第10話「火傷の痕」
メアリーは自室で自分の火傷の痕を見ていた。らのや零奈は、メアリーの火傷の痕を見ても何も言わなかった。手袋はしていたけれど、キャミソールだったし、左腕の痕は絶対に見ているはずである。
昔、まだメアリーが手袋をしていなかった頃、ある人間にひどいことを言われた。誰が言ったのかなんて、全然覚えていないけれど、でも、ひどいことを言われたのだけは覚えていた。その汚い腕はなんだ、そんな腕を晒すくらいなら腕を切り落としてしまえ、二度と客を出迎えるな、と。
まだ幼かったメアリーは静かに涙を流した。そいつは泣き出すとは弱い奴だな、と追い討ちをかけたが、すぐにやってきたエルマーによって屋敷を追い出された。それだけでなく、エルマーはそいつが屋敷へ出入りすることの一切を禁じた。それからエルマーはメアリーに白い手袋を買ってやり、メイドの服をすべて長袖に統一した。
そういえば、今日は客が来る、とエルマーが言っていた。
メアリーは袖を伸ばして手袋をした。そのまま玄関のほうへ移動して、スリッパと汗をかいていた時のためのタオルを用意する。それから靴箱の中を確認すると、まだ何足かは入るスペースがありそうだった。
「メアリー、誰か来るの?」
後ろからクララが声をかけてくる。メアリーはちょっとした掃除をしながら、
「ええ、なんでも、この地区の今後がどうたらという話をしに、国のほうから人が来るそうです」
「ふーん、あんまり面白くはなさそうね」
「そうですね」
クララに見られながらメアリーはなんとなく掃除を終え、エルマーに予定を聞いてから一度自分の部屋に戻った。なんとなく髪を整えていると、ドアが開く音がした。
メアリーが走って玄関へ行くと、そこには大柄な男、なんとなく、見覚えがある三十台に見える男が立っていた。
「ようこそお越しくださいました。食堂で、少しお待ちください」
「ん? お前、どこかで見たことがあるか……? いや、気のせいだろうな」
男はそんなことを言いながらズカズカと食堂に入っていった。その目線は、なんとなくメアリーの胸元に注がれていた。
メアリーはなんとなく、そのどこかで見たことのある男に違和感を覚えながらも、エルマーのところへ行く。扉を叩いて、エルマーから返事が返ってきて、ゆっくりと扉を開ける。
「エルマー様、お客様がお見えになりました」
「ああ、今行くから、ワインを一本出してくれ」
「かしこまりました」
お辞儀をして、エルマーの部屋を出たメアリーは地下にあるワインセラーに移動して、ワインを一本持って今度は食堂へ移動した。
テーブルの真ん中あたりにワインを置いて、食器棚からグラスを二つ取り出して、男の前とその対になる場所に置き、それらにワインを注いだ。
「あまりいい酒じゃあないな」
男はそれだけ言ってワインを飲み始めた。
「お待たせしました」
エルマーが扉を開けて入ってきた。
「いえいえ、お忙しいところ恐れ入ります」
男は深々と頭を下げて、スティーブ・フランツです、と名乗った。
「いえ、それでは、今日はなんの御用でしたか」
「ええっとですね、おいそこのメイド、ぼさっと立ってないでさっさと出て行かんか」
「も、申し訳ございません……」
メアリーは頭を下げて、すぐに外に出た。そのときに、エルマーがあからさまに嫌そうな顔をしたのは、スティーブには見えなかっただろう。
話し合いも終盤にさしかかった。メアリーはエルマーに言いつけられ、二本目のワインを取りにいき、食堂に持っていくところだった。
ワインを片手で持って体に押し付けてノックすると、中から入っていいぞ、とスティーブの声が聞こえた。メアリーは扉をゆっくりと開けた。
「早くしないか、それとも、今日の話し合いがお前の所為でなしになってもいいのだぞ」
こんなことをメアリーが言われているときも、エルマーは嫌そうな顔をしていた。
と、スティーブがメアリーからワインをひったくろうとしたとき、スティーブはワインを落とした。
「な、貴様! 私の高級なスーツが汚れたじゃないか、はやく拭くものをもってこい! えい、とりあえずその手袋をよこせ!」
メアリーはスティーブに左手の手袋を取られた。エルマーは、こぶしを握っていた。
仕方なくメアリーは右手の手袋もテーブルに置いて、布巾を取りにいった。
途中サムギョプサルメイドに、こう聞かれた。
「あれ、メアリー、手袋はどうしたの?」
「お客様がワインを取ろうとしたときに滑って落ちてしまって、そのワインがスーツについてしまったのを拭くから、と取られてしまいました。ああ、布巾を取ってこないと」
なんとなく返して、メアリーは布巾を取って食堂へ急いだ。
「ん、遅いわ。さっさとよこせ。ん? なんだその汚い手は。ちゃんと手を洗っているのか? というか、そんな汚い手で客を出迎えようとするのが間違っているんだ、さっさと布巾をよこせ、そしてすぐにメイドはやめるんだな。そんな汚い手を晒すんじゃない」
ガタン、という大きな音がして、そのあとにゴンッという鈍い音がして、何かが倒れるような音がそのあとに続いた。
「な、なんだ貴様! この俺にはむかうのか!」
「人の家のメイドをこき使った挙句? 手が汚いからメイドを辞めろ? 自分でひったくったワインを自分で落としたにもかかわらずうちのメイドの所為にして? いい加減にしろ」
エルマーが激怒した。その顔は、今までに見たことが無いほどゆがんでいた。
「なんだ、ワインを落としたのはこいつがちゃんと持っていなかったからだろう! それにメイドを使って何が悪いんだ!」
「ああ、そうか、思い出した。確か私はお前に十年ほど前に金輪際この家に入るな、と言ったな。ああ、そのときも確かメアリーに同じようなことをいったのだったか」
「なんだ、何が言いたい?」
「今日の話し合いで合意したことはすべて白紙とし、後日別の人間を遣わすように。それから、お前の態度についてはお前のところの本家に報告させてもらう。由緒正しい家の息子がコレとはなぁ……まったく、情けない限りだ。それに、お前はお前の家のほうが上だと思っているようだが、はっきり申し上げよう。こちらの家のほうが上だ。さあ、すっかり忘れていた昔の約束どおり、君には出て行ってもらおう」
一気にいろいろと言われて全く情報が処理できていない様子のスティーブだったが、数秒してから漸く何を言われたのか理解し、そして、メアリーの手を掴んだ。
「は?」
「今すぐこの家を出て行け。これが最後の警告だ」
既に今までに見たこともないようなほどにゆがんでいたエルマーの顔がさらにゆがんだ。
その顔に負けたのか、スティーブは何も言わずに走り去っていった。
「全く、こういう奴がいるからなぁ……」
エルマーは残念そうに呟く。
「ねえメアリー、今日何かあったの?」
メアリーがクララの背中を流しているとき、ふとクララがそう尋ねてきた。
「ええまあ、あったといえばあったのですが、大きいといえば大きい、些細といえば些細なことです」
「ふーん。メアリー、ちょっと左手貸して」
「左手ですか? どうぞ」
メアリーは右手にタオルを持って左手を差し出した。
「うーん、火傷がなければさぞ綺麗だったろうに……」
クララはそう呟いた。
「そうですかね。まあ、火傷がなかったら、なんて考えることもありますけど、でも、この火傷は皆さんにめぐり合わせてくれた火傷ですから……」
「いいこと言うじゃないの。メアリーは、やっぱりメアリーね」
ふふ、と二人は笑いあった。
「たまには私がメアリーの背中を流すわ、交代よ、交代」
「へっ?」
「いつもがんばってくれてるからね、たまには」
そういってクララはメアリーの背後にまわり、メアリーが自分を洗っていたタオルをひったくって強引にメアリーの背中を流しはじめた。
決して上手ではなかったけれど、メアリーはとても嬉しかった。
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