4-2

 数日間振り続けた長い雨が終わった日の夜。私は事務所の窓から夜空を見上げていた。徐々に増えてきた雲間から、遠くの星がちかちかと光っているのが見える。

 いつもなら彼が来てもおかしくはない時間だったけれど、今日は気配がない。もしかしたらツリーハウスの様子を見に行って、そのまま寝てしまったのかもしれない。

 変わりなくやってきた仕事にも、最近一区切りがついた。チェインがやっていた施設関連の資料整理のめどがついたのだ。今後彼はこの施設より、団体のほうに活動拠点を移すことになるかもしれない。そうすれば、ここも少しさみしくなる。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、廊下のほうで物音がした。覗きに行ってみると、暗がりに誰かがしゃがんでいた。ライトを向けるとまずダリアの顔が見えた。まっすぐな光に動じないくらい、深く眠りこんでいるよう。

 影が動いて、背の高い人影がダリアをおんぶしているのがわかった。私はその人影に、おそるおそる声をかける。

「チェインさん?」

 彼は少しばかり固まって、その後こちらに振り向いた。私は廊下の非常灯をつけて、チェインに近づく。

 ダリアが不眠症を抱えていることを知っている私は、彼女が薬で眠らされていることにすぐ気がついた。ああ、ついにこの時が来たのだと理解する。彼が派遣されてきてからずっと予感していたことが、今、起きている。

 チェインはこわばった顔をしていた。二人ともしっかりと上着を着ていて、彼のほうはいつもの鞄も持っている。

 私は施設の子を落ち着けるためにしていたのと同じように、なるべくいつも通りに話しかけた。

「もしかして、ダリアが星でも見たいって言ったの?」

「――いや。俺が帰ろうとしたら、外の原っぱでこの子が眠っていて。部屋まで連れて行こうと思いまして。」

 彼女は部屋で就寝の準備ができないと薬を飲まないと、三年の付き合いで彼もわかっているはずだ。それでもその堂々とした声にチェインの決意を感じ取って、私は困ったように彼の背中のほうを見る。

「まあ、そうなの。ダリアには明日私から注意しておくわね。」

 はい、と控えめな返事。

 それからチェインはダリアの部屋とは逆の方向に二、三歩歩いて、振り返らずに言った。

「エマさん。……いつもありがとうございます。」

 ダリアが身じろぎをして、チェインの背中にぴったりと寄り添うのが見えた。初めて見る光景だけれど、私にはそれがごく当たり前のことのように思えた。

「ありがとう、チェイン。――これからもダリアをよろしくね。」

 言葉の意味が解ったかはわからない。彼は振り向かなかったし、私もそれを追うことはしなかったから。

 事務室でしばらく書類の整理をしてから、引き出しに忍ばせておいた小さな果実酒の瓶を持って庭に降りた。雲はすっかり晴れて、明るい月が芝生をつややかに照らしている。暗闇を湛えたままの林は雨粒のせいかいつもより輝いていた。

 ツリーハウスに登ると、彼がデッキに出した低い椅子に腰かけていた。椅子は一つしかないので、私はその隣に座る。

 私たちの間に無駄な会話はなかった。お酒を差し出すと彼は懐から(どうして持っているのか謎だけど)小さなガラスのコップを出して、自分の分だけ注ぐ。私は返ってきた瓶に直接口をつけて甘いお酒を一口、口にふくんだ。それだけでふわふわとした気分になるが、頭ははっきりとしている。

 雨で冷やされた風が火照った頬をなでるのが気持ちいい。風がなくなると寂しくなって、私はふらふらと体を動かした。

「また妙な酔い方をしているな。」

「ええ。いいことがありましたから。」

 いつの間に飲んだのか、空のコップを足元に置くカタン、という音が妙に大きく聞こえた。

「いつから気がついていたんだ。」

 彼の問いかけに、お酒の入った頭ながら「最初からですよ。」と迷いなく答えた。

「私、施設にいた子たちの顔は忘れてませんから。」

「何年も経っているだろう。」

「面影はありますよ。」

 彼らの様子を思い出すと、自然と笑い声が漏れた。自由時間になると部屋に駆けこんでてんでバラバラのことをし始める、年齢も様々な子供たち。もうあの広い部屋で自由に遊んでいた子たちのうち、隅っこで大人しくくっついていた二人しか残っていないのだと思うと、目からも何かが零れ落ちる。

 私はぐいっと瓶をあおった。視界がふらついて、星が倍にも増えたようなきがした。もうツリーハウスの下には降りられないだろう。

「……そういえばチェインが来て間もないころ、あいつと話をしたな。」

「なんについて?」

「正義について。」

 ひょい、と瓶を取り上げられる。取り返そうと手をのばしたけれど、ふらふらと宙をさまよったのちに彼に取り押さえられてしまった。

「正義というやつは、答えはあっても正解はない。立場によってころころ変わる。そんなもので縛ろうとするから、ひずみを生む。」

「そーですか。」

「……だいぶ酔ったな。」

 彼はよく、どうしてこんな弱い酒で酔えるのかわからないと言っていた。言われすぎて嫌気がさした私は彼にパッチテストをやってもらって、数値で自分のお酒の弱さを証明して、以来彼は私から黙ってお酒を取り上げるにとどまっている。

「いいじゃないですか、今日くらい。」

「そんなにいいことか。」

「はい。だってチェインさんが、ダリアを連れて行って、くれましたから。」

 彼が身じろぎする気配がした。

「……そうか。」

「はい。」

 文句を言われることなどかまわず、私は彼にもたれかかった。

「あの子なら、心配ありませんから。」

 彼は気持ちを抑えるときによくやるように、鼻をふんと鳴らした。

「責任はすべてあいつに行くだろうからな。我々には関係のない話では?」

「まあ。せっかくあの子が自由になれるのに。」

「あいつらの行く末なんぞ知らん。」

「そんなあ。」

「きっと前途多難だぞ。」

「そういう意地悪を……。」

「ここにいたほうが幸せだったと思うかもしれん。」

「それは、ダリアが決めることですよ。だけど、ここにいたら……あれですよ。」

「どちらが良かったかすらわからないって言いたいのか?」

「そう! それです!」

 私は彼のわき腹をぽすぽすと叩く。

「そこまでわかっているなら、ちょっとくらい、いいこと言ってください。」

 手を取り押さえられてバタつく私をなだめるように、彼がはっきりとした声で言う。

「今まで実験体として、物として扱ってきたのだ。最後までそれを通すのが彼女への、せめてもの礼儀だ。」

「……そうですね。それがあなたの正義ですもんね。」

 私は力の入らなくなってきた腕を降ろして、今度こそ彼に頭を預ける。不思議なことに、彼は幼子を寝かしつけるように私の肩をゆるく叩いてくれた。


 これを書いている時点、二人の失踪から一か月経った今でも、二人がどうなったのかはわかっていない。団体のほうに一応義務として報告はしたものの、特にこれといって行動を起こすような気配はない。この間やっと、チェインの代わりの人員が配置されると連絡が来たくらいだ。

 彼女は幸せになれるだろうか。それはもう少ししないと解らないだろうし、もしかしたら私たちはそれすら解らないままかもしれない。

 私ができるのは、彼女がぶじに先生と会えて心底喜んだことだろうな、と思うことだけだった。

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Laboratory -in the order of time scales- 水沢妃 @mizuhi

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