第11話 不冷の方程式

 ハウスに入ってしまえば少しは落ち着くかと思えば、むしろ逆になった。

 何もすることがない、手持ち無沙汰というのは精神的に辛いものだ。普段と異なり全員が汎用宇宙服ベーシックを身に着けたままハウスの内側に居座っている光景も異様だった。

 どうせ何もできることは無いのだからと、開き直って視界(オーグ)に映画を再生したり耳部スピーカーで音楽を聴いているメンバーもいるようだったが、どうにも僕はそこまでの肝力を持ち合せてはいないようで、とてもそんな気分にはなれなかった。

 あれやこれやと頭の中で思考を巡らせているうちに、一つ良いアイデアを思い付いた。

 まだ外には、ハウスに収容し切れなかったいくつかのフォーアームスが放置されている。

 彼らと無線で接続して、搭載された各種センサー群を借りさせてもらうのだ。

あらゆる現場機材はシームレスのような例外を除き、不要な用途でない限りすべての建設者アーキテクタに自由な使用が認められている。

 またアームズバー総監督からの指示にはすべての活動を中止してハウス内で待機せよとはあったが、ハウス内からの行動を止められてはいない。だからといって今からさらに補強作業を続けようとするのは無茶だが、外を眺めるくらいならば問題はないはずだ。

 フォーアームスの視覚系にアクセスするなんていう発想は今の今まで出てこなかったが、E-7aを自動で追尾し続ける天体観測機器やチューブ構内の記録用カメラへのアクセス権限は解放されている。ハウスGにいるメンバーにも、固唾を飲んで迫りくるE-7aの映像を見つめている者は少なからずいるはずだった。

 フォーアームスのセンサー群にアクセスする傍らそちらも見てみようと、視界オーグに二つ目の窓を開いてチューブ上部の天体観測機器の映像を取得しようとする。

 と、それよりも先に誰かからSNS風のテキスト形式でチャットが送られてくる。

 『凄いね』とだけ書かれた文字の次に添付されたのは映像ファイルで、正確には今取得しようとしていた上部観測系へのリンクだった。

 送り主の名前はライラ・シルヴェン。そういえば彼女もハウスGに振り分けられていたはずだ。といっても、着陸斑と同じく名簿の上から順に振り分けられただけなので当たり前といえば当たり前ではあるが。何しろ、班分けを考える時間も足りなかったのである。

 顔を上げて本人を探そうかとも思ったが、今は目の前の映像を優先することにした。リンクを開くと、リアルタイムで上部観測系が捉えた映像が視界オーグの窓に投影される。

 三十分後に月面に激突して大きな窪地を作るはずの一メートル強の石ころは肉眼ではまだ目視することは困難だが、光学的にズームしてやれば太陽光を反射する黒っぽい岩の塊を詳細に眺めることができた。

 時速一万キロを越える高速で移動しているとはいえ、比較対象がないので速度感は曖昧で、むしろゆっくりと迫ってきているようにも見える。長方形に近いと言えないこともないが、やはりいくつもの硬い曲線で構成された形状は、どこか暴力的な無秩序を備えていた。

 生命や意思持つ存在の痕跡など欠片もない、自然がもたらした脅威。またここが地球であれば分厚い大気の壁に焼かれて消えてしまうのだから、人類が地球の庇護を離れていこうとしたが故の苦難であるとも言える。

 この脅威が人類の歩みを阻むのか、それとも人類はそれを乗り越えていけるのか。それはまだ誰にもわからないことだった。少なくとも、残りの三十分が過ぎるまでは。

 けれどそんな不安は、片手間になりかけていたフォーアームスの視覚系へのアクセスが叶った時に、より大きな違和感によって塗り潰された。

「……なんだ、これ?」

 起動したのは、視覚系の中でも見えない物を見る器官、つまりレーダーサウンダーによる疑似反響定位アクティブソナーのインターフェイス画面だった。 

 『かぐや』にも搭載されていたこの機能は、岩盤の地下に潜り込んだ電波の反射から表層部ならば内部構造までをある程度把握することができる。マリウス・チューブ発見に大きな貢献を果たした影の功労者であり、月面開発機器の多くにも採用されているシステムでもある。

 その反射結果に、違和感があった。

 岩盤表面にレーダーが当たり、反射量が増大する。しかしある地点から急に反射量が少なくなり、それからまた増加する。

 この反応が示しているものはたった一つ。岩盤内の空洞の存在だ。

 今インターフェイスが映し出しているグラフに、レーダーサウンダーの反射量の増減はごく短いスパンでしか発生していない。つまり、岩盤内の空洞は存在したとしてもごくわずかなものでしかないということになる。

 フォーアームスが計測した空洞地点とチューブのマップを重ねてみるが、その地点にかつて空洞が確認されたという記録はなかった。

 あくまで小さいものだから見逃されていたのか? E-7aの落下を待ち、後から充填補強グラウト処置をすればいいだけの、ちょっとした見落としなのだろうか?

 その時、急な衝撃がチューブを襲った。

 だがE-7aの衝突にしては衝撃が弱すぎる。何より上部観測系にはまだE-7aそのものが映っていた。別な要因によるものだ。

 ほどなくして、観測技能職長からメンバー全体にテキストチャットが飛んだ。

 今の揺れはE-7aと同軌道にあった微隕石によるもので、おそらくはかつてE-7aから剥離した破片が先行して落下したのだろうということだった。

 一瞬体に走った緊張を緩め、フォーアームスの視覚系に視線を戻す。

 そして困惑した。

 フォーアームスの視覚系であるレーダーサウンダーは、先程よりも反射量の増減が長いスパンで起きたことを示していた。といっても小さなもので、実際に起きた変化は数センチにも満たないだろう。

 けれどそれは異常なことだった。

 硬い岩盤の内側にある空洞が、何故膨らむのか?

 縮小したのならまだわかる。内部構造そのものが崩壊したり、あるいはどこかから土砂、この場合は月面砂レゴリスが入り込んで空洞を埋めたのだ。しかし、膨らむとは。

 考えて、考えて、そしてあまりの衝撃に叫び出しそうになった。

 とてつもなく恐ろしい発想だが、他に答えなどありそうもなかった。

 これは亀裂なのだ! しかも、今まさに広がりつつある!

 震える指先を空中で揺らし、アイコンをタップして視覚系により広範囲の三次元マッピングを命じる。すると亀裂は上から下に、十五メートル大の岩塊こぶに沿って走っていることがわかった。しっかりと地盤と一体化していると思われていた何十トンもの岩塊が、亀裂によってじわじわと切り離されつつあるのだ。

 しかし何故誰も気が付かなかったのか? というよりも、これだけ大きな亀裂があれば、岩塊自体がとっくに岩盤から剥落していてもおかしくない。

 何故今まで、この巨体は落ちずにいたのか?

 答えはすぐに出た、軽かったからだ。

 亀裂があっても、岩塊の重量を十分に支えるだけの構造強度があれば剥落は起こらない。月の重力の中では、地球ならばとっくに落下しているような岩塊も亀裂を隠してぴったりと岩壁に張りついていることができたのだ。

 侵食作用のない月面で亀裂を深めていったのは、おそらく工事中の様々な振動だろう。少しずつ亀裂は深まり、やがて重力に従い岩盤から離れていこうとする。既に空洞を見分けられる段階にあったのだから、剥落はそう遠い未来ではなかったはずだ。

 それでもそれは数ヶ月以上先の話であり、おそらくはその前にこうした地盤検査によって誰かが発見し、対応策が取られていただろう。

 E-7aの衝突さえなければ。

 微隕石の衝突でさえ目に見えるほど広がった亀裂が、E-7aの衝突に耐え切れるとは到底考えられなかった。E-7a衝突時の衝撃は亀裂を致命的なまでに押し広げ、玄武岩の岩塊を無慈悲に叩き落とすに違いない。

 そしてその真下にあるのは、このハウスGなのだ。

 それ自体は最初からわかっていたことだった――なにしろ一番近い位置にあるフォーアームスにアクセスしたのだから、測定した地盤の座標もハウスGの近くになるに決まっている。予想外なのは、このまま黙って座っていれば僕たちは死ぬ、という結論だけだ。

 頭はとっくに真っ白になっていたが、残った理性が無意識のまま視界オーグのリストから月面総監督オン・サイト・ジェネラルを呼び出した。時間は無い、冷酷なほどに。

『どうした、何かあったのか?』

「フォーアームス十二番機のレーダーサウンダー計測器にアクセスして下さい」

 社交辞令も、前置きも、作業用機械を正式名称で呼ぶことも忘れていた。ただ必要なことを伝えなければならない、という使命感に似た想いだけがあった。

 言葉もまるで足りていなかったはずだが、アームズバー総監督は聞き返さず、『わかった、少し待て』とだけ言った。

 少しの間沈黙が訪れ、十数秒後に総監督が口にした言葉は、

『落ちるのか、これは』

 だった。

 彼の聡明さと鋼のような精神力に、僕はようやく幾分か落ち着きを取り戻した。アームズバー総監督は取り乱してなどいない。たとえどれだけ絶望的な状況下でも、冷静な判断力を持ち続けることのできる人間は存在するらしかった。

「ほぼ確実に落ちます。生存環境維持施設リビング・ハウスの天井は耐えられません」

『君の職責にかけて、そう言うんだな? 恐怖や、その他の感情的な理由からではなく』

月面総監督オン・サイト・ジェネラルから見て、私が発狂しているのでなければ」

 それから数秒ほどアームズバー総監督は何も言わずに黙っていた。

 僕の言動を鑑みて、バイタルの数値も確認しているのだろう。

 じりじりと脳が焼け焦げそうな時間が過ぎて、それから彼は口を開いた。

『……わかった。私の職責にかけて、君は正常で、そして優秀だ。残念ながらな。……最寄りのハウスFへ、ハウスGのメンバーの再退避を誘導できるか?』

「できる、はずです。地上の現場では何度かやりましたから」

『いいだろう。先に私が説明する、それから誘導を始めろ。誰も死なせるなよ、自分もな』

 それだけ言うと、通信は切れた。

 すぐさま立ち上がり、出入り口付近へ目立つように歩き出る。

 アームズバー総監督が全体放送でハウスGのメンバーの指揮権が僕に移譲されたことを話していたが、それを聞いている余裕などはなかった。

 こんがらかりそうになる頭の中で必死に次にとる行動を取りまとめ、声が治まるが早いか、演説台代わりの足場の上に立った。

「今聞いた通り」

 ハウスGの建設者アーキテクタ全員を対象とした、特定グループでの双方向通信チーム・トゥ・チーム

 冷や汗すら出てこない吐き気がするほどの緊張の中で、僕は同僚たちに話を始めた。

「十五メートル大の岩塊が、僕たちの上にのしかかろうとしている。軽量化されたハウスの天井では、まず間違いなく受け止め切れずに押し潰されるだろう。岩盤の亀裂は深く、E-7a衝突の衝撃で岩塊が剥落しないということも考えにくい。だから、僕たちが生き延びるためには隣のハウスに移動しなければならない」

 双方向通信だというのに、他の二十七人の建設者アーキテクタはささやき声すら漏らさない。

 コイツはリーダーとして、危機的状況で従ってもいい相手なのか?

 そう値踏みするような視線が、顔の見えない反射面越しに突き刺さるようだった。

 そんな自虐的な妄想をあえて無視して、言葉を続ける。

「E-7aの予測衝突時刻まで、あと七分。七分もある! ハウスFまでは歩いて行っても間に合う時間だ。全員、焦らずに行ってくれ」

 台を降りて出入り口のロックを物理パネルを押して解除すると、一瞬誰も指示に従わないんじゃないかという空想が頭をよぎり、次の瞬間には一人目がそこを通り過ぎていた。

 再退避に備えてあらかじめ室内は減圧してあったので、開けっぱなしにした二つの扉を二十七人は抜けて行った。まるで散歩でもしているかのようにしっかりとした足取りで、中には僕の肩を叩いたり、親指を立てたり、敬礼したりして出ていく者さえいて、こっちが圧倒されてしまうくらいだった。

 中にはこの半年で知り合った相手も少なからず混じっていたのだろうが、建設者アーキテクタの精神力というのはまったく、どいつもこいつもとんでもない。

 やがて最後の一人が二重扉を歩き抜けたのを確認し、その後に続いた。

 振り返ってみれば、岩塊と岩盤を切り離そうとしている亀裂は今や目に見えてわかるほどにまで成長していた。うっすらと縦に伸びる黒い筋はそうした模様のようにも見えるが、それが何か知っていれば、はっきりと亀裂が走っているのがわかった。

 他のメンバーは早々にハウスFに辿り着きかけていた。落ち着いて歩いていたのは狭い出入り口を抜ける時だけで、広い場所にさえ出てしまえば建設者アーキテクタたちは勝手知ったる月面地下を、跳ねるような動きで器用に進んでいく。

 自らもそれに倣おうとして、ふらついた。

 体が揺れている。違う、足元だ。いいやチューブ全体だ。

 つまりこれは、またもや先行して落下した微隕石による衝撃――。

 そして、より強い衝撃が体を襲った。腹部に誰かからタックルを仕掛けられ、突き飛ばされた。何が起きたのかを把握する間もなく、目の前に灰色の雨が降った。

「ライラ!?」

 尻餅をついたまま、視界オーグに映り込んだパーソナルデータがよく知る相手のものだったことに驚く。それから、自分が微隕石の衝突によって起きた落盤から救われたのだということを理解した。

「ライラ、おい、ライラ!」

 駆け寄ってみると、幸い落盤はごく小規模なもので、亀裂によって支えを失ったレゴリスや岩塊の一部が降ってきただけのようだった。

 崩れた岩の破片と灰色の砂にまみれ、白い宇宙服のライラは倒れ伏している。

『ごめん。反作用でお互い避けられるかと思ったけど、上手くいかなかった』

「謝るのはこっちだ。いや、するのは感謝もか。とにかく助かった、早く引き上げよう。次に衝撃があれば、たぶん落ちるのは岩塊そのもの……ライラ?」

『足、やられちゃったみたい』

 耳を澄ませてみれば、汎用宇宙服ベーシックのマイクは彼女の荒い呼気をも拾っていた。

 そばには一抱えほどもある岩塊の破片が転がっている。右膝を立てて立ち上がろうとするも、左足を起こそうとした途端にびくりと震え、耳部スピーカーからも奥歯を噛み締めるような苦痛のうめきが聞こえた。

 もっと背後に注意していれば、という後悔を覚えるも、何よりも時間が無い。

 負傷の度合いも心配だったがとにかく手を差し伸べて引き起こし、肩を貸そうとした。しかし何故か、ライラはその手を掴もうとはしなかった。

 手を握るほどの気力もないほどに酷い負傷だったのだろうか。しかしそうは見えなかった。骨や関節がダメージを受けたとして、走ることはできなくとも手を借りれば立ち上がることくらいはできるはず……そして、その理由に気付く。

 時間が、もう無かった。

 負傷者を担いで、隣のシェルターまで運びきるだけの時間は。

 ハウスFまでの距離は、他のメンバーのように月面での歩行に熟練した人間が走ってようやく間に合う距離だった。既に衝突までの時間は四分を切っていて、ハウスFから助けを呼び戻したとしても間に合わない。他のハウスや避難先になりうる施設も同様で、むき出しの岩盤の下に立っていてもそこが崩れない保証はない。

 つまりこれは、二択なのだろう。

 二人共が死ぬリスクを背負うか、一人が確実に助かる道を選ぶか、という。

 ありきたりで残酷な、冷たい方程式。

 ライラは顔を上げた。ヘルメットの反射面に遮られ、表情は見えない。けれど彼女の逡巡だけは痛いほどに伝わってきた。

 自分を見捨てさせれば、仲間は助かる。そんな使命感が生み出す甘い誘惑に、英雄願望に、どれだけの人が誘われてきたのか。けれど、違う。今ここでは、それは覚悟などとはとても呼べない。

『……ツヅキ、わたしを置い――』

 そうじゃないはずだ。

 僕が聞きたい言葉は。君が言うべき言葉は。

 諦めの言葉なんかじゃないはずだ。

 口先などで伝わるはずもない、その時間も無い。だから僕は頭突きをするように、ヘルメットの反射面同士を強く打ち合わせた。表情の見えない境界面の、その先を睨んだ。

 死なないのが一番大事だと言ったのは、一体どこの誰だったのか、と。

 生きる覚悟を投げ出そうとしている、建設者アーキテクタらしくもない彼女を叱るために。彼女の瞳と、僕の視線がぶつかる。揺れていたライラの瞳が、大きく見開かれた。

 瞳の奥の決意が、死への誘いに打ち勝ったかのように。

『……っ、お願い、ツヅキ。わたしを、生かして!!』

「ああ! 死なせるもんか!!」

 言われるが早いか、僕はライラの腕を自分の肩に回し、力を籠めて立ち上がった。

 E-7aの衝突まで、残り時間はおよそ二分。

 ライラを連れてハウスFに辿り着くことはできない。

 ライラを見捨てるなどという選択肢もあり得ない。

 だから僕は、ハウスFへ背を向けた。


――そして、音の無い爆発が、月面に突き立った。

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