第十話 真実

 いつの間にか気を失っていたらしい。

 気が付くと、あかりは小さないおりの縁側に寝かされていた。茅葺きの屋根の向こうから綺麗な半月と幾つかの小さな星が見える。どうやら夜もすっかり更けたらしい。

 手をついてよろよろと起き上がる。板間の縁側は硬かったが、敷物の代わりに疾風はやて上衣うわぎが敷かれていた。多分、ここまで運んでくれたのも疾風だろう。

 お礼を言おうと辺りを見回した時、周囲の光景に思わず息を呑んだ。


「……! これ、全部彼岸花なの?」


 庵の周囲は、まるで紅い海の中心であるかのように彼岸花で溢れかえっていた。

 一箇所、庵から少し離れた所に石碑らしきものが見える以外はどこまでも彼岸花しか見えない。ゆらゆらと揺れる花のあかは夜闇の中でも不思議と際立ち、神秘的ではあるがどこか不気味さを感じさせた。

 あまりに鮮烈な紅に思い出したばかりの記憶がまた甦りかけたが、不意に後ろから聞こえた足音が燈を現実に戻した。


「燈、気がついたか」


 振り返ると、疾風が心配そうな目でこちらを見ていた。更にその後ろ、庵の室内には溢れんばかりの書物の山。狭い空間にぎっちりと詰まっており、縁側に寝かされていたのはこれらの本があったからと考えられる。

 燈は、疾風を見て安堵したように小さく溜め息をついた。未だ険しい顔を崩さない彼を安心させようとゆるゆると微笑む。


「疾風、もう大丈夫……」


 そのままお礼を言おうとした。が、疾風の瞳を見た瞬間、不意に強烈な既視感が背中から走り抜けた。、毎日こちらを見上げていた一途な黑瞳。優しく見つめるその瞳が、前世と現世いまの境を曖昧にする。燈はあんぐりと口を開いたまま固まった。纏まらない思考が声となって零れ落ちる。


「もしかして、疾風は……あの時の疾風なの? いつも一緒にいてくれた、あの小さな烏の疾風なの?」


 普通ならあり得ないと一笑するところだろう。だが、とても間違いだとは思えなかった。燈の心の奥深くが、目の前にいる疾風と烏の「疾風」が同じだと言って疑わない。

 疾風は、諦めたように苦く笑った。


「そっか。思い出したんだな」


 そして疾風は今まで見たことがないほど優しく、愛しげな表情をした。まるで大切な宝物を、そっと見せてくれるかのような表情かお


「そうだよ。昔、烏だった疾風だよ。あの時からずっと、俺は燈を守りたかった。助けてくれた燈を、俺にとっての『明かり』だったお前を守るって決めていたんだ」


 その言葉は、切ないほどの愛情と、あたたかな膜で包み込むような優しさだけでできていた。燈は俯いて、ひとつひとつの言葉を大切に噛み締める。疾風は前世の燈を覚えていたのだ。辛く悲しい思い出を、それでも大切に抱えたまま、現世いまの燈の傍にいてくれたのだ。

 燈は顔を上げ、花開くように微笑んだ。


「疾風を支えにしていたのは私の方。貴方が一緒にいてくれたから、あの時の私は寂しくなかったの。もちろん今もよ。……ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」


 燈にとって、前世は辛く、悲しく、忌まわしい記憶だった。今でも思い出すと震えてしまうほど。それでも辛いだけでなかったのは、大切に育ててくれた神主様と、自由に大空を飛べるのにずっと傍に寄り添ってくれた疾風がいたからだ。

 ありったけの思いを込めてお礼を言うと、疾風はそっぽ向いて、少し赤く染まった頬を指で掻いた。燈から目を逸らしたままぼそぼそと言う。


「燈も、ありがとな」


 その場に照れたような、甘くくすぐったい空気が流れた。燈も頬が熱くなってしまって恥ずかしい。話を変えるため、「そういえば」と切り出した。


「そういえば、ここどこなの? 泉の近く?」


 泉を見た瞬間混乱してしまったので、周囲の状況がはっきりと思い出せない。だが今見渡した感じだと、近くにあの泉らしきものは見えなかった。


「泉の向こう側だよ。奥にさらに岩戸があったんだ」


 疾風曰く、泉の向こうが石壁になっており、その向こうがこの場所に続いていたのだという。

 つまり、泉とともに隠された場所だということだ。一体なんのために、このような場所が作られたのだろう。

 燈が不思議に思っていると、疾風が縁側から降り、燈に手を差し伸べた。


「燈、歩けるか? ちょっとついてきてくれ」


 縁側の下に用意されていた草鞋わらじを履き、疾風の手を借りて立ち上がった。そのまま、彼岸花の中手を引かれる。

 辿りついたのは、庵から見えていた石碑だった。表に文字が彫られている。


「『詠姫よみひめ供養の庭』……?」


 呟いてから、まさかと思った。


「まさか、詠姫も生贄にされていたの……?」


 燈の言葉に疾風が頷く。


「恐らくそうだろう。庵にあった書物に『終演の儀』の手順が書かれていたが、そこにも最後に詠姫を真幌月まほろづきに捧げると書かれていた」


 燈は早足で庵に戻った。積み上げられてた書物から、疾風が一冊取り出す。そこには確かに、詠姫が最後に行う「終演の儀」の手順が書かれていた。


「『終演の儀』を行う際は、必ずその代の天子が同席した上で、以下の手順に従うこと……』」


 燈は紐で綴じられた薄紙を捲り、墨でびっしりと書かれた文字を丁寧に読んでいく。

 瑞希みずきを出る前に行われる禊、依月山いづきやまに向かう時に守るべき禁忌、捧げる唄と舞の指定まで、事細かに書かれた書物。その最後には――。


「……『詠姫の身を泉に沈め、祝詞を捧げる。天子の祈りの言葉でもって、この儀式は無事終了したものとみなす』」


 燈は岩戸の向こうで見た泉を思った。恐らく、あれが詠姫が沈められた泉だろう。確かに自分が贄にされた時の泉と似ていると思ったが、本当にそうだったなんて。

 もうひとつ、燈は読んでいて気づいたことがあった。


(『終演の儀』には天子様も同席する必要がある……)


 つまり、天子様は詠姫が儀式の最後に贄にされることを知っていたのだ。しかも、燈が詠姫になる前から天子だったということは、燈の前の詠姫が天子様を承認したということ。それは、少なくとも一度は『終演の儀』を見たことがあるということになる。


(もしかして、天子様が依月山に頻繁に訪れていたことと何か関係があるの?)


 燈が考えこんでいると、突然積み上げられた書物の山が揺れた。


「危ない!」


 疾風に腕を引かれた瞬間、山は大きな音を立てて崩れ落ちた。

 飛び下がった燈は、咄嗟に引っ張ってくれた疾風にお礼を言った。


「ありがとう、疾風」


 それから、散らばった書物の表題を見て目を丸くした。


「これ、全部詠姫と真幌月に関する資料なの……?」


 書物は和綴じのもの、巻物、何枚かの紙を重ねて紐で縛っただけのものと多種多様で、古いもの新しいもの関係なく混ざっている。しかし、全て真幌月や詠姫に関するものであることは共通しているようだ。

 燈はその量に感嘆しながらも、ひとつ不思議に思った。


(こんなに沢山あるのに、何故、整頓されていないのかしら?)


 庵が資料を収めるための場所であることは何となく分かる。国に関わる大事なものなのだから、隠されていて当然だ。しかし、これほど雑多に積み上げられているのは何故なのだろう。資料として保管するのであれば、もっと綺麗に整理されているはずだ。これではまるで、誰かが最近読みあさっていたようで……。


「お、代々の詠姫の名鑑めいかんもあるぞ」


 疾風が声をかけてきたので、燈も思考を止めて散乱している本の一冊を手にとった。厚みのある和綴じの肉筆書。比較的新しい書物のようだ。


「これは良く知られている真幌月の伝承が書かれた本ね。……どちらかというと、儀式よりも伝承や歴史について書いている資料が多いみたい」


 次の書物はと燈が手を伸ばした時、一枚の紙がひらりと宙を舞った。

 古いものも多いからページが外れたのではと手にとったが、どうやら新しいようだ。本の頁とかではないらしい。何気なくその文字を見たとき、燈は目をみはり、小さく息を呑んだ。


「……?!」

「燈?」


 驚きで全く動けない燈を不審に思ったのか、疾風が紙を覗き込んできた。燈は暴れる心臓を押さえ、震える声のまま呟いた。


「この字……天子様の筆跡なの」


「……?! 本当か?」


 驚く疾風に頷く。間違いない。酷く崩れた走り書きだが、これは確かに天子様の筆跡だ。水が流れるような柔らかな筆使いで書かれているのは、たった一文の簡素な文章。


『今の「伝承」が定着してから儀式に大きな変化はなし』


 内容から察するに、「終演の儀」に関する覚え書きのようだ。

 燈は先程、この庵内の資料の様子を最近誰かが読みあさっていたようだと思ったことを思い出した。もしここで資料を読んでいたのが天子様なら、他にもあるかもしれない。

 燈は猛然と資料を漁り始めた。その様子を見て察したのか、疾風も手伝う。

 果たして、更に何枚かの走り書きが見つかった。

 一枚一枚、丁寧に読んでいく。天子様は、真幌月の伝承がいつ、どのようにして成立したのか、詠姫の制度がいつできたのかについて特に詳しく調べていたようだ。無言で読み進めていた燈は、とある一文を読んで思わず声を上げた。


「え……? これ、どういうこと?」

「どうした?」


 他にも紙がないか探していた疾風が、手を止めて振り返った。燈は戸惑いを隠せないまま、その文章を読み上げる。


「『真幌月の“誤った”伝承が広まったのは、今から三百年ほど前であると推定される』……?」


「『誤った』って、どういうことだ?」


 疾風も不思議に思ったらしい。燈はその走り書きの裏に、追加で数文書いてあるのを見つけた。


。詠姫はかつて七歳前後の幼子だったと書かれた書物から、まさかこんな真実にたどり着くことになろうとは』


「『真幌月は神の舟ではない』……?」


 疾風がぎょっとした顔で燈を見た。


「何を言ってるんだ? 真幌月は女神が眠る舟なんだろう?」


 それが、天羽あまはに昔から伝わる伝承のはずだ。邪神となった女神が眠る舟。彼女を慰め、鎮めるのが詠姫の役目。天羽に住む者なら誰もが知る物語。

 燈だって、神苑しんえんにいる時に何度も聞かされた。それを当然と思い、疑ったことなど一度もない。

 だが、かつて天子様が書いた走り書きの紙は、散乱する古い資料の山は、今までの常識を真っ向から否定していく。


「『詠姫の名鑑には、三百年より以前の詠姫は書かれていない』」


 燈が天子様の走り書きのひとつを読み上げた。それを聞いて疾風が手にしたのは、先程の名鑑。


「……確かに、そうだ」


 呆然とした呟き。燈は別の紙を手に取る。


「『五百年ほど前まで、七歳の娘が真幌月に捧げられていた』」

「……事実だ」

「『九百年前は、その年七歳になった子供を集め集団で踊ったり歌ったりする祭りがあった』」

「……事実だ」



「『このお祭りは、千年前に出現した不思議な舟を畏れて始まったらしい。この舟は夜にのみ見られ、淡い光を放つことから「真幌月」と呼ばれる。。舟が現れたのはその娘が「神の国」へ帰った時と記されている』」



「……事実だ」


 苦い顔をした疾風が手にしているのは、どこかに打ち捨てられていたのか、泥にまみれた古い木簡だった。

 燈は、最後に読んだ走り書きをもう一度見た。正確には、そこに書かれた「神の子」という文字を。


 前世の村で、燈は村長に「神の国」へ行くと言われていた。


 更に、村に伝わる子守唄には「神の子」という言葉がそのままあった。それらから導き出される結論はひとつ。


「真幌月から聞こえるのは、『ミツゲ』だった娘の歌声……?」


 その時、上空から若い女性の優しい声が聞こえてきた。


「正確には、貴女が『ミツゲ』だった時の歌声ですよ」


 燈が上を見ると、夜空が眩いばかりに光っていた。真昼の空よりも更に眩しい光。思わず外に飛び出すと、上空に、普段の五倍ぐらいの大きな半月が浮かんでいた。


「これが、真幌月……?」


 淡い淡黄たんこうの輝きは夜空を抱くように柔らかく神秘的だ。そこから聞こえるのは少女の幼い歌声と、慈愛に溢れた女性の囁き。


「よく、ここまで辿りつきましたね」

「貴女は誰……?」


 燈は暫し首を傾げたが、次の瞬間はっと目を見開いた。


「まさか、神主様?」


 聞こえる声は、前世の燈に優しく話しかけてくれた神主と瓜二つだ。まさか、本当に真幌月に行っていたのだろうか。

 だが、返ってきた返事は酷く悲しそうだった。


「残念ながら、私は貴女が知る神主ではないの。私はこの『真幌月』に作り出された概念に過ぎません」

「作り出された、概念……?」


 その時、真幌月の光が一際強くなった。周囲が見えなくなるほど強烈な光が燈を包み込む。


「燈!」


 いつの間に外に出たのか、疾風が燈の手を掴む。慣れたその感触に安堵したが、依然光は強まるばかり。

 再び、女性の声が響いた。燈と疾風の戸惑いを和らげるように穏やかな声。


「大丈夫。これから、貴女たちを真幌月へいざなうだけだから。そこで全て話しましょう」


 そして、燈と疾風は天翔ける月の舟に降り立った。

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