第2話 新天地にて


『わたし、ライラ。ライラ・シルヴェン、フィンランド出身。あなたは?』


 実際には数秒、体感では数十分。たっぷりと時間をかけて、僕が光景への感動で恐怖を綺麗に洗い流しきった頃に、彼女は話しかけてきた。

 近距離赤外線による個別会話クローズ・チャット。数メートルの距離にいる相手と一対一で話すための宇宙服の基本的な機能だ。

 必要とあらばどれだけ距離が離れていようと、また何百人が相手でも会議のように話すこともできるが、僕らの雇い主であるLPAは勤務中にプライベートな会話を楽しむ自由を認めている。

 それはちょっとした私語によって作業効率を落とすような未熟者は月面の二百人の中にはいないという信頼の証であり、月でならやろうと思えばいくらでも制限できる『基本的人権』を保障するという福利厚生の一環でもあった。

「ヨウイチ・ツヅキ。日本のカシマからの出向、いや「遠征」組です。素晴らしい景色をありがとう。お陰で緊張がほぐれました」

『……その堅苦しい言葉遣い、日本人は英語が苦手だっていうあれ? それともわたしはまだ月面開拓の仲間として認められてないのかな』

「ああ、いや……悪かった。一応誰にでも初対面の時はビジネス用の口調にしてるんだ。これは、確かに僕たちの癖かもしれない」

 腰を折るまではしなかったが、会釈と共に挨拶をするとライラが不服そうな声を出した。相手の求めている態度がわかったので、すぐにくだけた英語に直す。頭部ガラスの反射光の隙間から、ライラが笑顔を浮かべたのが見えた。

 手が差し出されたので、握り返す。

 そうして僕たちは、お互いに月でできた第一号の友達になった。

「しかし、本当にすごいな。そりゃ月から地球が見えるのは当たり前かもしれないけど、こんなに衝撃的だとは思わなかった。きみが教えてくれなかったら、気付くのはずっと後になってたかもしれない」

『でしょ? わたしも感動したから誰かに教えたくて。そうしたらちょうど月の景色におどかされてそうなあなたがいたからつい、ね』

「ひどいなまったく。大当たりだ」

 苦笑して、ヘルメットの後ろに手を当てる。LPAでの訓練期間中には様々な国の出身者と出会ったが、フィンランド人に出くわすのは初めてだった。

外見的には女性というより少女に近いようにも見えたが、それはそもそも今月面にいる人間の大半に言えることだろう。

 月面という未知の場所で不測の事態にも対応できるだけの経験と体力、それに勇気を兼ね備えた人材ということで、一部の例外を除き、月面基地建設の実働部隊二百人は二十代から三十代の若い男女で構成されている。

 北欧の女性の年齢を読み取るのが得意だとは言わないが、どう見積もっても彼女は二十代の半ばといったところだろう。もちろん、よほどの逸材に違いない。

 僕や、まもなく月面ここに集う他の百九十八人と同じように。

『すべての人員及び資材の下船を確認した。着陸船ランダーの離陸を行うので、建設者アーキテクタは全員私のいる位置まで離れてくれ。離陸を確認後、マリウス丘へと移動する』

 ヘルメットの耳部スピーカーから唐突に割り込む声が響き、前面ガラスの拡張視界オーグメントにいくつかの情報が表示された。

回線形式は特定グループへの一方向通信ワン・トゥー・チーム。発信者は先遣隊として一足先に月面を訪れていた第一次作業団の案内役。彼の名前はセレスティノ・モンテスで、指揮系統では第二次作業団の四番着陸斑である僕たちの一時的な班長になっている。

簡略化されたマップでは緑の大きな四角が一つ、青い点が十五個、一つずつの赤い点と黄色い四角が表示されていた。それぞれ着陸船ランダー、僕たち建設者、セレスティノ班長、移動用の月面車ローバーを示しているようだ。

 ちょっとした私語によって作業効率を落とすような未熟者は月にいない。

その信頼を裏切らないために、わざわざ立体的な矢印で先導までしてくれる視界オーグに従って僕とライラはセレスティノ班長と月面車ローバーの下へと歩き出した。

 歩きながら、ライラは空中を何度かつつくような奇妙な動作をして、

『ツヅキのアドレス、リストに入れておいた。これからよろしくね、ブラザー!』

 と、反射するガラスの奥で微笑んだ。

 月面のすべての宇宙服にインストールされているクラウド型の通信ソフトウェアには、リスト機能が備えられている。普段から連絡を行う同じ現場のチームメイトなどを登録しておくための機能だが、個人的な友人や知人を登録することも認められていた。

 しかたなく、というにはいささか積極的に僕は指先を空中で踊らせて視界オーグにリスト機能を呼び出し、ライラを『友人』リストの記念すべき第一号として登録する。

 それから僕たちはセレスティノ班長の待つ月面車ローバーの下へ、着陸船ランダーの離陸時のファイアで黒焦げにされないために一目散で駆け出した。

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