3-1
所用を抱えた白衣の男は速足で上司のいる部屋へ向かった。
男の足音だけが響く長い長い廊下の先にあるその部屋は大きくも小さくもなく、今は物が少なくてがらんとしている。部屋の奥、いくつも並べられたモニター越しに彼女を観察している自分の上司、歳は経ているが研究職らしくない細くしまった体をしている男性にデータを手渡す。
「……ドクター。」
「なんだね。」
「一つ聞いてもいいでしょうか。」
彼女の血圧のデータを見ながらドクターはまた「なんだね。」と聞いた。血圧は今日も正常値。異常は見られない。
「どうして彼女……ダリアはこんな監視をするような形で経過観察をしているのでしょう?」
男はここに来てからの仕事をふり返る。主な仕事は書類の整理だが、毎朝彼女の健康状態をチェックし、ドクターに報告するのが彼に課せられた義務だった。けれど男は仕事の初日から疑問に思っていたのだ。経過観察とはいうものの、彼女の抱えている問題は不眠症くらいで、そこまで厳重な経過観察が必要とも思ない。
「君は元々この施設の職員ではなかったね。」
「はい。先日団体から派遣されてきたもので。その団体にもこの間入ったばかりですが。」
「この施設の概要くらいは知っているだろう。」
白衣の男は頷く。
「クローン技術の開発研究機関だった、と聞いています。主に人の。」
男の過去形に、ドクターは眉をぴくりと持ち上げた。
実験体百十九番、彼女は、しばらく前にダリアと名付けられた経過観察中の患者は、この研究施設が生産した最後のクローン人間だった。
ドクターは男の顔をじっと見た。それに男がたじろいだ時、ふっと視線を外す。
「クローン人間を生産することは実用段階にこぎつけようとしていた。我々は応用的な研究にシフトしていたが、長らくとある問題を抱えていてな。」
「問題?」
モニターの向こうで、彼女が雨合羽を着て、庭に出る。自然と映像が外のものに切り替わったが、そこは一面の霧世界。また画面が切り替わり、ドローンが彼女を追い始める。
「それを乗り越えるため、我々は研究をしていた。ところが、だ。」
男の疑問には答えず、ドクターは続ける。
「ジンドウダンタイとやらがこの研究施設にいちゃもんをつけてきた。実験体も人として生まれたのだから、人としての尊厳を与えるべきだ、などと馬鹿らしいことを主張してな。」
「それはそうでしょう。彼らだって人間です。」
男は自然とモニター越しに、自分より少し年下の彼女を見た。
ダリアは作業着と呼んでいる、丈の長いトップスと厚手のズボンの上に合羽を着て白い世界をさまよっている。やがて歩き慣れた未舗装の小道を外れ、その場にしゃがみこむ。服のそでをまくって、霧よりなお潔白なシロツメクサを摘みはじめた。
長めにちぎられた茎を持って花を束ねると、たちまちそれはブーケのようにこじんまりとまとまる。
彼女は実験体百十九番としてあの部屋で育った。そしてダリアという名前を与えられてからも生活拠点を移さず、この施設に残っている。
「私にはひかえめでおとなしい女の子にしか見えません。」
「わたしにとっては実験体百十九番という観察対象だ。」
「……ジンドウダンタイ、私の派遣元の発言と行動によって、研究は打ち切りになったと聞いています。彼女もダリアという名前をもらって、人権も保障されたと。」
「人権の保障、な。そう言えば聞こえはいいが。」
ダリアが立ち上がって、すべて見通しているかのようにまっすぐ部屋に向かって歩きだす。彼女の仕事には庭の管理も含まれるから、この庭は彼女の体の一部のようなものなのだろう。
「実際やつらがやったことは、施設にいたすべてのクローンに、やつらが実験体として生まれたクローン人間であることを教え、百十九番には失敗作として処分されるところだった、という事実を伝えたことだ。」
「それは……自分のことを知れたのなら、いい事なのでは?」
「どこがだ。事実、その時三十体いた我々の実験体は精神的に耐えられずに生命活動を停止させてしまったぞ。最悪の研究結果だ。」
ドクターは部屋のパソコンに保存されている、幾重にもロックのかかったファイルを開いた。男はそれを見て息をのむ。
発狂のち衰弱死十人、自殺十五人。残りの五人は自殺未遂で植物状態になり、脳死判定を受けている。
「そんなこと、団体には何も……。」
「あやつらは都合のいいことしか言わん。」
社会的に「いいこと」が、その人自身にも「いいこと」とは限らない、とドクターは小声で言った。男はそのフレーズに聞き覚えがあった。何かの本からの引用だったかもしれない。
「クローンは、自分たちが人工的に生み出されたものだと知っていた。ところがだ。」
ドクターはふん、と鼻を鳴らした。
「あやつらに人権を与える……? そんなもの、人類と自分たちが同等であると言っているに等しかったのだよ。」
「……言葉の通りだと思いますが。」
「前提が違うのだ。ジンドウダンタイとやらはクローンが人間以下の扱いをされていると思っていたようだが、クローン達はそうは思ってはいなかった。やつらは自分たちのことを『少し進んだ人類』だと思っていたからな」
「それは、まさか洗脳で。」
「それこそまさかだ。我々は何も言っていない。子供の想像力が自分たちを守る障壁として、あらぬ事実を作り上げたに過ぎない。」
普通の人間と同じように、と言う言葉を思いついた男は、自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
「団体の掲げる『平等』という正義が、彼らにとっては毒だったと。」
「……正義か。」
モニターが部屋の中に切り替わる。ダリアは雨合羽を窓際で脱いで外のフックにかけると、スリッパをつっかけて部屋の中に入る。そのまままっすぐ入り口に向かう彼女に合わせてカメラが薄暗い廊下に切り替わる。
シロツメクサを大切そうに持った彼女が廊下の奥へと歩くたび、頭上の照明が明るくなり、またもとの暗さに戻っていく。廊下には似たような扉が並んでいて、その向こうには彼女の部屋と全く同じ間取りがあることを男は知っていた。秘密保持のために一週間に一度しか外出が許可されていないため、男は部屋の一つに半ば住んでいたからだ。
「どれも優秀な実験体だったというのに。残ったのは欠陥品だけだ。」
「……その、欠陥というのは。」
医者である男には、彼女の体になんらおかしなところはないとわかっていた。二十歳を越えているにも関わらず童顔で子供のような行動をすることはあるにはあるが、環境がそうさせたと考えれば別段疑問するほどのことでもない。
ドクターははあ、とため息をつく。
「あの実験体は普通過ぎたのだ。」
「――は?」
「我々の目指していたDNA操作による能力向上も寿命の延伸も望めず。学力は平均値、芸術的素養もぱっとせん。あれではただの人間だ。特筆すべき点は何もない。研究対象から外し、処分先の掃除部に流す手はずを整えていたというのに。」
残念ながら、研究施設の閉鎖に伴って掃除部も解散している。
「……ずいぶんと人間的な処分ではないですか。」
「そうでもないぞ。オペレーターという、機械の部品としての扱いだからな。なにせ機械だから、基本的に労働時間に区切りはない。」
「……。」
あまりにも同じ調子で話す様子に嫌悪も怒りも湧かず、呆れてぽけっとしている男にドクターは彼女の血圧のデータを突き返す。
「結局、他の実験体のことを隠すために百十九番を閉じこめるしかなくなった。こちらにさんざん迷惑をかけたジンドウダンタイは、援助をしていることを免罪符に以降ちょっかいをかけて来なくなった。――お前という監視役を寄こしてな。まったくくだらない話だ。」
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