第10話 マリウス・チューブの狂騒
『資材巡回班! グラウンドアンカー三本、東の外壁用に頼む!』
『三時間前に雨の海に落ちた小隕石の衝撃で、北-5B地点天盤にて二センチ大の亀裂が確認されました。念のため各自担当する岩盤の点検を行い、損傷があれば報告の上、
『なぁ、誰か俺のグローブ知らない? あれが無いと――』
『いいから急げ! 午後二時までに補強と撤収を済ませて、シェルター指定された
その日、チューブは上から下まで過去に類を見ない大騒ぎに見舞われていた。
『蓋』の建造中が最も忙しい期間だったなどといつか思ったが、とんでもない。
申し訳程度の動作補助アクチュエータを全力で稼働させてさえ、重い宇宙服を着て走り回るのは何かの刑罰でも受けているのではと錯覚しそうになるほどの労力を要する。
僕を含めて何十人もの
何しろそれどころではまったくない。疲労で倒れるよりも先に、隕石によってせっかく半ばほどまで築き上げたマリウス・ベースごと全員生き埋めになるかもしれないのだから。
『君、いや、ツヅキ。君は建設技能者だな? 悪いが来てくれ、意見が聞きたい』
『僕は今狂いそうなほど忙しくて、しかも職長の類じゃありませんが。それでもいいんですね? 重要なことなんですよね?』
『もちろんだ。頼む、急いで!』
相手のパーソナルデータを
お互いに礼を失していたとも思うし、
しかし今は、そんな事を気にするつもりにもなれなかった。
足早に進む観測技能職長と連れ立ってフライパンで弾けたポップコーンのように騒がしいチューブ底部を歩き抜けながら、大丈夫、最も重要な指揮系統は乱れていない、と頭の中で念じる。
アームズバー総監督が鉄骨を抱えて走り回るようになったらそれこそ終わりだ、と滑稽なはずの光景を思い浮かべ、けれどちっとも笑いは浮かんではこなかった。
最初にそれに気付いたのは、地球の観測基地だった。
月面での基地建設を支援するために、周辺惑星や近傍小惑星の動きを逐一チェックしているLPAのメンバーが、とある小天体のおかしな動きに気付いた。
それは直径百二十センチ程度の、地球や月から見れば小石のようにちっぽけなものだ。
月の引力に引かれ、隕石の掃除屋とも呼ばれる月がいつものように引き寄せて、身を挺して地球を庇うという感動的なようでありふれたドラマが生まれるはずだった。
隕石自体は、大小を問わず毎日のように降り注いでいる。
どころか、一ミリ級のものならば数十秒単位で落下し続けているくらいだ。
大半は強固な月の裏側で受け止められ、過去に何十万個と空けられたクレーターを一つ増やし、また少し月の裏側にグロテスクさを追加することになる。
この「E-7a」と名付けられた隕石もそうなるはずだった。
ほんのわずかな、軌道の変化が見つかるまでは。
変化の原因は不明だったが、太陽光による揮発性物質の蒸発で重心が変化したためか、あるいは奇跡的に未観測のより微小な小天体と衝突して新たなベクトルが加えられたためだとも考えられた。
いずれにせよ、マリウス・チューブの第一次、第二次作業団に属する
重要なことはただ一つ。
かつて二〇一三年に観測史上最大の衝突爆発を起こし、月面に四十メートルのクレーターを生み出した隕石と同じ規模のサイズの小天体が、それを上回る速度でマリウス・チューブの直上のマリウス丘に迫っているという事実だけだった。
猶予はおよそ三十三時間。
時速約十万キロの宇宙規模の投石を受けて、チューブが崩落せずに済むかどうかは誰にも保障できなかった。
観測技能職長に連れられて底部観測棟へと駆けている間も、すれ違う同僚の数は一向に減る気配を見せない。今のマリウス・チューブには、月面にやってきた
しかしそれは、残念ながら一人一人が奮った勇気の結果などではなかった。
事実、月面北極に滞在していた水生産チームは全員が簡易掘削拠点の
けれどここは灰色の月面で、安全な場所などどこにもないのだ。
『とにかく一度隕石落下の影響圏から離れて、ほとぼりが冷めてからチューブに戻る』
――否。
次の
『
――否。
『月面北極に滞在している十二人の水生産チームの下へ、一時的に全員が押し掛ける』
――もちろん否。掘削基地に置かれた
そうした玉石混交の意見が緊急全体ミーティングにおいていくつも提案され、そのほとんどが五分もしないうちに却下された。
結局、全員がマリウス・チューブ底部の
どれだけ遅くとも衝突の三十分前には全員が退避しているように指示が下され、付け焼刃の衝突対策はアームズバー総監督が最終勧告を宣言した時点ですべて終了される。
ただし当然、衝突直前まで有人無人の観測が月面からも地球からも行われ、何か新たな判断要素がないかを探し続けることになる。この観測技能職長は、観測班の班長として退避限界時間までE-7a小天体と向き合い続けているはずだった。
それを放り出してまで僕を(というか、誰かしらの建設技能者を)呼びに来たということは、それだけ重要な何らかの発見があったのだろう。そう期待していたから、観測棟でその画面を見せられた時、正直、落胆を覚えたのは確かだった。
『E-7aはこのチューブから見て北西の方向へ進みながら接近してきている。再計算の結果、地上の観測斑の予測よりも、落下地点がわずかだがチューブから離れることがわかった! おそらくE-7aは二百メートルから七百メートルほど、チューブの直上を外れた地点に落下するはずだ』
そしてそれ以上の情報は、特に何も示されてはいなかった。
『どうだ、建設技能者の視点から見て。何か状況に変わるところはないか?』
「そう、ですね……シェルターに指定できる安全区域の範囲が変わって、少し増えるかとは思いますが」
『……そ、それだけか』
「ええ、まぁ。今の所は」
『そうか……私も動転しているらしい。余計な時間を取らせてすまなかった』
「いえ、それでも重要なことです。クラウドの避難指示マップを更新しておきますよ」
表面上だけでも取り繕って、消沈する観測技能職長を慰めてからその場を去る。
あるいは本当に、彼の知らせは重大なことだったのかもしれない。
数百メートルの差は衝突エネルギーの分散先をチューブの天井から地下空洞のない岩盤に逸らしてくれるだろうし、後から考えてそのズレが生死を分けていた、ということは十分にあり得る話かもしれない。
けれど残念ながら、建設業者としての構造力学や地盤力学の知識ではその新情報への正しい評価はできそうになかったし、最悪を想定した上での対策をし続けている最中に、少しだけ希望的なニュースがあったからと言って楽観視することはとてもできなかった。
持ち場に戻り、あり合わせの建材で必要とされないはずだった天井を支える支保工を造るのに手を貸し、到底求められるだけの構造強度を作り出せないことに歯噛みする。
災害大国である日本で建設業に携わるということは、大災害をあらかじめ想定しておくということだ。人事を尽くして天命を待つのはいつものこと。だがせめて、最善を尽くしておきたかった。いや違う、今できる限りの最善を尽くすのだ。
〇.一%でもいい、起こりうるリスクを減らしてみせろ。
限界まで、知恵を絞れ。
『E-7a小天体の落下予測時間まで三十五分を切った。そこまでだ。現在進めている作業がある者は撤収作業に移り、五分以内に各自指定のシェルターへ退避せよ。……皆、よくやってくれた』
そんな声が耳部スピーカーから響いた時、ようやく僕は我に返った。
アームズバー総監督の最終勧告。
どうやら最後に
『おい、そこのボルト留めやっといてくれ。こっちもそれだけ済ませたら退避するよ』
「あ、ああ。わかった」
隣にいた名も知らぬ同僚に促され、手元の工具を握り直す。
とにかく、何かをやれる時間は終わったのだ。ここらが潮時だろう。
ボルトを締め、周囲の
容積だけの問題で言えば、限界まで詰めればハウスAだけでも全員を収容することはできる。それをしなかったのは、建材や機材を移せる限りそれぞれのハウスに移したからだ。
これは資材の保護という意味だけでなく、むしろ隕石衝突後への備えという面が大きい。
チューブの崩落、あるいは部分的な落盤が発生した場合、誰かがその下に埋まった仲間を救出しなければならない。そのためには全員が同じ場所に集まるわけにはいかないし、すぐに掘り出すためには、掘削機械が手元になければならない。
そうした意図で資材と人員が各ハウスに振り分けられ、僕は南の端にあるハウスGに振り分けられた。E-7aの衝突エネルギーの拡散を予測した予測円を描き、そこからより離れた南東に近いハウスがシェルターとして指定されていた。
それが気休めでしかないことは、皆わかってはいたが。
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