エピローグ

恋愛至上主義の阿呆共へ

 恋愛とは性欲の言い換えにすぎない。もしくは大いなる勘違かんちがいいである。


 恋だの、愛だの、恋愛だのと、うつつを抜かすやからはそのことをよく理解するべきである。


 あの子が好き、という感情は性欲。

 運命の人、という感覚は錯覚さっかく

 もう彼(彼女)しかいないと夢中になるなど愚の骨頂。

 世の中に星の数ほどの異性がいる。もっと余裕を持てばいいじゃないかな(笑)


 ところで最近、童帝である私はとある事情により、恋愛至上主義者が仕掛しかけた大立おおたまわりに巻き込まれる事態となった。


 具体的には言えないが「好きな人に振り向いてもらうために、興味のない人にちょっかいを出して、好きな人の気をく」といった内容だ。簡単に言えば恋の駆け引きというやつである。


 が、その恋愛至上主義者の目論見もくろみは見事に失敗。アンチ恋愛主義の諸君しょくんらにとってこれほど面白いことはないだろう。そしてそれは私とて同じ。いま思い出しても腹を抱えて笑ってしまうほどである。


 しかし一番面白いのが、その恋愛至上主義者がとった行動が、非モテのソレと同じだというころだ。


「好きな人の気を惹くために、別の人にちょっかいを出す」

 

 など我ら童貞・非モテがいかにも思いつきそうなことではないか。


 そしてこの事実は一重に、非モテや童貞をさげすむ恋愛至上主義者の本質など、いくら偉そうにしたところで、結局は我ら非モテや童貞と同じであるという証拠こんきょに他ならない。


 つまり非モテとモテる人間。童貞と非童貞、アンチ恋愛主義と恋愛至上主義を分かつものは、本来存在していないのである。


 にも関わらず、なぜ「さげむ側の人間・さげすまされる側の人間」が誕生するのか。


 それはこの浜ノ浦高校の存在している空気。空気のようにして存在する不文律ふぶんりつが関係しているのだろう。

 それら目に見えないモノこそが、恋愛をしているか否かにより個々の人間性に評価を下してもいいという風潮を産み出しているのである。


 だが、これが許されてよいのか。そんなことが許されてよいのだろうか。否、である。


 聞け、アンチ恋愛主義の非モテよ。自分だけまだ経験がないと落ち込む童貞よ。この際、処女でも構わない。


 廊下をふさいでいる手を繋ぎ歩くカップルに「邪魔じゃおら!」と言えず、黙って後ろをついて歩く。


 階段裏でベロチューをしているアベックに「場所考えろや!」と説教できず、逆ににらみかえされて撤退する。


 授業中にアイコンタクトする彼氏彼女に「視界が騒がしい!」と文句を言えず、消しゴムにシャー芯を突き刺しまくる。


 そんな情けない高校生活のままでよいのか。

 こんな風潮をぶっ壊してみたくはないか。

 恋愛至上主義者のカップルが次々と破局していく姿を見たくはないだろうか。


 そんなことは不可能に思えるかもしれない。だが、その方法を私は知っている。そんな阿鼻叫喚の地獄絵図を作り出す方法を、童帝である私だけは知っているのだ。


 もし、そんな世界が見たいのであれば童帝である私に協力しろ。来る約束の日を待て。


 まあ、結局言いたいことは、アレだ。


 童帝はこの学校の恋愛至上主義の風潮に対し、宣戦布告せんせんふこくする。

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