第十二話 兄妹

 再び目を開けると、そこは依月山いづきやまにある「詠姫よみひめ供養の庭」の庵の前だった。

 あかりは一瞬、真幌月まほろづきにいた時間は全部幻だったのではないかと思った。けれども夢にしては鮮明で、確かめるように疾風はやての顔をそっとうかがった。

 疾風も燈を見て、暫しふたつの目が合う。疾風が溜め息のように呟いた。


「あれは、現実だったのか?」


 疾風も夢のように思っていたらしい。燈は少し首を傾げる。


「私もはっきりそうだとは言えないの。でも、もしあれが全部本当で、お母様が言っていたことが全て真実だとするならば……」


 そこで、燈は小さく息を吸った。紅を帯びた黑瞳に決意の光が灯る。


「私がするべきことは決まっている。真幌月の正しい伝承を広めて、詠姫の制度を終わらせることだわ」


 燈がそう言うと、疾風がにっと笑った。誇らしげな笑顔。


「だな。俺も手伝うよ。燈を贄にされるわけにはいかないし」


 疾風の言葉に燈も微笑む。それから庵の方を見た。


「とりあえず、庵の中にある天子様の資料を整理しましょう」


 庵に散乱したままの、山積みの書物。それらのほとんどは、恐らく天子様が集めたものだ。

 道半ばで倒れた天子様。それでも彼の必死の思いが、この庵の資料に残っている。それを全て引き継ぐのが、燈の一番最初の仕事だと思った。

 時刻はそろそろ夜明け。冷たい空気が庵の中にも入り込み、まだ淡い陽光が塵や埃をきらきらと輝かせる。ずっと眠っていた書物たちは、目覚めの光を受けて書面を煌めかせた。青臭い山の香りに古い墨の匂いが混じる。遠くでとんびが鳴く声のほか、ありとあらゆる音が遠い静謐な時間。庵にはただ、時折書物をめくる音だけが響いていた。

 どれほど時が経った頃だろう。不意に疾風がぴくりと身を震わせた。


「疾風?」


 燈が問うが、疾風は庵の外をじっと睨んだまま動かない。もう一度声を掛けようとした時、疾風が音もなく立ち上がった。


「外で足音がする。誰か入ってきたのかもしれない」


「え?!」


 燈は驚き、慌てて立ち上がろうとする。が、疾風が手で制した。


「俺が様子を見てくる。燈はここにいろ」


 大人しく座ると、疾風が縁側から出て行った。燈はじっとしているわけにもいかず、こっそり外を覗き見る。

 庭に入ってきたのは、どうやら男の人のようだった。質素な鈍色の水干を着た男。

 疾風は警戒した様子で、男の視界に入らないようにしながらこっそり様子を窺っていた。

 一方男の方は、庵からだとよく見えないが、疾風に気づいた様子はないようだった。どこかぼんやりとした足取りで、彼岸花をかきわけながら歩いている。

 ふと、男が足を止めた。彼の目の前にあったのはあの石碑だった。石碑の前で立ち尽くす。そのままどさりとしゃがみこんだ。


 ――次の瞬間、疾風が男に飛びかかった。


「疾風?!」


 燈は思わず飛び出した。男に飛びかかっていった疾風は酷く殺気立っていた。今すぐにでも殺してしまいそうなほど。

 疾風と男の、両方の視線が燈の方を向いた。駆けてくる燈を見た疾風は、仕方なさそうに息を吐くと全身の力を抜いた。張り詰めた殺気がみるみるしぼんでいく。しかし未だ強い敵意は抜けきらず、黒い羽織の袖が男の首根っこをしっかりと掴んでいた。


「燈、庵にいろって言ったろ」


 男が動かないようにぎゅうぎゅうに締めたまま、疾風が半眼になって言う。燈はその迫力に気圧されそうになるが、両足で踏ん張って見つめ返した。


「だって、疾風が凄い殺気を放っていたから……。疾風、この人は誰なの?」


 疾風は躊躇うように視線を逸らしたが、はっきりと言った。


「俺にもどこの誰かは分からない。だが、こいつは『』と言ったんだ」


 燈は驚きで小さく声を上げた。一瞬頭が真っ白になる。


(この人が、天子様殺害の犯人?!)


 ごくっと息を呑み、一度大きく深呼吸をした。激しい拍動を無理矢理静め、努めて冷静になるように自分に言い聞かせる。

 それからもう一度男を見、疾風を見、ゆっくりと瞬いてから言う。


「疾風、この人を掴んでいる手を離して」

「何?!」


 疾風がぎょっとした顔で燈を見るが、燈は冷静だ。少なくともずっと男に苛立っている疾風よりは。


「この人と話がしたいの。このままじゃ何も話せないでしょう」


 燈だって天子様を殺したことは怒っている。この人がいなければ、今も天子様は生きていたと思わずにはいられない。だが、この男を殺したところで天子様は戻ってこない。

 燈は情報を得るために神苑しんえんを出たのだ。断じて復讐をするためではない。天子様の死にはいくつか不審な点があった。彼の話を聞けばそのことも分かるかもしれない。

 何より、何故天子様が死ななければならなかったのか。どうして、この男は天子様を殺したのか。それが、今は一番知りたかった。

 疾風は少しの間逡巡していたが、根負けしたように溜め息をついた。


「分かったよ。ただし、無茶な真似はするなよ」


 そう言って、男を掴んでいた手を離す。どさっと地面に落ちた男は、よろよろと起き上がると燈を見た。


「あんた達、誰だ……?」


 その声に多少の警戒を感じ取った燈は、努めて柔らかく話しかけた。


「初めまして。私は、今代の詠姫の燈。こっちは付き人の疾風です。貴方の名前も教えて頂けますか?」


 名乗ったとたん、男の警戒がみるみる和らいでいく。彼は燈をまじまじと見つめた。


「そうか。貴女がつゆの次の詠姫だったのか……」

「露?」


 聞き慣れない名前に首を傾げると、男が居住まいを正した。


「名乗るのが遅れて申し訳ない。俺は明彦あきひこ。露は俺の異母妹いもうとで、先代の詠姫だ」


 先代の詠姫の兄……?

 燈はお母様に聞いた天子様の話を思い出した。三代の詠姫の「終演の儀」を見届けた天子様。

 思いついた言葉が、ぽろっと口から漏れる。


「貴方が天子様を殺したのは、妹が生贄になったから……?」

「そうだ」


 間を置かず、明彦が頷く。その瞳は真剣そのものだ。


「俺が、八津原やつはらにいる睹河とがの僧のところにいる間に贄にされたんだ。俺は何も知らなかった。両親は詠姫として真幌月の贄になるのは誉れ高きことだと言って何も説明してくれなかった。それが常識だとしても、俺は許せなかったんだ」


 その言葉には、誰にも有無を言わせぬ強い思いがあった。

 燈は何か反発したかった。天子様は詠姫を贄にすることを後悔していた。何か生贄を捧げなくてもいい方法を探していて、ようやく真幌月の真実にたどり着いたのだ。そのことを語って聞かせたいと思った。

 しかし、それがもう何の意味も成さないことも分かっていた。天子様がどんな思いで詠姫を生贄にしていたのだとしても、明彦にとって「天子様によって妹が贄にされた」ことは紛れもなく事実であり、彼にとって天子様は間違いなく悪だったのだ。

 何も言えない燈に、明彦は自嘲するように口角を上げた。


「俺は、一家の出来損ないだった。優秀な兄上に優れるものなど何一つ無かった。俺は家に見放されているんだと、もうずっと前から気づいていた」


 それは、燈に言っているというよりは、自分に言い聞かせているような言葉だった。


「露も同じだった。妾の子で、誰にも相手にされていなかった。そんな妹だけが、俺のことを慕ってくれた」


 貴族の男性が何人もの側室を持つのは、天羽あまはでは当たり前のことだった。正室の子ではない者――特に、身分の低い側室の娘達――が虐げられるのもよくあることだった。


「俺は、天子を殺したことを後悔していない。真幌月なんてなければ、詠姫の伝承なんてなければ、そして、天子が詠姫を贄にする伝統なんて続けていなければ、露は死ななくて済んだんだ」


 燈は俯いた。何を聞いても、何も言い返すことができなかった。確かに、真幌月がなければ、こんな伝承が続いていなければ、彼の妹は死なずに済んだのだ。燈が生み出した真幌月が、明彦の妹の死の要因になったのは確かなのだ。

 その時、燈は理解した。天子様が明彦の刃を避けられなかった理由を。

 天子様は、詠姫を贄にしていたことを後悔していたからこそ、彼の刃を避けることができなかったのだ。明彦は天子様の前でもこのように話したに違いない。恐らく、今以上に怒気をはらんだ口調で。天子様は動揺しただろう。どんなに腕のいい剣士であっても隙を見せてしまうほどに。だからこそ、何も抵抗できずに殺されてしまったのだ。

 動けない燈の前で、明彦はすらりと小刀を引き抜いた。銀の刃に紅い彼岸花の色が映り込む。


「おい」


 疾風が警戒の声を上げるが、明彦は淡く微笑むだけ。


「別に、そこの詠姫に何かしようとは思わないさ」


 彼は抜いた小刀を片手に持ったまま、燈の方を見た。


「その碑文にあったのだが、ここは詠姫が供養されているんだろう?」


 燈は半分以上思考が固まったまま、ぼんやりと答えた。


「そうですが……」

「一体何をする気だ」


 疾風が明彦の刃から視線を外さないまま詰問する。明彦は小刀を両手に持ち直してから言った。


「俺も、これから露のところへ行く。そのために依月山に来たんだ」


「……?!」


 燈は驚いた。待ってと言おうとした。だが、明彦は首を振る。


「これでいいんだ。両親や兄上に迷惑はかけられない」


 彼は、とても安らかな表情をしていた。


「俺は、天子を殺したことを後悔していない。これでいいと思っている。だが、俺のやったことが国家反逆の罪に問われることは間違いない。いずれ、俺が天子を殺したこともばれるだろう。そのことで家に迷惑をかけるつもりはない。これは、全部俺が決めてやったことだ」


 そう言って、明彦は最後に燈を見た。


「詠姫、貴女は生きてくれ。露の代わりに。貴女が贄にならずに生きれたなら、俺もそれで満足だ」


 その微笑みは、まるで実の妹に向けるように優しく温かで。そのまま、彼は躊躇いなく自分の胸に刃を突き立てた。


 ――全ては、一瞬のことだった。


 明彦の身体から、真っ赤な鮮血が勢いよく吹き出す。彼岸花よりもなお紅く毒々しい朱餡しゅあんが地に広がっていく。明彦は一度びくりと震えた後、全く動かなくなった。

 燈はその全てを、ただ、何もできずに見ていた。飛び散る血潮が衣にかかっても動くことができないでいた。


「燈……」


 疾風が心配そうに声をかけるが、返事をすることもできない。ただ、先程の明彦の言葉が頭の中で繰り返し響いていた。


『真幌月なんてなければ、詠姫の伝承なんてなければ、そして、天子が詠姫を贄にする伝統なんて続けていなければ、露は死ななくて済んだんだ』


 彼の恨みの篭った声と、相反するような最期の優しい表情がぐるぐる巡る。

 その時、にわかに岩戸の反対側が騒がしくなった。複数の足音が地響きのように聞こえてくる。


「何だ……?」


 疾風が岩戸に近づいて隙間から覗き込む。直後、血相を変えて燈の腕を引っ張った。


「兵士だ! 岩戸のすぐ裏まで来ている!」


 揺すられて、燈はぼうっとした瞳のまま疾風を見上げた。


「もう、泉の方からは逃げられない。反対の道を探す。木に紛れながら下山すれば、天羽の北側に出られるはずだ」


 燈は動かない。焦燥が疾風の背筋を駆け抜けた。神苑を逃げた時と同じ状況だが、今回は整備されてない山道を下るのだ。前と同じようにはいかない。

 疾風は焦った表情のまま燈を抱きしめた。


「お願いだから、しっかりしてくれ! 俺は燈を失いたくない……!」

 その言葉で、燈の瞳に光が戻った。


 びっくりした表情で疾風を見上げた燈に、彼は泣きそうな表情で微笑んだ。


「人が目の前で死んだんだ。混乱するのは分かる。でも、あいつのことは後で考えたらいい。天子様や真幌月のこともだ。今は、とにかく逃げるぞ」


 疾風に言われて、燈は一度だけ明彦の死体を見た。手を伸ばして目を閉じさせ、一瞬目を閉じた。心の中で謝る。


(ごめんなさい。本当はきちんと弔って、沢山謝らないといけないのだけど、今は逃げないといけないの)


 生きるために。そして、燈の責任を果たすために。

 燈はつっと北の方へ視線を向けた。未だ震える身体に鞭打って、しゃんと背筋を伸ばす。疾風もしっかりと手を握ってくれた。

 力強い風が彼岸花を蹴散らしていく。その後を追うように、燈と疾風は北の方へと駆けていった。

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