3-2

 男はドクターの根城になっている第三研究室を出た。白い廊下は薄暗く、人気が全くない。この広い施設に残っているのは事務の職員とダリア、そしてドクターの四人だけだ。秘密保持のために外出が週一回に制限されていて共同生活のようになっているが、施設が広すぎるために顔を合わせる頻度は少ない。もっともドクターと男はモニター越しに、ダリアに気がつかれずに顔を合わせているのだが。

 事務所の前を通った男の目は事務の女性とダリアが談笑している姿を捉えて、興味本位で彼女たちに近づいた。先に気がついた女性が彼に声をかけると、ダリアもふっと振り向いた。いつも画面越しに見ている時と同じように、起きぬけのような、あまり表情のない顔。

 男より年下の彼女は、学校の先輩に出会ったかのように軽く会釈をする。

「おはようございます。」

「おはようダリア。エマさんもおはようございます。」

 挨拶を交わすと、男は自然とダリアの手元に視線を移した。ダリアもそれに気がついて手元を見る。シロツメクサは事務員が用意したのか小さな花瓶に入れられていた。

「さっきお花を摘んできたんです。玄関のところに置こうと思って。」

「今日は見学の方が来るんでしたっけ。」

「ええ、午後に二組いらっしゃいます。チェインさん、案内をお願いします。」

「わかりました。」

「あとダリアはそれを置いてきたら手を洗って図書室にね。」

「はい。行ってきます。」

 和やかに、けれどしっかり業務連絡をした後、ダリアは玄関に向かって歩いて行った。

 男はドクターと同年代だろう事務の女性に、ダリアの血圧のデータを渡す。

「さっき、ドクターとダリアの話をしました。」

 女性はまじまじと男の顔を見てから、視線をそらしてほほ笑んだ。

「あの人、おしゃべりだったでしょう。」

「あんなに話をするドクター、初めて見ました。」

「本当はおしゃべりなのよ。それを聞いてくれる友達が周りにいないから無口にみえるだけで。」

 男はちらりと天井のカメラを見た。ドクターはダリアを見ているだろうし普段は音を消しているからこちらの会話は伝わっていないはずである。それでも気になってしまうのだからしょうがない。

 そんな男を見て、事務員はくすくすと笑った。

「自分から語ることで何でも知っているように、人に見せるんですって。」

「……強がりですね。」

「強がりなのよ。」

 そのときタイミングよく事務所の電話が鳴った。事務員は男に「とってごらん」と言う。訝し気に受話器を取った男は、電話本体の画面に「第三研究室」と言う文字を見た。

「あ。」

「すまんな、強がりで。」

 受話器の向こうからこもったドクターの声がする。


 午後になってやってきた外部の研究者を相手にしていたチェインは彼らを送り出してから図書室へ向かった。図書室は一般に開かれているが施設が辺鄙なところにあることもあって利用者は少ない。今日も閉館前だというのに人気はない。

 今の時間はダリアが一人で作業をしているはずだった。しかし、貸出のカウンターに彼女の姿は見えない。

「ダリア?」

 静かな図書室に声が響く。本来「お静かに」と言うべき人の声は奥の書架のほうから聞こえてきた。

 男が声のしたほうに行くと、そこには一冊の本を抱えて泣き崩れているダリアがいた。

「――どうしたの。」

 顔を上げたダリアは、別に悲しそうな顔をしているわけではなかった。いたって普通の、花を摘んでいた時と同じようなほとんど感情の見えない顔で目から涙をこぼしている。

 男はダリアの持っている本を見た。開かれたページは短い文章が羅列している。一見して詩だとわかるそれを見て、男はその本を読んだことがあるのを思い出した。確か表紙は金の箔押しで、緑色の布の貼られた丸背のクロス装になっているはずだ。

「その詩集がどうかしたの。」

「これは――。」

 かすれた声で彼女がつぶやいて、すぐに咳きこむ。涙を拭きながら本を閉じると、男の記憶と同じ装丁の本がそこにあった。

「昨日、先生が読んでいて。」

「先生。」

「昔お世話になった人です。読んでみるといいよって言ってくれて、それで探してみたんです。」

「よくあったね。」

 この図書館はジャンル問わず様々な本があるが、メインはやはり研究に関する資料や論文である。

 男の言葉に頷いたダリアは、本をやさしく抱えこんだ。

「先生が、いたみ、という詩を朗読してくれたんです。でも、途中でヘリコプターが通ったから、ちょっとだけ聞こえなくて。本当はどんな詩だったんだろうと思って読んでみたら。」

「読んでみたら?」

 ダリアが男に向かって顔を上げる。男は彼女の口元が少し上がっていることに気がついた。

「先生が読んで、わたしが聞き取れたところは、この詩の全部だったんです。」

「ええっと。」

 男はダリアの言葉に戸惑う。彼女は時々、伝わりづらい言葉を選ぶことがある。元々無口で人との会話をしてこなかったから、とドクターは言っていたが。

「つまり……ヘリの音が鳴っていた時、詩は朗読されていなかった、と?」

「……先生は、音を避けて、わたしに詩を聞かせてくれたんです。」

 彼女の言わんとしていることがわかった男はなるほど、と頷いた。そしてまた、ダリアに問いかける。

「じゃあどうして君は泣いているの。」

「わかりません。ただ。」

 ダリアは詩集の凹凸のある表紙をなでている。拭いた後も涙は零れ続けていて、男はそれが本にかからないか気が気ではなかった。

「先生と同じ音を聞けていたってわかって、先生と、同じ空間にいられたような気がしました。」

 静かな図書室には雨音さえも聞こえない。分厚い壁は元々この部屋が実験部屋であったことを物語っている。しばらく図書室の中にはダリアの鼻をすする音と空調の音だけが響いていた。

 ダリアはおさまってきた涙を拭いて、詩集を目の前の書架の下から三段目、右から四冊目の空白に、元の位置に戻した。黙ってかたわらに立っていた男は、立ち上がった彼女を静かに見下している。

「君は。」

 男の声に、ダリアは上を向く。平均より低い身長の彼女はどんな人でも見上げなくてはいけない。

 泣きそうな顔の男を見ても、ダリアの表情は動かない。口元の微笑も今は消えてしまっている。

「君は、その先生に会いたくはないのかい。」

 ダリアの目が見開かれた。

「……はい。会いたいです。会って、お話がしたいです。」

 男はそうか、とだけ告げてその場を去った。ダリアは男の行動原理がわからなくて首をかしげていたが、自分の仕事が終わっていないことに気がついてまっすぐ貸出カウンターに向かった。

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