エピローグ  地球の夜明け

 地球へと向かう往還船リターナの中は、あれだけの出来事があっただなんて嘘のようにゆったりとした空気が流れていた。とはいえ無理もない。世界のどこでどんな苦労があろうと、隣人でさえそれには気付かなかったりするものだし、何よりもう半月も前のことになったのだから。

「できれば、最後まで見届けたかったのになぁ」

 旅客機のように四角くデザインされた窓から外を眺めて、洗いたての金の髪を座席に押し付けるライラが言った。窓といっても船体の強度を維持するために、嵌め込まれたディスプレイに外部カメラの映像をリアルタイムで流すことで代用したものだ。

 とはいえ映る物は同じなので、見る側としては普通の窓とそう変わらない。

 今見えているのは、まさにこの半年間昼夜を通して働き続けてきた、モノクロの衛星だった。グレーの濃淡だけで表せてしまう無機質な世界も、あれだけ長い間滞在して苦労を積み重ねれば、愛着の一つも湧いてくる。

「元々の計画通りなんだからしょうがないだろう。むしろ半月もよく粘ったもんだ、一度は救援物資を積んだ着陸船ランダーに復路で連れ帰られるところだったのに」

「それこそしょうがないじゃない。あの時は足が痛かったんだもん」

 今あそこにいるのは第一次、第二次作業団の引き揚げ組と入れ替わりで月面に入った第三次作業団と、第一次、第二次の残留組、あわせて三百名だ。

 『工事のための工事』をする第一次作業団に続き、『生存のための環境整備』までをやるのが第二次作業団の仕事だった。『基地としての余剰機能の設置』は第三次作業団に任せ、月面に慣れた一部の監督者たちを残して第一次、第二次作業団のほとんどは引き揚げる。

 それが、マリウス・ベース計画の本来の予定だった。

 ただしE-7aによって吹き飛ばされた月面地上施設や落石まみれになったチューブ底部を形だけでも復旧させるために、半月ほど帰還は遅れることになったし、負傷者であるライラは逆に足先に地球へと連れ戻すべきではないかという話も出た。

 しかしそこは本人が意地でも譲らず、むしろ再突入時のGが患部に悪影響を及ぼす、現状月環境下で状態は安定しているのでこちらである程度治癒してから帰還したい、などと屁理屈をこねて他のメンバーが帰還する日までマリウス・チューブに居座っていた。

 復旧作業中には仕事など掃いて捨てるほどあったので、片足が使えないライラもソフトウェア関係の点検や、ハードウェアを修理するナシュガルの手伝いをしたりと結局彼女が働いていない日は一日もなかったように思う。

 宇宙に出たい一心でここまでやって来た筋金入りの宇宙愛好家(スペースフリーク)は、ワーカホリックとしても一級品なようだった。

「にしても、よくツヅキはあんな土壇場で『蓋(キャップ)』の下に隠れようだなんて思いついたよね。やっぱり、建設業者としての経験のなせるワザってやつなの?」

「それもあるけど、『蓋』の下はシェルターの候補地としては最初の議論の時から考えてたんだよ。落石が転がってくるのまでは避けられないし、実際転がってきた岩を避けた拍子に通信機器が不調になって他の皆に余計な心配をかけたけどな」

 ハウスFへの再退避が不可能になり、真っ当な避難指定地への退避ができなくなった時、最後に頭に浮かんだのが『蓋』の真下への退避だった。

 マリウス・チューブの岩盤ほとんどが調査済みだったが、その調査済みの岩盤に亀裂があったのだからどこにいようと安心はできない。そんな中で唯一信頼できる構造物が、ハウスFとは反対の側にあった『蓋』だった。

 『蓋』は一枚につき十二本の固定杭と金属環で、強固に岩盤に据え付けられている。

 たとえ一部の岩盤が崩落したとしても、平面積にして八十五メートルの支持範囲が丸ごと落ちない限りは問題ない。そしてそれほど大規模な崩落が起きるのならばどこに隠れてもそう変わりはないのだから、『蓋』の直下は、壁が無いことを除けば最も優秀な隠れ家とも呼べるのだった。

「それにやっぱり、自分たちの手で造ったものだからな。マリウス・チューブは自然のなりゆきが生み出したもので、別に中にいる人間を守るために作られたわけじゃない。けど、『キャップ』は何があっても絶対に落ちないように何十人もの建築工学者が頭を捻って設計されてる。どうせ運を天に任せるなら、最後は自分たちの造ったものに運命を委ねたいじゃないか」

 そんな崖っぷちの状況下での悲愴とも言える心情を聞いたライラは、

「……なんとなくわかってたけど、実はツヅキってロマンチストよね? しかも、かなり可愛い感じに」

 と切り捨てた。

 二の句が継げずに固まっている僕に、ひとしきりにやにやと笑顔を浮かべて、それから彼女は急に改まった態度になった。

「ありがとね、ツヅキ。わたしと、わたしの大事なものを助けてくれて」

 大事なもの、というのは彼女の夢であり、同時に人類の夢なんていう冗談みたいに壮大なもののことだろう。

 そんな得体の知れないものを助けたつもりはない、と言うこともできた。しかしあの瞬間、ライラの言葉を変えさせたのは、彼女自身がその途方もない夢を諦める姿を見たくなかったからでもある。今更否定するのも格好がつかなかった。

 なので代わりに、ずいぶん長い間放置していた問題に挑戦してみることにする。

「できることをやっただけだ、礼を言われるようなことじゃないさ。……いや、そうだな。一つだけ頼みがある」

「なに?」

「ファーストネームで呼んでくれ。ずっと気になってたけど、今更言い出しにくくて」

 目を丸くしたライラが今に笑い転げるのではないかと戦々恐々していたが、意外にもその反応は思ったよりもずっと大人しいものだった。いや、まぁ、肩は震えていたが、そのくらいは許容範囲内だろう。

「ありがとね、ヨウイチ」

 呼ばれたら呼ばれたで気恥ずかしくなるもので、僕は曖昧に頷いて窓の方に視線を戻した。それを見てライラがまた肩を震わせそうになるが、どうもタイミングよく窓の映像が切り替わってくれた。

 月面からの中継映像らしく、月の地平線から今まさに我らが故郷が顔を出そうとしている。

「『地球の出アース・ライズ』か」

 日の出の太陽をそのまま地球に置き換えた天体現象は、やるべきことをやり遂げた今だからこそ感慨深いものがあった。

 宇宙への第一歩は再び踏み出すことができたし、次に繋げることもできた。

あらゆる障害はこれからも現れるだろうが、だからこそやる価値がある。

 とにかく、夜は明けたのだ。

 灰色の大地。岩石と真空に満たされた、停滞の世界から。

 誰もが待ちわびた夜明けのように。


 青い地球が、昇っていた。



 マリウス・チューブ 月は無邪気な夜明けの王女 了

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マリウス・チューブ 月は無邪気な夜明けの王女 蔵持宗司 @Kishiba

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