第8話 演説と、楔と、『蓋』
演説というのはある種の技術だが、そこに聴衆を惹き込む謎めいた魅力を込められるかどうかは天性のものだとも言われる。そしてその点において、この
「――これから約半年間。諸君の健闘を、期待する」
メッシュの入った力強い金髪と、鍛え抜かれた肉体。
壇上に登るアームズバー・スミス総監督はマイクすら使わずに肉声で我々の仕事が持つ壮大な意味と、ここにいる一人一人がそれを達成するに値する
そう、肉声だ。セレスティノ元班長の言葉通り開催された歓迎パーティーは、第一次作業団の設置した世界一豪華なプレハブ小屋こと
ハウスの内側は地球に近い常圧大気環境が再現されているので、アームズバー総監督は本来のオペラ歌手を思わせる迫力ある声量を活かし、朗々と謳いあげたのだった。
最大といっても所詮は現状の月面における最大であり、ちょっとしたバスケットコート程度の広さしかない。しかも水生産チームの十二名は、掘削拠点のハウスから映像中継で参加しているという有様である。
にも関わらず、僕を含めた二百人の仲間たちは誰もがリラックスしてちょっとした仲間意識を形成しつつあったし、アームズバー総監督の演説によって胸の内に小さな火が灯るのを感じていた。
もしここに月面に降りたばかりの僕のように内心では恐怖が芽生えかけている者がいたとしても、彼によって熾された情熱の火は、それすらも松明のように明るく輝く道標に変えたことだろう。
士気と団結。そしてアームズバー総監督への信頼。
それら工事開始の初期に必要な要素をすべて勝ち取った彼は、しかし最後に水を差すことを忘れなかった。焚きつけた火が燃え盛りすぎて弾けてしまわないように、自制心という楔をきちんと打ち込んでおくのが彼流らしい。
「最後に一つ。
食料、水の確保という人員維持のための資源確保にある程度目途がつき、第二次作業団が担当する区域の地盤補強も初期段階のそれを終えると、やがて次の仕事が与えられた。
どれも疑いようもなく重要な仕事には違いない。けれどこの時期の
それはつまり、『蓋』の建造だった。
「ナシュガル職長、やっぱり駄目だ。ソフトウェア職長のロレッタに見せてみたけど、こいつは中じゃなくハードの問題らしい。忙しいところ悪いんだが……」
『……わかった、見せてみろ』
ナシュガル・クマールはそう言うとやっと手を止めて、僕の差し出したモジュールを受け取った。彼が着ている宇宙服は万能かつ巨大なフォー・アームスと対照的に、最低限の機能しか持たない薄地の宇宙服だった。
指先の感覚が重要な特殊技能者向けに開発された薄布の宇宙服(シームレス)には、月の極寒と日照、そして放射線を数時間程度防げるだけの機能しか与えられていない。
圧縮空気の供給はもっぱら頭につけた生命維持メットでのみ行われ、それも一日とは保たない量しか充填されてはいないのだ。
月面での危険な作業には心許ないというより恐怖でしかないチャチさではあるが、シュナガルや一部のそれを着ることを許された人々はいつでもシームレスで作業をしている。
青地で身体の輪郭を露わにするそれを、最大限のパフォーマンスを発揮するために躊躇うことなく着続ける彼らと彼らの指先には、いつも密かな憧れの視線が集まっていた。
『終わったぞ。端子の接続が一つだけ緩んでた。
「さすが、早いな。助かるよ」
『礼を言われるほどの事じゃない。自分の働きで返してくれ』
こちらを見もせずに呟く彼の手から、苦笑しながらモジュールを受け取る。
インドの最下層民(アヴァルナ)家系の出身だと憶することなく表明する彼は、祖国に未だ残る差別などというくだらない歴史の妄執を見返すため、この計画に参加したのだそうだ。
MITを首席で卒業しておきながら、手を使う仕事がしたいからと一介の修理屋に収まっていたナシュガルはいつでも無愛想だ。しかし本当に必要な仕事を頼まれた時には決して断らず、彼に頼んで直らなかった機械的な故障は一つもなかった。
一抱えのモジュールを持って、ナシュガルのいた作業場である耐熱布テントの下を出る。
そこは細長く続くマリウス・チューブの内側ではなく、底部から五十メートルほど上のマリウス・ヒルズ・ホールの付近だった。
果てしなく広がる灰色の地平線の手前で、何十人という
白の
自分の立場も忘れて光景に見惚れそうになるのを振り切り、拡張視界(オーグメント)に今の仕事仲間を呼び出す。僕は観客ではなく、あの役者のうちの一人なのである。呆けている暇はない。
『もしもし、綴木さん。通気弁制御モジュールはどうなりましたか?』
「結局ナシュガルに頼んだよ。端子が緩んでいたらしいが直してくれた。今から持って行くから、他の八つも確認しておくように伝えてくれ」
『わかりました、お疲れ様です』
両手がモジュールでふさがっていたので、口頭で
一時的に通話相手を表示していた
日本人は二百人の
今では話すたびに日本語だったり英語だったりが入り混じっているが、そんな事をいちいち指摘している余裕もないほどである。
では何故、そこまで忙しく働いていながら月面地表などにいるのか?
答えは簡単。今僕たちが取り組んでいるのが、直径六十五メートルのマリウス・ヒルズ・ホールに『蓋』をする工事だからだ。
ホールに近付いていくと、ホールの淵に並べられた落下防止柵に沿って
ホールの内側にはぐるりと縦穴を巡る金属環が二つ嵌められ、その下にはホールのおよそ半分を覆う複合素材の『蓋』が建造されようとしていた。
ホールの淵からは建造中の『蓋』へと降りるための
モードを切り替えることで、同じ機械でもまったく異なる用途に使うことができた。
フォー・アームスや
最終的には三枚の複合素材板によって三重の
天井に開いたマリウス・ヒルズ・ホールさえ塞いでしまえば、チューブはわずかな補修をするだけでほぼ完璧な気密環境となる。
そこに気体供給棟で合成した窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素の混合気体を注入すれば、宇宙服なしでもおおよそ地球と同様の空気を吸って吐くことができるようになる。
もっとも、少しばかり寒いという課題はあるが。
金属環に嵌め込まれた、ツギハギの複合素材板でようやく半分が埋まるかという一枚目の『蓋』へと
『設置済みの二つのモジュールと、設置予定の六つには問題はありませんでした。一応予備の物まで含めて、再点検済みです』
「わかった。こいつも嵌め込んでくれ」
『預かります。……綴木さん、もしかしてしばらく休憩を取っていないんじゃないですか?
「え? ……本当だ、気付かなかったな。あ、そういえば昼飯もまだだったか」
『危ないでしょう。ここでは疲れで足元がふらついただけで何が起きるかわからないんですよ。
「ああいや、そういうわけじゃ」
『では、休んでください。それも仕事のうちです。最低十五分ですよ?』
「わかった、悪かった! ちゃんと休むよ、飯も食べる」
『ぜひ、そうしてください』
メットの反射光の奥から覗く里美の切れ長な瞳から逃れるように、モジュールを渡すと『蓋』の端の岩壁を掘削して作られた休憩所へ背を向けた。
通気弁制御モジュールは
水原里美は冷静沈着で自分にも他人にも厳しい仕事人のように見えて、実は結構優しいところがある。理に適っていて、しかも相手の心配をしているからこそ出てくる叱責を受けるとどこか申し訳ない気分になって唯々諾々と従ってしまう。
しかも、いつだってそれで正しいのだ。
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