第9話 『蓋』と、資源と、熱情家


 縦穴ホールの内側である『蓋』の周囲には、鉄パイプで組まれた足場はない。

 ただし掘削するだけなら新しく資材を用意する必要はないので、地表部分を除くと都合四つの円形の通路が、三枚の複合素材板の上と下に作られていた。

 固定用の金属環と同じくぐるりとホールを巡って刻まれた通路は岩盤がむき出しの飾り気もへったくれもない簡素な造りだが、足場としての用は足りる。

 頑強な月の岩はしっかりと足元を支えてくれて、チューブの底へと落下する心配はない。

 ついでにその一角にベンチの一つも置けば、即席の休憩所へと早変わりというわけだ。

 工事の完了後には後々の『蓋』の点検作業にも使えて無駄がない。

 そんなよくできた岩盤通路の休憩所には、どうやら先客がいるようだった。

 視界(オーグ)にパーソナルデータが表れる。と同時に向こうもこちらに気付いて、手を振った。

 こちらに着いてから随分増えた知り合いのうちの最初の一人。

ライラだった。

『久しぶりだね、ツヅキ。三日ぶりくらい?』

「それは久しぶりとは言わないんじゃあないか? ……いや、確かに忙しすぎて最後に会ったのが何時だったか思い出せない。久しぶりだな、ライラ」

 『蓋』の建造工事は言ってしまえば、第二次作業団が担当する月面基地建設工程のクライマックスだ。自然、それをやる間が最も忙しい期間ということにもなる。

 そのせいで疲労にも気付かなかったのだが、わかった上で無理をするならまだしも視界オーグのバイタル表示そのものを見落とすというのは明らかに危険信号だ。

 何か大きなミスをしでかす前で良かったと、胸の内で里美に感謝しておく。

「バイタルの疲労に気付かなくてさ、水原にどやされたよ。総監督の忠告を忘れたのかって。現場での危機管理を本職の俺が忘れてちゃあ世話ないよな」

『あはは、サトミは優しいからね。……うん、大事だよね。死なないことは』

「ああ、そうだな」

 ベンチに腰を下ろし、しばらくは無言で汎用宇宙服ベーシックの内側から伸びた液状食チューブを口に含む。視界オーグと同じように口頭指示で出し入れできるのはありがたいが、動きながらこれを飲むと何かにぶつかった拍子にヘルメットの内側がゼリーまみれになりかねない。

 だからこうして落ち着いた場所で飲む必要があるのだが、ただのエネルギー源ではなく食事であることを意識してしまうと、飲み飽きたマスカット風味にさすがに物足りなさを感じてしまいそうになるのが難点である。

 不意に、小さな疑問が浮かんだ。

 ライラが里美と知り合っているのは知っている。僕が両方とよく話すので、お互いも同じ現場になった時に話すようになったのだろう。

 またライラが未だに僕のことは名字で呼ぶのに、里美のことは下の名前で呼ぶようになっていることも、まぁ仕方がない。同性同士の方が打ち解けるのは早いだろうし、ファーストネームで呼んでくれと言い出す勇気がないのも自分自身だ。

 けれど、それらはさて置くとしても、一つだけ引っ掛かることがあった。

「……なぁ、『死なないことが一番大事』って、何でなんだ?」

 最低十五分。年下の同僚に申し付けられた合理的な休憩時間に対する暇潰しも兼ねて、とりとめのない疑問をそのまま口に出してみる。

 聞きようによっては馬鹿としか思えない言葉でもあったが、ライラはそれを笑うような人間ではない。クローズ・チャットなので、他の同僚に聞かれる心配もない。

 期待通り、ライラは訝しむよりも興味深いといったそぶりで訊き返してくれた。

『ふぅん。どういう意味?』

「いや、現場での事故防止が大事っていうのはわかるんだよ。そりゃあ地上でだってどこだって、人的被害は何よりも避けるべきことだ。安全第一って標語は建築や建設に関わる人間なら全員に染みついてるし、さっきみたいなミスをした時は注意が足りなかったって反省する。……けど、それだけなのか?」

 人命を軽視するつもりはないし、死にたいわけでも、死なせたいわけでもない。

 計画が壮大だからこそ足下を疎かにしてはならない、という考え自体は理解できる。

 けれど、それにしては。

「月面でも地上でも、基本が大事なのは変わらない。安全には常に気を付ける。そういう重要ではあっても、どこででも言われていることを言っただけにしては、妙に言葉が重い気がしたんだ。アームズバー総監督の演説も、それにさっきの君も」

 『死なないことは大事だ』と言ったライラの雰囲気は、少しだけ普段と違っていた。

 アームズバー総監督がそう口にした時にも、責任感というだけではない、何か自分には理解できていない重みがあった。

 こうも忙しい時に訊くことではなかったかもしれない。

 けれど喉に小骨が詰まったまま仕事をするよりは、答えを知った上で仕事に戻りたいと思った。でなければ、また里美に叱られてしまいかねない。

「『死なないことが一番大事』っていうのは、そのままの意味なのか? それとも、他に何か意味があるのか?」

 哲学的なようにも感じられる質問を、ひたすらに現実的な理由で尋ねる。

 ライラはしばし考えるように押し黙って、それから地面に転がる石を拾った。

『ツヅキ。これ、何だと思う?』

 それはどこからどう見ても、ただの石ころだった。

 毎日のように掘り返し、削り、打ち込み、埋め、叩く。どこにでもある月の破片。

 着陸直後は恐怖や感動の対象にもなったが、じきに慣れてしまったもの。

地球の石ころに比べると生成されてからの平均年齢が非常に高く、三十億歳以上のものばかり。高地には斜長岩が、低地には玄武岩が多く存在していて、中にはいくつかの岩石が混ざり合った角礫岩や隕石によって生じた例外的な化学組成を持つものもある。

 そんなLPAで学んだいくらかの知識が脳裏に浮かぶが、どれも気の利いた回答とは思えなかった。苦し紛れに、答えにもならない答えを返す。

「あー……『月の石』?」

 かつて大阪で行われたという万博では、今僕たちの周りじゅうにある何の変哲もない石ころを、そう呼んで大勢の客が詰めかけたという。とはいえ、今だって僕たちがここに来るまでにはとんでもない額の費用がかかってるので、その気持ちはわからないでもない。

 けれど、ライラは首を振った。

『あってはいるけど、それだけじゃない。これはKREEPってやつ。……かもしれない、ってだけだけどね』

「クリープ?」

『そう。カリウム、希土類元素レア・アース、リンの頭文字を取って、KREEPクリープ。これのお陰で、わたしたちは月に来れたんだよ』

 説明されているうちに、だんだんと記憶が蘇ってきた。

 KREEPクリープは月の起源、つまり月がまだ生まれたてで、ドロドロに溶けたマグマの海に覆われていた時代に由来する鉱物だ。最も有力な仮説では、原始地球に火星ほどのサイズの他の天体が衝突し、砕けた破片の一部が集まって月になったとされている。

 衝突の際の膨大な熱量で融解した月は、やがて冷やされて結晶化し、鉄とマグネシウムのケイ酸塩である橄欖かんらん石や輝石などの鉱物が最初に沈降して月のマントルを形成した。

 凝固が約75%進んだ頃になると、融点の低い灰長石アノーサイトの斜長岩も結晶化し始め、密度が低いために浮き上がって、高地の固い地殻を形成していく。

 そして最後に、このどちらにも含まれない成分がマグマの中で徐々に濃縮され、地殻とマントルの間に挟まれた特殊な成分を持つマグマが形成されていった。

 それが、KREEPクリープの祖先となった。

「そうだ……思い出した。元々嵐の大洋に多く分布していると予測されていたKREEPクリープが想定以上の密度で発見されてから、マリウス・ベース計画への出資は比較にならないほど増加したって」

『それまでKREEPクリープは資源として期待できるほどの量は無いと思われてたし、他の資源だって月面の開発費と釣り合うほどの物は何も無いと考えられてたの。けどマリウス・チューブ周辺の地下での調査結果から、月面の三分の一を掘り返すまでに最低でも五百億ドル、最大で三十兆ドル規模の産出量が見込まれた。……まぁ、地球の四分の一のサイズの天体を丸ごとたたき売りしてその額だから、高いのかどうかはわからないけど』

 KREEP、特にその中でも希土類元素レア・アースと呼ばれる希少金属レアメタルに属する鉱物の一グループは、鉱物資源としては非常に大きな価値を持つ。

 モーターやスピーカー等に使われる磁性体や、ディスプレイやあらゆる照明に使われる蛍光体、光ディスクや光磁気ディスクといったディスクタイプのほとんどの記録媒体の記録層、果てはレーザーや原子力産業の制御棒、顕微鏡や天体望遠鏡の光学レンズにまで。

 機械製品の製造が盛んな先進諸国であるほど需要が高まるこれらの産出地を巡っては地球上で何度も政治的、経済的な衝突が起きるほどで、その手つかずの鉱脈とも呼べるものがあると言われれば、飛びついてくる野心家はいくらでもいるはずだった。

『――それでやっと、ちょっとだけ優勢』

 そこまでしても、十分ではなかった。

 ここまで聞けば彼女が何の話をしているのか、僕にもだんだんと飲み込めてきた。

 僕とライラの年齢自体にそう大きな差はないが、彼女は幼い頃から宇宙に大きな関心を持つ子供だったらしい。

 それだけに、ずっとネットやテレビを介して見続けてきたのだろう。月面開発という、彼女と志を同じくする人々の夢が、いかに多くの障害に阻まれてきたのかを。

 アポロ十一号が初めて月への有人着陸を成功させたのは一九六九年であり、月面基地建設の計画自体は当時から存在したという。

 しかしそれから何十年経っても、月面に基地が作られることはなかった。どころか一九七二年のアポロ一七号を最後に、人類は月へ人間を送ることさえも辞めてしまった。

 それは単に、月面という場所の開拓が困難だったからではない。

 アポロ時代に行われた宇宙開発競争の一番の原動力だった東西冷戦の終結という政治的な理由と、コストがかさみ過ぎる上にリターンが見込めないという経済的な要因。

 つまりは『月を目指す価値がない』と人々に見限られてしまったこと自体が、宇宙開発が停滞した最大の原因だったのである。

 僕を含む二百人の建設者(アーキテクタ)は月面に来てから、ずっと月の過酷な環境と戦ってきた。

 しかしこの戦いはその時から始まったわけではなかった。

 二〇一七年に『かぐや』がマリウス・ヒルズ・ホールを発見してから。

 あるいはそのずっと以前から。戦いは続けられていたのだ。

 ライラやアームズバー総監督のような宇宙を愛する人々が、自らの愛する宇宙の価値を人々に認めさせるための、戦いが。

『SNSでの口コミが広がって、LPAとその関連組織がいくつもの企業と交渉して、大統領や首相や国家主席を説き伏せて。それでようやくスタートラインに立てた。ギリギリの、いつ崩れてもおかしくないバランスの上で。……二年前、開園したばかりの遊園地がたった一度の事故で閉鎖されたのを覚えてる?』

「ああ、IT系で成功したベンチャー企業が新規参入して作ったやつだろう」

 開園一週間目にしてアトラクションのコースターが落下する事故が起こり、乗客のうち四人が重軽傷を負った。設計段階と点検作業に不備が見つかり、SNSでの炎上が炎上を呼んで、上層部が揃って退陣する騒ぎになった。

 岩壁に囲まれて、白い宇宙服を着たライラの横顔は見えない。

 けれど彼女には、同じことがこの計画に起きる未来も見えているのだろう。

『天秤に載っているのは私達の命。言い換えれば道徳的安全性。公共倫理の忌避感を呼び起こさない、クリーンで完璧な開発計画。要するに、誰も死なないこと』

 今は誰もが意見に力を持っている時代だ。

 情報的民主化といえば素晴らしいが、それがひとたび牙を剥けば、どれだけ大きな組織でさえ数知れない民衆の怒りに焼き尽くされかねない。

 世界中から注目を集めているということは、期待を裏切ったと判断されれば世界中を敵に回すという意味でもある。

 障害は多い。

 政治的、経済的な障壁。

 それを乗り越えれば、月面の環境という壁。

 さらにその先にも、事故や予期せぬ重大なアクシデントというリスクはうず高く山のように立ち塞がっている。

『でもね、だからこそ』

 ライラの声は死んでいなかった。

 どれだけ多くの障害があっても、夢を見続けた者として。ただひたすら夢を追い続けた結果、こんな所にまで来てしまった者の強さがそこにあった。

 汎用宇宙服ベーシックを着た熱情家の同僚は立ち上がり、腕を大きく広げて言う。

『楽なんかじゃない、簡単なんかじゃない。だからこそ、やる価値がある』

 ヘルメットの反射面の奥で、彼女は笑っていた。

 これは勝てないな、と内心素直に負けを認める一方で、ライラにそんな弱さを見せたくないと思う程度のプライドが自分の中にあるのも感じていた。

 ここは宇宙だが、同時に建設現場だ。

 負けてはいられないし、けおされたみっともない姿も見せてはいられない。

 僕だって、一端のプロとしてここにいるのだから。

『わたしはそう思うんだ。ツヅキは、どう思う?』

「そこに造るべき物があるなら、どんな状況でも造り上げてみせるさ。それが建設業者ぼくたちの矜持だし、建設者アーキテクタの矜持でもある……はずだ」

 最後に少しだけ日和ったのを勘付かれてはいただろうけれど、聞かれなかったフリをして僕はライラと十五分を過ぎていた休憩時間に別れを告げた。

 視界オーグのバイタルからは疲労の表示が消えて、代わりに心拍数上昇というおせっかいな忠告が示されている。けれど確かにライラとの会話は、アームズバー総監督の演説よりも、僕の心には強く効いたらしかった。


 それから二週間と四日で、『蓋』の建設作業は終わった。

 第二次作業団が月へ来てから五ヶ月目。

 マリウス・チューブに隕石が直撃するという予測が出される、三日前のことだった。


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