思議そうな顔をする彼に、私は、今度こそ燈に幸せになってほしいからと言ったのです」
燈は疾風と離れることなく過ごせ、一時的なものとはいえ天子様の愛情をきちんとお母様が約束できる。何より、燈が生んだ真幌月による悲劇を、燈がその外に出ることで終わらせられるのはとてもいいことだと思ったのだ。
「そして、私たちは契約を交わし、天子は貴女達がいた庵に資料を集めて、真幌月の私と定期的に情報交換していたのです」
それが、天子様が頻繁に
燈は呆然とした声で呟いた。
「じゃあ、天子様は、真幌月の本当の伝承を人々に伝えようと……?」
人知れず、燈にも教えず、日々調べていたというのか。
きっとそうなのだろう。だから、庵の資料は整頓されず山と積んであったのだ。だから、天子様の無数の書き付けが散乱していたのだ。
「俺が燈を詠姫にしたことを聞いた時、天子様が詳しく話さなかったのもそういうことがあったからなのか……」
疾風の声も驚愕と納得がこもっている。燈は驚きと混乱で固まった思考のまま、ぼんやりと天子様のことを考えた。
いつも憂いを帯びた天子様。優しいのに、どこか悲しそうだった天子様。彼はきっと、自分が犠牲にしてきた詠姫のことで嘆いていたのだ。もう少し、あとほんの少しでも早く真実に気がついていれば、贄となった少女を救えたかもしれないのにと。
(そんな悩みを抱えていても、天子様は私に優しくしてくれた)
天子様は、真幌月を作ったのが燈だと知っていたはずだ。お母様が言っていなくても、天子様なら気づいていたはず。燈が真幌月ができた元凶だと知っていて、それでも燈に沢山の愛情を注いでくれた。
「天子は私が思っていた以上に良い人でした」
燈の考えていたことに気づいたのか、唐突にお母様がそう言った。
「燈を幸せにすために詠姫にしてもいいと言った時、彼は驚くべきことを言ったのです」
『では、全てが終わり詠姫の制度がなくなったならば、正式に貴女の娘を我が養女にしよう。ほかならぬ貴女の願いだ。必ず余の手で幸せにしてみせる。そう約束しよう』
天子様の言葉を聞いた燈は、思わず両手で口を押さえた。記憶に残る声で今まさに告げられたかのように感じた。息が詰まるほどの胸の苦しさに涙が溢れそうになる。
(だから、天子様は私に皇子様たちのことを頼んだんだ)
燈はそう思った。天子様は燈を本当に自分の娘にするつもりだったから、燈にそのことを相談したのだ。天子が詠姫に相談するのではなく、父が娘に相談するために。
燈の様子を見ていたお母様も、どこか懐かしそうな、切なそうな表情をしていた。
「私は、大事な娘を人となりも分からない人物に託そうとは思いません。もちろん契約のこともありましたが、私が彼の心持ちに惹かれていたのも事実。……貴女の様子を見た感じだと、その認識は間違っていなかったようですね」
その言葉に、燈は大きく頷いた。
「はい。天子様は素晴らしい方です。私は、とても大切にして頂きました」
言ったとたん、ぽろっと一粒、涙が燈の頬を滑り落ちた。そのまま止めどなく流れて止まらなくなる。溢れる涙を拭わないまま、燈はお母様にすがりついた。
「お母様、私はこれからどうすればいいのですか? どうすれば、私は」
「真幌月を作ったことを罪に思う必要はありません」
お母様は燈の言葉を遮ってぴしゃりと言った。はっと顔を上げた燈の涙を指で優しく拭う。
「言ったでしょう? 真幌月は偶然がいくつも重なってできたもの。確かに、この舟が詠姫が贄になるのを助長したのは事実ですが、それを貴女が悔やむ必要はありません」
お母様は、燈の頬を掴んで前を向かせた。燈の黑瞳に、お母様の慈愛に満ちた、それでいて真剣な表情が映り込む。
「貴女ができるのは、前に進むことだけ」
それは、母が娘に贈る導きの言葉であり、願いだった。
「天子は不幸な事件により亡くなってしまった。でも、貴女はここに来て、知るべき全ての真実を知ることができた。この後、何をするべきか、貴女はもう分かっているでしょう?」
全てを知った燈が次にするべきこと。それは。
「天子様の遺志を受け継ぎ、真幌月の真実を
燈が恐る恐る言うと、お母様は嬉しそうに微笑んでぎゅっと抱きしめてくれた。
「分かっているならもう大丈夫。燈は進んで行けますよ」
抱擁をといたお母様は、とんっと燈の胸を押した。勇気づけるように。
「歩きなさい、燈。天羽の未来を、貴女の幸せを見つけるために」
お母様がそう言った瞬間、燈と疾風を
燈は離れるのを嘆くように手を伸ばすが、お母様は首を振る。
「真幌月は天翔ける夢の舟。貴女が見た幸せな夢。けれど、貴女はもう夢の世界にいるべきではありません。貴方は
それが見つかることを、私はいつまでも祈っていますよ。
最後にそう静かに微笑んで、お母様は光の向こうに見えなくなった。
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