第1話 フローティング・ジ・アース

 着地の瞬間には、わずかな震えがあっただけだった。

『船内気密系、安全セーフティ。通信アンテナモジュール、安全セーフティ。CPU及び関連演算系、正常稼働オペレーション。下降噴射系、使用可能アバイラブル。上昇噴射系、安全セーフティ。姿勢制御ブースタ、使用可能アバイラブル。サスペンション、正常稼働オペレーション。人員輸送キャビン、正常稼働オペレーション。資材輸送キャビン、正常稼働オペレーション。ランダーシックス、全系正常システムオールセーフティ

 パイロットの機体点検の声を聞きながら、僕は薄暗い船内で目を開ける。

 着陸船ランダーのサスペンションと着陸用エンジンは現在実現しうる中で最高の性能を持っていて、故郷で何年か前に味わった大きめの地震の方が揺れたくらいだった。軽い眩暈はあったが、それが遊園地のフリーフォールにも似た浮遊感を味わったことから来るものなのか、それとも背筋に走るぞくぞくとした高揚感から来るものなのかはわからなかった。

 わずかに続いていた着陸時の振動も収まると、パッと着陸船ランダーの狭い船内に明かりが灯る。宇宙服の両耳部分に取り付けられたスピーカーがパイロットの『着陸シークエンス完了。これより乗員の下船に移る』という管制官向けの連絡を拾い、同時に空気が抜ける音がしてエアロックを兼ねた外壁の一部が持ち上がった。

『あとの主役は君たちだ。がんばってくれ』

 というパイロットから乗員全員への激励を受け取り、アポロ計画の時代にはわずか三人だった定員を十七人にまで拡張した最新鋭の着陸船ランダーから、ぞろぞろと宇宙服姿の輸送人員十五人が下船していく。僕もまた、その後に続く。

 外には、灰色の地平線だけがあった。

 玄武岩の地表は太陽光を反射してわずかに白く光っているようでもある。

 地球の四分の一しかない大地の果てはこころなしか曲がっているのがわかり、そしてその丸みを帯びた地平線に至るまで、視界に映るのは灰色の岩と同色の砂だけだ。

 荒涼とした不毛の大地のどこを探しても、生命の優しさは存在しない。

 着陸船ランダーも最先端技術の塊だが、マリウス・ベース計画のためだけにスペースシャトルとは異なる方式で建造された月往還船リターナには驚いた事にシャワーもトイレもベッドも、真空パック式のジュースサーバーさえ完備されていた。

 マリウス・ベース計画に使われるすべての機材は最先端であり、必要がある限りの最高級品である。国や企業の投資、そして一般からの寄付によって集められた資金を惜しみなく投じ、ここには地球上のどの場所よりも豪華な設備ばかりが揃っている。

 そして、それ以外に頼れる物は何も無かった。

 放射線、昼夜の劇的な温度差、真空、そして隕石。

 月面においてただ息を吸って吐くという行為は、地球ほど簡単なことではない。宇宙服を脱いだ瞬間から死へのカウントダウンが始まる。

 この灰色の衛星のどこへ逃げても、月面の環境から逃れることはできない。頼れるものは最新鋭の設備群と、先遣隊を合わせて二百人にのぼる仲間たち、それに地球から送られてくる指示や情報のデータだけだ。

 地面を数歩歩くと、上下でまっすぐに切り分けたかのように星空の光る宇宙と嵐の大洋の岩場だけが視界を埋めた。

 不安がない、などとは言えなかった。人並みの憧れこそあったが、僕はかつての宇宙飛行士たちと違い幼少期から宇宙を目指して訓練を重ねていたり、軍人としての強靭な精神や肉体を見込んでスカウトされたわけではない。あくまでここにいる多くの者と同じように、技術や能力、そして専門知識のために集められた宇宙の素人なのだ。

もちろん今では月面先駆機構ルナ・パイオニア・エージェンシーでの訓練と指導を受け、月面に行くことが可能であると認められるだけの準備はしてきた。しかしだからと言って、長年に渡り覚悟を決めてきた超人たちとすぐさま並べるというわけではない。

 どこまでも続く灰色の世界には、僕の本能的な興奮を押さえつけ、忘れていた恐怖を再び芽生えさせ、足をすくませるだけの迫力があった。

 早まっただろうか。故郷の母親が心配していたように、もう二度と地球へは帰れないのではないか。そんな恐れが頭をもたげる。

 とはいえ僕もまたプロの技術者の端くれだから、もう少し時間をかければ、そんな感情をきちんと抑え込むこともできただろう。不安や恐怖に負けて仕事がおろそかになるような人格なら、月にまで来ることはできない。

 けれど実際にはそんな必要すらなかった。

 とんとん、と誰かに肩を叩かれる。大概の衝撃は吸収できる素材で作られた宇宙服なので、うっかりすると気付かないほどの刺激だったが、念のため右を振り向いてみると同じように熱発散を考慮した白い宇宙服姿の誰かが立っていた。

 言うまでもなく着陸船ランダーに同乗していた今後の同僚なのだろうが、宇宙服のヘルメットには強烈な太陽光による失明を防ぐために光を反射、屈折させるガラス素材が使われている。

 なのでお互いの顔を明瞭に見ることができず、そもそも知り合いでもないので、おそらくは金髪の女性だろうということしかわからない。

 彼女はそんなことも気にせず、どころか喋ることさえしなかった。ただ僕の肩を叩いた手をそのまま上に上げ、人差し指以外の指を宇宙服の何層もの厚い生地が許す限り折り曲げ、上を指差す。そして、彼女自身も上に頭を傾けた。つい釣られて、僕も上を見上げる。

 地球が、そこに浮いていた。

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